弐の二 初めてのオムライス
「涼むついでに腹ごしらえをするとしよう」
という旦那様の提案で訪れたのは、帝都でも特に有名な洋食屋だった。
旦那様は見慣れているのか、西洋文化にさほど興味がないのか、涼しげな表情で席に着いた。が、私はどうしようもなくギクシャクとぎこちない足取りで席に着くまで一苦労であった。
それほどに私は洋食屋に足を踏み入れるという出来事に感動し、興奮し、仰天していたのだ。
ここは本当に日本なのだろうか、と目を疑ってしまうくらい西洋的な内装! ナイフとフォーク、又はスプーンを器用に使いこなす紳士淑女の皆々様。そして、食欲そそる香りを放つ素敵な洋食の数々!
「ほわわわわわ! ここが俗に言う、レストラン! 本では沢山読んだことはありましたが、よもやよもや、我が目で見て、我が手で触れて、我が舌で食すことができるだなんて……! 夢なのかしら! 夢ではないのかしら! ほわわわわわ!」
「ふむ」
向かいの席に座る旦那様の怜悧な目と視線が合った瞬間、私は自分が舞い上がり過ぎていたことに気がついた。恐る恐る周囲を見渡してみると、周りの席の紳士淑女の皆々様も私の顔を見てくすくすと笑っている――気がした。
じっとりとした冷や汗が背を伝った。
「も、申し訳ございません!」
おのぼりさん丸出しどころか、はしたない姿を晒してしまったことを恥じ、私は勢いよく頭を下げて謝罪の言葉を口にした。
「いや、責めてはおらぬ。むしろ、興奮して饒舌になった珍しいお前を見ることができて眼福であったぞ」
「ですが……」
「見ろ、周りの客達の温かい眼差しを」
そう仰った旦那様の言葉に従い、再び周囲を見渡してみると、紳士淑女の皆々様は穏やかな笑顔を私に向けてくれていた。どうやら、笑われていると思ったのは私の被害妄想だったようだ。
「落ち着いたようだな」
冷静さを取り戻した私の顔色を確認し、旦那様は頬を緩めた。
「さあ、食うぞ。お前の夢見た洋食をたんまり食おうじゃないか」
「は、はい……!」
旦那様が差し出してくれたメニューを見て、私はごっくんと唾液を飲み込んだ。
ライスカレー、オムライス、カツレツ、コロッケ、エビフライ、ビフテキ……と、文字を眺めているだけで胸が高鳴る料理の数々。どれもこれも本で読んだことのある夢の洋食ばかりだ。
本を読むたびに、どんな香りがするのだろう、どんな味がするのだろう、どんな口触りなのだろう、と夢想の世界にどっぷり浸かって思いを馳せていたのだ。
「色葉、遠慮をするんじゃないぞ」
ぴしゃり、と旦那様に釘を刺された私は小さく頷いてメニューをまじまじと眺めた。
どれを注文するべきか、私は「むむむ」と唸り声を上げながら頭を捻り続けた。ライスカレーも食べてみたいし、カツレツの魅惑的な響きも気になるし、エビフライがエビ天と何が違うのかも確かめてみたい……。
ああ、何と贅沢な悩みなのだろうか。
とはいえ、あまり悩みすぎると旦那様を待たせてしまう。かといって、夢の洋食を前にして悩まずにはいられない。
と、決死の葛藤を繰り返しながらも私はやっとの思いで注文を決定した。
「では、オレも同じものを頼もう」
紳士的な態度で注文を終えた旦那様に私は深く頭を下げた。
「じ、時間をかけてしまって申し訳ございません……」
「構わん。むしろ、悩むことも醍醐味だろう」
あっけらかんと笑う旦那様の顔を見上げ、私は心の内が満たされていくのを感じた。ただでさえ、これから美味しい洋食で胃袋を満たせるというのに、それに加えて心の内まで満たされ続けたら……私は一体どうなってしまうのだろう。
そのまま幸せが溢れて、零れてしまったら――。
「料理が届くのが愉しみだな」
私の不安を覆い尽くすように、旦那様は仰った。
「……は、はい」
今は、要らぬことを考えるのはやめよう。折角の洋食屋を訪れて、念願の洋食をいただけるのだから。そう、私は頭の中のモヤモヤを奥に追いやることにした。
そうして、旦那様と穏やかな会話を愉しんでいると、やがて、給仕の方が料理を運んできてくれた。
「――!」
テーブルの上に置かれた料理を見て、私は先程までゴチャゴチャと面倒臭い思考が嘘のように吹っ飛んでいくのを感じた。今はただ、目の前の洋食の輝きの虜になって、それ以外のことは考えられなくなってしまったのだ。
つやつやの真っ白な皿の上にドデデン! と君臨するのは、オムライス。
「こ、これがオムライス……ッ!」
まるまるぷっくり膨よかな黄色い焼き卵。その上にのっぺりと足された赤いタレ……これが赤茄子で作られた、いわゆるケチャップというものなのだろう。更に、ふんわりと香る甘い匂いが鼻孔をくすぐり倒し、私は理性というものを半ば失いかけていた。
「ほあわあわあわあわ」
慣れない手つきでスプーンをギュッと握りしめ、私は大いなるオムライスと向き合った。
皿の上に悠然と佇むその姿はもはや、王様のようであった。さながら、この食卓を支配する絶対的な暴君だ。
「たんと食えよ」
微笑む旦那様に見守られながら、私は戦々恐々たる面持ちでオムライスを見つめ続けた。
赤いケチャップで華やかに彩られ、端正に整えられた焼き卵の美しさたるや……。高尚な芸術作品のようでもあり、どこか可愛らしいオモチャのようでもあり、酷く愛おしい。このまま、ずっと見守っていたくなるほどに。
だが、そんな私の心情とは裏腹に、きゅるるるっ、とおなかが食欲を訴えた。
「……よし」
意気込みを小さな声で口に出し、私は意を決してスプーンを構えた。これは謁見ではなく、観賞でもなく、食事なのだ……と。そして、その勢いに乗せて「えいや!」と気合いの一撃と共に焼き卵をかち割り、中身の赤茄子ごはん諸共にスプーンですくい上げた。
ぱくり、と頬張ると口内はあっという間に夢心地!
ふっわふわの卵と、ちょっぴり酸味の効いた赤茄子ごはんが口の中でとろーりと混ざり合う。噛めば噛むほど卵と赤茄子の甘みが増していき、更に、微塵に刻まれたタマネギや、肉感的なハムソーセージが圧巻のハーモニーを生み出していく。
「ぬぁ~」
美味しさのあまり、妙ちくりんな奇声を発してしまったことに気づき、私は顔面が爆発しそうなほどの羞恥に襲われた。
ぬぁ~、って何だ。いくらなんでも酷すぎる。よりもよって華やかなる帝都の、紳士淑女の洋食屋で、しかも旦那様の目の前で何たる失態……!
だが、しかし!
あろうことか、私の右手に握りしめられたスプーンは追撃のオムライスをすくいとり、次々に口に運び続けていた。オムライスをぱくり! ぬぁ~。恥ずかしい……。オムライスをぱくり! ぬぁ~。恥ずかしい……。オムライスをぱくり! ぬぁ~。恥ずかしい……。と、羞恥心をも凌駕するオムライスの美味しさに私は奇行を延々と繰り返した。
「ふふふっ」
旦那様の穏やかな笑い声が聞こえた気がしたが、私が我に返ったのは散々に奇行を繰り返し、オムライスを綺麗さっぱり完食した後だった。
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