弐の五 幸せであることが怖い
呉服屋を後にした旦那様と私が向かった先は、これまたハイカラな喫茶店だった。
「仕上がった着物が届くのが愉しみだな」
「は、はい。でも、あんなに高価なものを沢山、本当によろしいのでしょうか……」
「無論だ。それに何よりオレは見てみたいのだ。お前が美しく着飾った姿を」
まじまじと旦那様に見つめられた恥ずかしさに私は耐えきれなくなって、俯く他なかった。
「さあ、注文した菓子が届いたぞ。たっぷりと食うといい」
「あ……は、はい。ありがとうございます……!」
優雅に珈琲を飲む旦那様にぺこりとお辞儀をしてから、私は静かに深呼吸を繰り返した。
「…………」
焦げ臭いような、香ばしいような、何とも奇妙な珈琲の香りが漂う店内。蓄音機から流れる歌謡曲を背景にして、ハイカラな服装の男女達が談笑をしている。そんな喫茶店内の片隅の席に私は縮こまるようにして座り、目の前のテーブルに置かれた皿をじーっと見つめた。
皿の上にはホットケーキなる菓子が数枚、折り重なるように置かれている。しかも、蜂蜜がたっぷりとかけられて、ぬらぬらと魔性の光沢を煌めかせながら。
不安と緊張でぐちゃぐちゃになった心情とは裏腹に、私の喉はごくりと物々しい音を鳴らした。
「……よし」
このまま睨み続けても如何ともしがたい、と私は意を決してフォークとナイフを手に取った。そして、本で読んだ知識を元にぎこちない所作でホットケーキを切り分け、その一切れを恐る恐る口に運んだ。
ふわり。
そう形容する以外ない、この世のものとは思えない柔らかさに私は目を見開いた。更に、和菓子の甘さとは異なるとろけるような甘さに思わず、テーブルの下で脚をパタパタと揺らしてしまった。
なんて美味しいの……!
「あ」
ふと、悶絶する自分のはしたなさに気づき、私は慌てて顔を伏せた。
「ふふっ。そんなに美味いか、色葉」
静かな笑みを浮かべる旦那様に木漏れ日のような温かな声色で名前を呼ばれ、私は更にいっそう縮こまりながら「……はい、とっても」と小さく小さく頷いた。
大変だ。恥ずかしさでいっぱいいっぱいで顔が凄まじく熱い。どうしよう。
「相変わらず、お前は愉快なヤツだ。ふふっ。コロコロと表情が変わって、見ていて飽きることがない」
そう仰って微笑む旦那様の顔を私はチラリと見上げた。ちんちくりんの私とは比べ物にならない、圧倒的な存在感に思わず息を呑んだ。
「折角のデェトだ。たんと愉しむと良い」
旦那様の優しい声と共に、今日一日の華やかな出来事と、これまでの結婚生活を思い返し、私は心の内がパンパンに膨れ上がっていることに気がついた。その中身は全て丸ごと、幸せという甘い蜜だった。
ああ、旦那様。私は幸せでございます。
身も心もとろけるような蜂蜜の甘さを噛み締めながら、私は同時に恐怖の感情が心の奥深くで煮え滾るのを感じていた。それは漠然とした焦燥感でもあり、茫漠たる罪悪感でもあった。
私は幸せであることが怖い。
それはもう、どうしようもないほどに。
だって、私なんかが幸せになっていいはずが――――
「どうした、色葉」
後ろ暗い感情に溺れそうになった私を旦那様の声が強く繋ぎ止めてくれた。
「震えているではないか」
「……い、いえ、何でもありません」
「申せ」
はぐらかそうとする私の心を揺るぎない眼差しで見透かし、旦那様は凜と声を張った。
「……旦那様」
それでもなお押し黙る私に「強情なヤツだ」と旦那様は口元を緩めた。
「飲んでみろ」
「え?」
突然、何の脈絡もなく旦那様はカップを私の前に差し出した。それは、先程まで旦那様が飲んでいた珈琲で、中にはまだ黒々とした液体が半分以上残っていた。
「珈琲には緊張をほぐす癒やしの効果があると聞く。だから飲むといい」
旦那様に優しく勧められ、私はカップの中の珈琲を覗き込んだ。良い匂いなのか悪い臭いなのか、判別がつかない妙な香りに自然と鼻がすんすんと鳴ってしまう。
朧さんからいただいた本では、珈琲はこう謳われていた。
悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純粋で、恋のように甘い。
「……」
確かに、色は真っ黒だし、カップ越しにも熱さが伝わってくる。けれど、悪魔のことも地獄のことも天使のことも何も知らない私には比較することはできなかった。ましてや、恋のことなんて……。
