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壱の一 呪われた娘

 旦那様と出会うまで、私――(てる)(やま)(いろ)()の十九年の人生のほとんどはガラクタのようなものだった。


「このガラクタ娘!」


 バチンッ!


 お母様の平手が私の頬に炸裂し、畳の部屋に乾いた音を響かせた。叩かれるのは日常茶飯事だし、痛みにもとっくに慣れている。けれど、怒り心頭で大声を上げるお母様の顔を見るのは辛かった。


 私がどうしようもない役立たずだから、こんなにもお母さんを困らせてしまっているのだ……と罪悪感に酷く駆られて胸が押し潰されそうだった。


「申し訳ございません、お母様」


 ささくれた畳におでこを擦りつけ、私は何度も何度も謝罪の言葉を口にした。


「汚らわしい……」


 お母様が怒っている理由は、高価な化粧品のクリームを勝手に使われてしまったから。でも、本当はその化粧品のクリームを使ったのは私ではなく、妹の(あや)()ちゃんだ。けれど、お母様は勘違いして私に怒鳴り散らしているのだ。


 だから、悪いのは私。お母様に勘違いさせてしまう愚図な私が一番悪いのだ。


「何よ、その顔。まるで悲劇の主人公みたいに! 呪われているくせに、図々しい!」


 大声を張り上げ、お母様は勢いよく私の脇腹を蹴り上げた。私は嗚咽が漏れそうになるのを必死に押し留め、畳に再びおでこを擦り付けた。


「も、申し訳ございません、お母様」


「あの人の代わりにお前が死ねばよかったのに」


 去り際にお母様が口にした言葉が私の心に深く突き刺さった。何か、得体の知れない黒い感情がこみ上げてくるのを感じて、無性に怖くなった。


 これが怒りというものだろうか、嘆きというものだろうか。どちらにせよ、その感情に身を任せると自分が自分でなくなってしまいそうで、あまりにもおぞましくて私は畳の上で情けなく震えていた。


「何をしているの、お姉様」


 震える私を見下ろしていたのは袴姿のべっぴんさん――妹の(あや)()ちゃんだった。女学校から帰宅したばかりの様子で、どうにも機嫌が悪そうだった。


「あ、えと……」


 お母様に叱られたことを口にすることができず、私はモゴモゴと口ごもった。


「どうせ、愚図なヘマをしてお母様に叱られたんでしょ」


 図星を突かれ、私は力なく項垂れることしかできなかった。


「折角の春の陽気がお姉様の陰鬱な雰囲気で台無しだわ」


「ごめんね、彩花ちゃん」


「謝らなくていいのよ。お姉様がどうしようもないガラクタ娘だってことはわかりきっているんだから」


 可愛らしいハンドバッグで私の頭をコツコツと小突いて、彩花ちゃんはケタケタと楽しそうに笑った。


「可哀想なお姉様……ほほっ」


 ひとしきり笑ったあと、彩花ちゃんは目を細めてニタリと顔を歪ませた。この表情はいつものアレだ、と私は危機感を察知して身構えた。……最も、身構えたところで何の意味もないのだけれど。


「ねぇ、お姉様。この前、私の部屋を掃除してくれたでしょ」


「え? あ、う、うん……」


 また、掃除がきちんとできていないと怒られるのだろうか、とビクビクする私を冷ややかな視線で見つめて彩花ちゃんは顔を更にぐにゃりと歪ませる。


「そのお礼をしなくちゃ、と思ってね……お姉様の部屋を掃除してあげたのよ」


「え……あ、彩花ちゃんが?」


「そう。お姉様の狭くて、ボロくて、汚い部屋をこの私が」


 思いがけない言葉に私は戸惑いながらも「あ、ありがとう」と感謝の言葉を口にした。


「押し入れにしまい込んでいた本とか雑誌をまとめて捨ててあげたんだから、感謝してよね


「え」


 頭の中が真っ白になった。


 本と雑誌は何ものにも変えられない宝物だ。外に出ることを禁じられている私にとって、世界を学ぶことができる唯一無二の娯楽なのだ。それをまとめて捨てられてしまうだなんて……。


