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人と生成AIとの関係について-安部公房「鞄」を手引きとして- 私

作者:

安部公房の「鞄」には、「雨の中をぬれてきて、そのままずっと乾くまで歩きつづけた、といった感じ」の青年が登場する。

青年に、雨に濡れることも、そのままずっと歩きつづけることも厭わせない「鞄」。その不可思議な魅力。「服装」は「くたびれ」ているが、青年の「目もと」は「明る」い。なぜなら彼は、「不安」を「感じなかった」からだ。「ちゃんと鞄が」自分を「導いてくれて」おり、「嫌になるほど自由だった」からだ。

「なぜ半年も前の求人広告に、いまさら応募する気になったのか」という「私」の疑問に、青年は、「さんざん迷った(鞄に促されてあちこち歩きまわった)あげく、一種の消去法(坂が上れない)といいますか、けっきょくここしかない(ここにしか来られない・たどり着かない)ことが分かったわけです」と答える。鞄が自分の行き先を勝手に決めてしまう。自分はそれに抗えない。その結果「ここ」にたどり着いただけであって、自分から望んできたわけではない、ということだ。

「赤ん坊の死体なら、無理をすれば三つくらいは押し込めそう」な鞄。この物騒なたとえは、これまでの青年の行動・言葉や、青年に合わない大きな鞄への不審が反映されている。そして読者も、「赤ん坊の死体」を想像する。それも「三つ」もだ。何とも不気味な鞄だ。


「私」には「大きすぎる」と思われる鞄だが、青年は、自分の「体力とバランスが取れすぎている」と言う。妙なことを言う青年だ。「体力とバランスが取れている」ならまだわかる。「取れすぎている」が妙だ。やがてこの「すぎている」の意味は、「だから手放せない」し、その過剰によって青年は支配されているという意味だと判明する。

「ただ歩いている分には、楽に運べる」が、「ちょっとでも急な坂だとか階段のある道にさしかかると、もう駄目」。「おかげで、運ぶことのできる道が、おのずから制約されてしまう」。この部分の表現に耳が痛い人は多いのではないか。少しの困難も回避しようとする自分。「楽」を選択し続ける自分。鞄がある「おかげで」、自分の怠惰を鞄のせいにすることができる。だからここには「そのせいで」ではなく、「おかげ」と言う語が用いられている。まさにその恩恵に浴しているからだ。「おのずから」もそうだ。我知らず、いつの間にか自然とそうなってしまうことの強調。

鞄による「制約」によって、自分の考えと行動が自然と決まる。「鞄の重さが」、自分の「行先を決めてしまう」。これは、「制約」であると同時に、とても「楽」なことなのだ。鞄の導きに、自分の「行先」・将来をすっかり委ねればいいのだから。もう何も自分で考えなくていい。自分で考える必要がなくなる「楽」さ。そのためには、多少の「制約」も仕方がないし、我慢の範囲内だ。青年に限らず、この誘いに簡単に乗ってしまう人は多いだろう。

この答えを聞き、「私」は、「すると、鞄を持たずにいれば、かならずしもうちの社でなくてもよかったわけか」と尋ねる。鞄が行先を決めるなどバカバカしい。そんなことはあるはずがない、ということだ。

「私」の、「鞄を持たずにいれば」という言葉に、青年はすかさず反応する。「鞄を手放す」などという、「ありえない仮説を立ててみても始まらない」。仮説にもならない仮説だと、青年は却下する。青年にとってその鞄は、無くてはならないとても大切なものなのだ。青年は、その鞄を所有することにより、自分で考える必要がなくなる。だから、鞄を手放すことはあり得ない仮説となる。もし手放してしまったら、それ以降、すべてのことについて自分で考え、判断し、行動しなければならなくなる。「楽」ではなくなるのだ。


青年は、「あくまでも自発的にやっていること」だ。「やめようと思えば、いつだってやめられる」と言う。青年は、「いつだってやめられるからこそ、やめないのです」と強弁してはいるが、自分でも、「ばかなこと」だと分かっている。実際に青年は、なかなか「やめられ」ないし、鞄に「強制されて」動かされている。「楽」に安住し、やめられないからやめないだけなのだ。

自らの判断を、鞄という他者に完全に預ける・任せることは、自分で考える必要がないからとても「楽」だ。しかしその甘い蜜には猛毒が入っている。

結末部分を先取りして説明すると、鞄を譲り受けた「私」は、自動歩行を強いられる。「そのまま事務所に引き返すつもりだったが、どうもうまくいかない」。「やむをえず、とにかく歩ける方向に歩いてみるしか」なく、「そのうち、どこを歩いているのか、よく分からなくなってしまった」。

この鞄は、恐ろしい鞄だ。一度手に持ったが最後、永遠に歩きつづけさせられるのだ。しかもそれを苦だと思わせない。「不安」を消し、「自由」だけを自覚させる、まさに麻薬のような鞄だ。


私は、「なんなら、しばらく、あずかってみてあげようか」という、この物語にとって非常に重要なセリフを述べる。「私」は、青年を魅了する鞄に強い興味を持ち始めている。しかしここには、「私」にとっての罠がある。ここには、危険なもの、それに触れてはいけないものに対し、好奇心から近づいてしまう、人の弱さ・愚かさが表現されている。きれいなバラには棘がある。試しにであっても、一度その鞄を持ったら最後なのだ。「私」にしてみれば、軽い気持ち・好奇心で言ったひとことと行動が、人生の分かれ目になってしまった。