と、向かいの席の旦那様をチラリと見つめると、何故だか左胸の辺りがドクンドクンと高鳴るのを感じた。
「い、いただきます……」
恐る恐るカップに唇を付けて、黒々とした液体をゆっくりと口に含んでいく。初めて感じる酸味に一瞬びっくりし、更に続け様に襲いかかる苦味に仰天した。
「に、苦いッ! なんですか、これ! ひぇ……」
舌の先っちょから付け根まで、口の中のあらゆる全てがひたすらに苦い! 恋のように甘いなんて嘘っぱちだ! と、私は涙目になりながら悶絶した。
そして、苦みに支配された味覚を少しでも回復させようと私は舌を突き出し、「ひぃー、ひぃー」と空気に触れさせた。が、すぐさま、自分があまりに間抜けな姿を晒していることに気づき、慌てて居住まいを正して顔を伏せた。
「も、申し訳ございませんっ!」
「はっはっは! お前は本当に愉快なヤツだ。オレの期待を悠々と越えていくのだからな」
旦那様は朗々と笑い、濃紺のハンカチーフを取り出して私の目元の涙を拭ってくれた。
「ふふっ、少しは気が楽になったか?」
「……ありがとうございます」
旦那様の柔和な笑顔を見て、私は胸を押さえながら静かに頭を下げた。そうして、心の内で渦巻いていた甘く、おぞましい不定形の感情を吐露することを決意し、ゆっくりと開口した。
「私は今、幸せなのです」
淡く吐き出した私の思いに旦那様は肯定することも、否定することもなく、穏やかな表情で見守ってくれた。
「ですが……いえ、だからこそ、私は恐ろしいのです。自分が幸せでいることが、どうしようもないほどに。だって、……こんな私が幸せになっていいはずがないのに」
「……父君のことか」
「はい」
頭の中に深く刻まれた赤黒い記憶から目を逸らさないよう、私は躊躇なく頷いた。
「お父様が落雷に撃たれて亡くなったのは、私の呪いのせいなのです」
「違う。それは不運な事故だ」
「でも、私と一緒だったからお父様は死んだんです。だって、雷に撃たれて死ぬなんて滅多にないことですから。私は呪われているんです。私の呪いのせいでお父様は身代わりになって死んだんです。私のせいです」
自分でも驚くほどに流暢に私は言葉を紡ぎ続けた。きっと、お母様と彩花ちゃんに十年間毎日ずっと言われ続けてきたから身体に染みこんでいるのだろう。と、切ない思い出に情けなさが込み上げてきた。
「色葉」
つらつらと語る私を押し留めるように旦那様は名前を口にした。
「お前は呪われてはおらぬ。妖怪の王として、太鼓判を押してやる。だから、もう自分を責めるな」
「……」
旦那様の優しさに私は返す言葉を持ち合わせておらず、首を横に振った。
もし仮に、万が一、本当に私が呪われていなかったとしても、私のせいでお父様が死んだことに変わりはない。あの日あの時、私が庭で遊んでいなければお父様に雷が落ちることはなかったのだから。
「……私が幸せを恐怖する理由はもう一つあります。それは幸せがいつか崩壊するんじゃないか、という漠然とした恐怖です。幸せになればなるほど、崩壊した時の落差を想像するだけで怖くて……」
どれほど甘い幸せであっても、ソーダ水のあぶくのようにあっという間に弾け散ってしまうんじゃないか、と。
きっと、永遠なんて存在しないから。
「ふん」
私の不安を旦那様は鼻を軽く鳴らして、一笑に付した。
「ならば、お前の幸せが崩れそうになった時、このオレが新たな幸せを築いてやろう」
「え……?」
「お前のことだ、どうせ呪われた自分はいつか捨てられるかもしれない……とでも思っているのだろうが、愚弄するなよ? そんなことは断じてない。オレは生涯をかけてお前を幸せにして共に過ごし続けるのだからな」
冗談でも何でもないといった強い口調で旦那様は言い切った。
「ど、どうして……私なんかに……」
震える私の問いかけに旦那様はあっけらかん、と笑った。
「夫婦だからに決まっておろう」
真っ直ぐ過ぎる旦那様の言葉に私の頭の中は一瞬にして真っ白になってしまった。赤黒い記憶も、十年間の苦しみも、幸せに対する恐怖も、まとめて――それこそ、あぶくのようにあっという間に弾けて散っていった。
残ったのは、ただ、左胸の辺りの激しい高鳴りだけだった。
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