参の三 おなかの音
「……では、そろそろ本題に参りますわ」
ニコニコと微笑む坂田さんの顔を一瞥し、九尾さんは額に滲んだ汗をそそくさと拭った。
「お恥ずかしい話、狐と狸の長年に続く喧嘩が手に負えないもんになりましてねぇ。怪王様に何とかしてもらえないか、と訪ねたっちゅう話ですわ」
「しかし、ひきこもっておられるということで……」
そこで言葉を飲み込み、刑部さんはガックリと項垂れた。京都と愛媛から遠路はるばるやってきたというのに、頼みの綱の旦那様は絶賛ひきこもり中。という二人のやるせなさが言動の隅々から伝わってきた。
「喧嘩も最初はちょっとした化かし合いで、互いに可愛いもんやったんやけどねぇ」
「日が経つにつれ、やり返していくにつれ、どんどん過激になってしまったんです」
「今や喧嘩というより、抗争になっていまして……。殺し合いに発展するのも時間の問題やと見ています」
悲壮な表情で話しながら、二人は同じタイミングで紅茶を一口飲んで喉を潤わした。
「百鬼夜行の王が隠居したことで、妖怪達の絶対的な力関係がごちゃごちゃになったんも大きいんやと思います。まぁ、ウチらが何とかするべきなんは百も承知なんやけど……」
「いかんせん、ワシと此奴もバチバチなもんで」
「会合を何度も開いてみたんやけど、まともな話し合いになることはなくて……ねぇ」
チラリ、と九尾さんは細めた目で刑部さんを睨みつけた。
「さっさと狸が負けを認めてくれたら、それで済むんやけどなぁ」
「ああ? 負けているのは狐の方だろうが。狸の方が雄々しくて賢いのだからな」
「何を言うとんの? 狐の方が美しくて賢いんやから、ウチらの勝ちに決まっとるわ」
二人は互いに睨み合い、怒りの言葉を次々にぶつけ合った。ついさっき、坂田さんに怯えて喧嘩はやめたはずなのに、すぐにこれとは……。狐と狸の関係は余程、根深いものらしい。
「狸は下品でアカンわ。何やの、信楽のあの睾丸は」
「あれこそ狸の勲章よ。狐の尻尾と似たようなもんだ」
がっはっはっは! と刑部さんは大広間に響き渡る重低音の笑い声を上げた。
「おっと、お嫁様の前で失敬」
頭を下げた刑部さんと、額に青筋をたてている九尾さんをそれぞれ見据えて、私は思案した。
旦那様がひきこもっている以上、二人の懇願は叶うことはない。折角、屋敷まで訪ねてきてくれたのに、このままではただの無駄足で終わってしまう。そして、いずれ抗争は殺し合いの戦争へと発展し、笑い話じゃ済まなくなってしまうだろう。
……それだけは、ダメだ。
私は旦那様ではないし、妖怪でもないし、人間としても出来損ないのガラクタ娘だ。だからといって、このまま何もせずに二人を帰してしまうことはできなかった。せめて、何か力になれないか――いや、少しでも二人の怒りを和らげるための話し相手くらいにはなれないか、と私はなけなしの勇気を振り絞って開口した。
「あ、あの……えっと、その……つかぬことを、伺ってもよろしいでしょうか?」
おずおずと震える声を発した私に驚いたのか、九尾さんと刑部さんは口喧嘩を止めて二人同時に目をパチクリさせた。
「ええ、勿論」
「何なりと」
頷いてくれた二人をジッと見つめて、私は意を決して言葉を続けた。
「狐さんと狸さんの喧嘩の理由は何なのでしょう……?」
もし、喧嘩の理由が明らかとなり、その問題を解決することができたのなら抗争は収まるのではないか、と思い立ったのだが……二人の返答は煮えきれないものだった。
「喧嘩の理由? はてさて、何でしたかなぁ」
「うーん。毎度毎度いがみ合っているさかい、どれが発端だったかわからへんなぁ」
二人して同じ方向に首を傾げて、うんうんと唸り声を上げた。
「あー、もしかしてアレやない? ほら、五十年前の祭りの時の!」
「馬鹿を言うな。それを言うなら六十年前の潮干狩りだろうが」
「いや、ちゃうわ。ウチのばーちゃんが元気やった時の話やわ。つまり、七十年前や」
「お前のばあさんは今も元気だろ……。この前もうちの若い狸が泣かされたんだからな」
「そんなこと言うたら、キミのところのじーさまも女遊びが酷いって女狐達の間で噂が流れとるで」
それから二人は狐のおばあさんと、狸のおじいさんの思い出話に花を咲かせて大いに盛り上がった。そうして、しばらく話し込んで、おじいさんとおばあさんが九十年前にどつきあいの大喧嘩をしたことが全ての始まりだった、という結論で丸く収まりかけたところ、不意に刑部さんが手を叩いて立ち上がった。
「違うぞ! ワシらの喧嘩は百年前からだ。百鬼夜行として日本中を練り歩いていた頃もいがみ合っていた記憶がある!」
「ああ~、せやわ! あの頃も坂田さんに散々怒られとったわ」
「思い出せば思い出すほど、そのニヤけ面が腹立たしい……!」
「こっちこそ、そのまぬけ面が気色悪いんやけど~」
と、九尾さんと刑部さんは再び睨み合い、口喧嘩が再熱してしまった。少しでも二人の怒りを和らげることができたら、と思っていたのに、結局私なんかじゃ何の解決にもならなかった。そう、後悔の念に押し潰されそうになった――その時。
ぐぐぐうぅ~っ。
と、まぬけな音が大広間に響き渡った。
「え?」
その音の正体は、刑部さんのおなかから鳴った空腹の知らせだった。
「こ、これは失敬。朝から何も食っていなかったもので……」
「はぁ~? ほんまに下品なヤツやわぁ」
と、九尾さんが嫌味を言った瞬間、今度はきゅるるる~っ、と可愛らしい音が大広間に響き渡った。その正体は、九尾さんのおなかの音だった。
「ぐ、ぐぐ……し、失敬しました」
二人揃って顔を紅くして塞ぎ込んだ九尾さんと刑部さんを如何ともしがたい気持ちで見つめていると、背後から坂田さんの底抜けに明るい声が発せられた。
「では、ごはんにしましょうかね!」
そう言った坂田さんの方を振り向くと、私の顔を見てニコニコと笑っていた。
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