 血の気が引いて眩暈がした。


「え、えっと……本と雑誌は(おぼろ)さんからいただいた大切なものだから――」


「何?」


 必死に絞り出した私の反論は彩花ちゃんの冷酷な声にひとたまりもなく、ぴしゃりと遮られてしまった。


「折角、掃除してあげたのに文句あるの? 私、重い本を一生懸命捨てたのに……。お姉様って本当、酷いわね」


「う……」


 これ以上何を言っても焼け石に水であることを悟り、私は力なく項垂れた。


「ごめんなさい……」


「あーあ。こんなお姉様のせいでお父様が死んじゃったなんて、最悪」


 彩花ちゃんが吐き捨てた言葉を聞いた瞬間、胸の奥底が鉛で殴られたかのように酷く痛んだ。


   ▼   ▼   ▼


 空っぽになった押し入れを呆然と眺めながら、私は一人、自分の部屋の片隅で立ち尽くした。


 ざあざあ、ざざざあ。


 ざあざあ、ざあざあ。


 壁越しに篠突く雨の音が聞こえてくる。


「……」


 お母様にぶたれた痛みも、蹴られた脇腹の鈍痛も、彩花ちゃんに本を捨てられた哀しみも、私の心の中でぐちゃぐちゃに渦巻く黒い感情も何もかも、雨が流してくれたらいいのに。


 私の呪いも、役立たずな愚図さも、全部まとめて清算してくれたらな。


 なんて。


 そんな無駄で無意味な妄想を頭の中で弄びながら、私はそっと壁に耳を当てて雨音を鼓膜に響かせた。


 あの日も、こんな雨だった。


 ざあざあ、ざあざあ。


 ざあざあ、ざあざあ。


 篠突く雨の音が十年前のおぞましい記憶を呼び覚ます。


「……ッ」


 ――赤黒く焼け焦げたお父様の死体。


 お父様は優しくて、大らかで、太陽のような人だった。沢山の人に慕われる政府の立派な役人さんだった。


 そんなお父様は私の目の前で死んでしまった。


 お母様と彩花ちゃんが帝都に買い物へ出かけている最中、お父様と私は庭でお花の水やりをしながら遊び戯れていた。青く澄み渡る空の下、優しいお父様と過ごす時間は至極幸せなものだった。


 しかし、その幸せは篠突く雨の音と共に見るも無惨に崩れ去ってしまった。


 夕立に気づいたお父様は慌てて私を連れて家の中に戻ろうとした。「色葉、お部屋で遊ぼう――」お父様が最後に発した言葉はそこで途切れてしまった。凄まじい雷鳴が声を飲み込んでしまったのだ。


 そして、雷が落ちた。


 あろうことか、私に手を伸ばしたお父様の身体に。


 落雷。


 …………とてつもない衝撃で私は尻餅をつき、現実を受け止めることができなかった。ついさっきまで穏やかに笑っていたお父様が赤黒く焼け焦げ、ぴくりとも動かなくなっている姿だけが視界に映っていた。


 そう、お父様は落雷が直撃して死んでしまったのだ。


 不運な事故だった、と流すにはあまりにもおぞましい出来事だった。


 それからのことは記憶が混乱していてはっきりとは覚えていない。ただ、葬儀の真っ只中、怒り嘆くお母様に何度もぶたれ、哀しみに暮れる彩花ちゃんに罵られたことはぼんやりと覚えている。


 お前と一緒だったからお父様は死んだ。


 だって、雷に撃たれて死ぬなんて滅多にないことだから。


 お前は呪われているんだ。お前の呪いのせいでお父様は身代わりになって死んだんだ。


 お前のせいだ。


 何の取り得もないガラクタのくせに。


 お父様を返して。お父様を返して。お父様を返して。お父様を返して――――

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