壱の九 安寧
「……すまぬ」
不意に、旦那様は頭を下げた。
「え」
唐突過ぎる旦那様の謝罪に虚を突かれた私は慌てふためくこともできず、時が止まったかのように固まってしまった。
「本来の夫婦とは、こうして語り合うのが普通なのだろうな。なのに、オレは書斎にひきりっぱなしでお前を放置し続けた。顔を合わせても一言交える程度の素っ気なさで。……結婚しておきながら、あまりにも身勝手だった」
悔恨の思いが詰まった声色で旦那様は語り、再び「すまぬ」と頭を下げた。それを見た私はやっと我に返って、あたふたと慌てふためいた。
「お、おやめください! 旦那様が謝ることなど一つもございませんっ! なので、あ、頭を早く上げてくださいませ……!」
「いや、謝る。いっそのこと、お前に頭を叩かれたい気分だ」
「ななななな! そんなことは絶対にできませんッ!」
一心不乱の私を見上げ、旦那様は頬を緩めて微笑んだ。
「ふふっ。お前はコロコロと表情がよく変わるな。愉快なヤツだ」
私をなだめるように旦那様は朗らかな声色で仰り、「坂田のお節介にもたまには感謝しなくてはな」と顔を綻ばせた。
「これからはひきこもり過ぎるのは注意しよう。それで許してくれるか?」
「ゆ、許すも許さぬもありませぬ……!」
そうして乱心する私の姿を旦那様が笑ってくれたことにより、謝罪の件はなんやかんやで収まることとなった。
「あの、旦那様はどうしておひきこもりに?」
安心してホッと息をついた勢いで思わず、ぽろり、と疑問が口からこぼれ落ちてしまった。旦那様の柔らかな雰囲気に釣られたせいでもあるが、それにしても油断し過ぎていた自分を恥じ入った。
しかし、今更訂正するのも逆に失礼だろう、と考えた私はもう一歩踏み出すことにした。
「もしかして、空亡との戦いの傷が……?」
私の問いかけに旦那様は刹那、目を伏せた。
「空亡」
大妖怪の名を口にした旦那様の声は憂いを帯びていた。
「……その名をどこで知った?」
「え、えと、坂田さんから教えていただきまして……」
「ふん。お喋り婆め」
眉間に皺を寄せる旦那様の表情は先程までの柔らかさとは対照的に、修羅のように、羅刹のように、憤怒の怒りにまみれていた。……そして、その裏には冷たい翳りがあるように感じとれた。
が、すぐに旦那様は掠れた息を吐き出すと共に眉間の皺を緩めた。更に、着流しがはだけて御御足がチラリと露わになることも厭わず、だらりと胡座を崩して片膝を立てた。
「心配するな。戦いの傷はとっくの昔に癒えている。……身も、心もな」
旦那様は魔性の色気が漂う流し目で私を見つめ、空っぽの湯飲みを手に取った。私は慌ててお茶を酌もうとしたが、旦那様は綺麗な指先で軽く制止して首を振った。
「空亡との戦いを経て、江戸の街を修復させた後に改めて思ったのだ。藤吉郎の時代とは異なり、徳川が泰平を築いた人の世には血生臭いオレ達妖怪は要らぬであろう、と」
そう仰った旦那様の表情は寂しそうでもあり、どこかスッキリしているようにも見えた。
「そして、オレは隠居してひきこもるようになった。それだけの話だ」
空っぽの湯飲みのざらざらした触り心地を愉しむように指先で弄び、旦那様は「もっとも、今の世でも人は争い続けているようだがな」と皮肉めいた笑みを浮かべた。
「いらぬ心配をかけて、不安を感じさせた」
またしても「すまぬ」と頭を下げられる予感を察知し、私は即座に飛び上がった。更に続け様に先手を取って土下座を繰り出した。謝られる前に謝る、それが旦那様に頭を下げさせない攻略法だと見抜いたのだ!
そんな私に対し、旦那様は大きな笑い声を上げた。
「ははっ、お前は本当に愉快なヤツだな」
おそらく、私が土下座をした理由をも見抜かれているのだろう、と私は悟った。
「色葉」
あまりにも、突然。
旦那様の口から私の名前が発せられた。
「え――」
驚きと同時に――いや、それ以上に、左胸の辺りが妙な高鳴りを轟かせていた。ソーダ水のしゅわしゅわの爆ぜ散るあぶくの音よりも遙か、けたたましく。
「唐傘と提灯にお前の家のことを調べさせた。……辛かったな、色葉」
優しい声色で再び名前を口にして、旦那様は私の頭に手を伸ばした。陶器のように美しく艶やかな指先が、大きく柔らかな手のひらが、私の頭を包み込んだ。そのまま、ぽんぽん、と軽く撫でられる感覚は恥も外聞もまとめて甘くとろけるような夢心地だった。
「あのような家に戻ることはない。この屋敷こそが……オレの傍こそが、お前の居場所だ」
「……旦那様」
身体の芯にまで染み渡る旦那様の言葉に私は朦朧とした意識で打ち震えた。勿体なきお言葉です、と言おうとしたけれど、唇が震えすぎて声の一つもまともに口にすることはできなかった。
ただ、幸せに浸り続けて、このまま溺れてしまいたい。そうすれば幸せが崩れることもないだろう、と破滅的な願望が脳裏を過った瞬間――
「あー! 怪王様イチャイチャしてるーっ!」
「あー! 色葉ちゃんイチャイチャしてるーッ!」
――唐傘さんと提灯さんがドタバタと畳の間にやってきて騒ぎ出した。更に、少し遅れて、鬼のようにニヤニヤした坂田さんが姿を現した。
「い、イチャイチャなどしておらぬ!」
旦那様は頬を紅色に染め上げて私から慌てて距離を取った。私は申し訳なさと恥ずかしさでいっぱいいっぱいになって平身低頭ぺこぺこする他なかった。そんな旦那様と私の周りを唐傘さんと提灯さんが口笛を吹きながら走り回った。
……誰か助けて。
「あらあらまぁ~。随分、仲良くなりましたねぇ」
顔が溶けてしまうんじゃないか、と心配したくなるほどに坂田さんはニヤニヤと笑っていた。かと思うと突如、パチン! と両手を叩いて畳の間に小気味よい音を響かせた。
「折角ですし、この勢いで新婚旅行に行かれてはいかがでしょう!」
突拍子もない坂田さんの提案に旦那様と私は目を白黒させて驚いた。
「し、新婚旅行だと? 何を藪から棒に……!」
「夫婦仲睦まじく旅行をする、というのはとっても素敵なことだと思いますよ。更なる絆が深まること間違いなし、です! ……それに婚礼の儀をあっという間に片付けてしまわれて、結婚を味気なくさせたのは怪王様でしょう? 責任を取られてはいかが?」
「ぐぬぬ」
坂田さんにずけずけと責め立てられた旦那様は子供のように歯軋りをして押し黙った。
……新婚旅行。
朧さんからいただいた歴史の本によると、かの坂本龍馬も行ったことのある由緒正しきものらしい。夫婦二人きりの蜜月のように甘い旅。ちんちくりんのぽんぽこぴーの私には想像もできない大人の世界だ。
きっと旦那様も行きたいとは思わないだろう、とチラリと顔を覗いてみると……。
「新婚旅行、か」
神妙な面持ちで顎に手を置いて考え込んでいた。