 青年は、「まさか、そんなあつかましいこと……」と、この鞄を持つなどという危険なことをするなんて「まさか」という意味を含んだ返事をする。私は、「なかみはなんなの」と、「なかみ」を確認しようとする。なにせ、「赤ん坊の死体」が「三つ」、「押し込め」られているかもしれないのだ。青年は、「大したものじゃありません」、「つまらない物ばかりです」と、とても思わせぶりなセリフを吐く。いよいよ「私」の好奇心は掻き立てられる。ぜひ一度自分も持ってみたくなる。「私」は、完全に鞄にとりつかれた状態だ。だが誰もそれを止めることはできない。なぜなら、「自発的」だからだ。「楽」だからという理由で、自ら望んで他者に支配されようとする人間の浅はかさ。

こうして、鞄の後継者は、決定した。愚かな「私」は、喜んでその役を引き受けようとしている。念願のカバンがいよいよ自分のものになるという期待と喜びで、「私」は「ほっと肩の荷を下ろした思い」になる。希望の成就による満足感で、「私」の心は満たされる。後戻りできないずっしりとした重量感のある苦悩を、新たにその「肩」に背負うことになるとも知らずに。


この後、物語は、「ごく自然に」移行する。「ごく自然に、当然のなりゆきとして、後に例の鞄が残された」。「私」は、「なんということもなしに、鞄を持ち上げてみた」。軽率さ、思慮の浅さが、「私」を破滅へと導く。

「なんとなく」、「持ち上げて」しまった鞄。それは「ずっしり腕にこたえ」る。だから、そこで「手から離」せば、後戻りできたかもしれないのだ。しかし「私」は、離さなかった。「腕にこたえたが、持てないほどではなかった」。「ためしに、二、三歩歩いて」みる。「もっと歩けそうだった」。

鞄を持つことによって、鞄に自分の行き先が決定される。「そのまま事務所に引き返すつもり」なのに、「どうもうまくいかない」。次第に記憶もあやふやとなる。「いくら道順を思い浮かべても」、「ずたずたに寸断されて」、自分の記憶が「使い物にならないのだ」。

鞄はもはや、記憶や思考までをも阻害し、持ち主を支配する。考えること自体が不可能になるのだ。そうなるともうしかたがない。「やむをえず、とにかく歩ける方向に歩いてみるしか」なくなる。そうして状態はさらに悪化する。「そのうち、どこを歩いているのか、よくわからなくなってしまった」。意識までが、混濁し始める。


真の悲劇は、その後だ。

「私」は、「べつに不安は感じなかった」とする。「べつに」は、「このような状況に陥った私を心配したり愚かだと思う向きもあるかもしれないが、しかし」という意味だ。「べつに、心配してもらわなくて結構」ということ。開き直っているともとれるし、そのような状態の自分を肯定しているともとれる。確かに「不安は感じな」いというのは魅力的だ。この世・人生は、「不安」で成り立っているかのように思われるときもあるだろう。だから、それを感じなくて済むのであれば、それに越したことはない。しかし、そううまくはいかない。「不安」を感じない代わりに彼が売り渡してしまったもの・代償が、あまりにも大きいからだ。

「ちゃんと鞄が私を導いてくれている」。これはもはや、麻薬中毒者のセリフのようだ。自分を売り渡したものへの忘我の境地。「私は、ためらうことなく、どこまでもただ歩きつづけていればよかった」。他者に支配されても、もう何も考えずに疑うことなく従い続ける「私」。「選ぶ道がなければ、迷うこともない」。しかしそれは、他者の決定に無批判に従い支配されているだけだ。

誰もが自由であることを望むだろう。しかし、ここでの自由は真の自由ではない。見せかけの自由。自由だと思いこまされている自由。自分で考え、選択し、決定するわずらわしさから解放された怠惰な自由。他者に完全に支配されていることすらもはや考えなくなってしまった自由。自由「のようなもの」への陶酔。

人とはどうしてこうも「楽」を好むのだろう。自分の人生すら、他者に委ねても不思議に思わない。怠惰では済まされない自己の売り渡し。しかし誰もがその魅力に堕ちてしまう。

鞄による支配。いつの間にかそれを「楽」だと受け入れる自分。意志、思考、判断、それらを売り渡してしまったら、もはや人ではない。それはもう、他者に従うだけのロボットだ。


少し立ち止まって考えると、青年は、あたかも鞄に支配された物言いをしているが、実はすべて自分で決めて行っている。最終的な判断は、やはり自分の意志にあるのだから。鞄には、抗いがたい魅力がある。しかしそれに従うのは、他でもない自分自身。従うという選択をしてしまったのは、ほかならぬ自分だ。

鞄から逃れるただ1つの方法。それは、とても簡単だ。鞄を持たなければいいのだけのことだ。


それにしても人間とは、なんと怠惰で愚かな存在なのだろう。「楽」を優先し、規制に慣れ、そのような状態の自分を「自由」だと、いとも簡単に勘違いする。それらへの警鐘が、この「鞄」という物語だ。


「鞄」に人は魅力を感じ、ふと手に持ってみたいという誘惑にかられる。

しかし、一度この鞄を持ち、それに慣れてしまったら、やがてあなたも、鞄に飲み込まれるひとりとなる。

この鞄は、過去にそうなってしまった人々の「死体」で膨らんでいるのだ。

やけに重いのは、それらの人々の体の重さと人生の重さと後悔の重さのためだ。


 「人と生成AIとの関係について」述べるとすれば、ここまで登場してきた「鞄」を「生成AI」に変換すればこと足りる。


未熟で愚かな「赤ん坊」のようなあなたは、鞄に飲み込まれる「4人目」になりたいですか?

あるいは既に……

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