035 命の灯
「メイは何してる。留守番か?」
「私もいるぞ」
背後から聞こえるメイの声。
「珍しいな、お前がここに来るなんて」
雅司が苦笑し、振り返る。
しかしすぐに表情を引き締め、メイを見上げた。
――彼女の手には、死の鎌が握られていた。
「お前がそれを持ってるってことは……そういうことなのか」
「ああ。すまんな雅司、これが私の仕事なのだ」
「そうか……本当に、山本さんとはお別れなんだな」
「ああ」
雅司は立ち上がり、メイの頭に手をやった。
「な、何をする」
「悪いな、気を使わせちまって」
「気など使っておらんわ! 私はただ、己の仕事をしに来ただけだ!」
「分かってる、分かってるよ。でもな、そんな顔をされたら、こうして頭のひとつも撫でたくなるってもんだ」
「や、やめろと言うに……」
「これからお前がすることに、どうこう言うつもりはない。それがお前の仕事であり、世の理だ。だから大丈夫、気にしないでくれ」
「……」
「ただ……少しでいい。時間、くれないか」
「……分かった。だが少しだぞ。いいな」
「ああ、分かってる。これ以上苦しませるのも、可哀想だしな」
「分かってるならいい。あと3時間、お前にやろう」
「午前2時……丑三つ時ってやつだな」
「ああ。魂が通るのに、一番無理のない時間だ」
「ありがとう、メイ」
山本の手を握り、雅司が見つめる。
呼吸が弱くなっている。命の灯が消えようとしていた。
出勤した時から、フロアー中に立ち込めていた匂い。それは死の匂いだった。
死を迎えようとしている人間から発せられる、独特の匂い。それをこれまで、何度となく感じていた。
この匂いがした人間は、数日以内に確実に死ぬ。
だから雅司自身、救急車を呼ぶことの無意味さを知っていた。
医者に診せたところでもう、助からない。
上司が言う様に、住み慣れたこの場所で、静かに旅立つのも悪くない。そう思った。
ただ人として。介護者として。
諦め、受け入れることを是としたくなかっただけなのだ。
自分はここまで手を尽くしました、そんな免罪符が欲しかっただけなのかもしれない。
そしてそれは、偽善以外の何物でもない。
そう思い、自嘲気味に笑った。
「……」
山本が、力なく目を開ける。
「山本さん。具合はどうですか」
耳元で囁く。
「あかん……なんか……よぉ聞こえへん……」
「もうすぐ2時ですよ、山本さん」
「……ほんだら、そろそろおやつやな」
「山本さん、今は夜中の2時ですよ」
「こんなに明るいのにか?」
部屋の照明は弱モードになっている。
「なんか……まぶしいわ」
「ごめんなさいね、山本さん。今日は月明かりが強いから」
「そうなんか……お月さん……綺麗やな……」
「満月ですからね」
カーテンの閉まった窓を見つめ、ノゾミが複雑な表情を浮かべる。
「何かほしい物はありますか? 飲み物とかどうですか」
「飲み物……」
「飲みます? 何がいいです?」
「ビール……キンキンに冷えたビール、飲みたいわ……」
「ごめんなさい山本さん。ビールは切らしてて」
「なんやそれ……使えん子やな、ほんま……みんなはどこや?」
「みんな?」
「さっきまで一緒に飲んでたやんか」
「もうみんな、帰りましたよ」
「何や、もう帰ったんか……みんな、ちゃんとタクシー乗れたんかな……」
「大丈夫、ちゃんと乗れましたよ」
「そうか……ほんだら私も、そろそろ帰るわ」
「そうですね。帰りますか」
「ああ……あんたもちゃんと帰るんやで……タクシー代、出したるからな……」
「ありがとうございます。山本さん、本当に優しいですね」
「ははっ、どうなんやろな……よぉ分からんわ……」
そう言って微笑み、瞼を閉じた。
「……そろそろだ、雅司」
メイの言葉にうなずき、雅司が手を離す。
「……!」
大鎌を振り下ろすと、一閃の光が部屋を包んだ。
山本の魂、最後の輝きだった。
「……」
呼吸と脈を確認する。
そして大きく息を吐くと、山本の両手を合わせ、そっと布団をかけた。
「山本さん……お疲れ様でした」
一礼して部屋から出ると、静かに扉を閉めた。
「帰るから! 今すぐ帰るから!」
耳に入る怒声。
雅司は振り返り、笑顔を佐藤に向けた。
「佐藤さん佐藤さん、こんな時間にどうしたんですか。怖い夢でも見ました?」
「何言ってるのよ! 今から帰るって言ってるのよ!」
「佐藤さん、帰るのは明日ですよ。息子さん、朝一番に迎えに来ますから」
「……そうなの? ならいいんだけど」
「ははっ。だからね、今日はゆっくり休んで下さい」
佐藤の手を握り、部屋に誘導する。
雅司の声掛けに、佐藤が嬉しそうに笑う。
そんな彼を見つめ、ノゾミもメイも複雑な表情を浮かべた。
「……たった今、死に立ち会った人間とは思えないな」
「無理してるだけよ。雅司の背中、泣いてるわ」
「分かるのか」
「それくらい分かるわよ。でも、それでも……雅司は自分の役割を全うしようとしている。本当、すごい人ね」
「明日帰ってきたら、いつもよりサービスしてやるとするか」
「何よそれ、ふふっ」
力なく笑い、ノゾミが目を伏せる。
そんなノゾミを見て、メイは小さく息を吐いた。
「お前のそれ……もう契約は達成してるだろうが……」




