013 終わらない悪夢
「施設の方針に反発して、拘束しないスタッフもいた。でもその時に転倒した利用者は、腰の骨を折って入院。そのまま寝たきりになってしまった」
「……」
「その人、それから半年ほどで亡くなった。その人の人生の最後を、スタッフが無茶苦茶にしてしまったんだ」
天井を見つめ、小さく息を吐く。
「だからここにいる以上、俺も従うと決めた。やってることは間違ってる。でも……事故を起こすよりはいい、そう言い聞かせてる」
「人を増やせば済む話じゃないの? どうして雅司が、そんなことで悩まないといけないの? おかしいじゃない」
「おかしいよ。でも、それが嫌なら辞めるしかないんだ」
納得がいかなかった。
スタッフの気持ちを踏みにじる施設に、怒りが沸き上がってくる。
しかし、雅司の瞳に宿る陰りが、言葉を飲み込ませた。
これ以上はやめよう。このままだと、施設じゃなく雅司を責めることになってしまう。
それに夜勤は始まったばかり。雅司の負担になることは避けよう、そう思った。
「ちょっと! こっち来て!」
声に振り向くと、佐藤が居室から顔を出していた。
「佐藤さん、どうされました?」
雅司が微笑み、佐藤の元へと向かう。
「これ見てよ! 何なのよこれは!」
雅司を睨みつけ、声を荒げる。
佐藤が指差した物、それは箪笥だった。
「服! 服がなくなってるのよ!」
わなわなと肩を震わせ、更に声を荒げる。
「なくなってるって、服がですか?」
「そうよ! 昨日まであった服がなくなってるのよ! 本当にもう、なんでここの人はこう、勝手なことばかりするのよ!」
「スタッフ……ですか?」
「お昼に! ここの人が入ってたのよ! 泥棒よ、泥棒!」
「……すいません佐藤さん。僕はさっき来たばかりなんで、お昼のことはよく分からないんです。ひょっとしたら、洗濯してるのかもしれませんよ」
「勝手なことしないでよ!」
自分の声に益々興奮し、雅司を罵倒する。
静まり返ったフロアーに、佐藤の怒声が響き渡る。
「なんで勝手なことするのよおおおおっ!」
他の利用者が起きないよう、居室に入り扉を閉め、佐藤の前に正座する。
「すいません、佐藤さん」
「全く……こんなところ初めてよ! 服、返してよ!」
「すいません佐藤さん。この時間だと難しいので、明日まで待ってもらえませんか? 朝一番に確認して、必ず持ってきますので」
「全く……酷いところよ、ここはっ!」
うなだれる雅司の前に仁王立ちし、行き場のない怒りをぶつける。
雅司はそれを黙って聞き、何度も何度も頭を下げた。
「泥棒っ! 私の服を返せええええっ!」
「すいません……」
何を言っても、どれだけ罵倒しても。雅司は頭を下げ、謝罪の言葉を繰り返す。
そうしている内に、佐藤の怒りが治まっていく。
「本当にすいません。明日、必ず確認しますので」
「全く……」
自分の感情に一区切りついた佐藤が、そう言って雅司に背を向けた。
「本当にすいませんでした。おやすみなさい」
そう言って居室から出る。
「……」
心配そうにノゾミが見つめる中、雅司はスポーツドリンクを取り出し、一口飲んだ。
「……何も言い返さないのね」
「ん? ああ、まあな。ははっ」
するとまた扉が開き、佐藤が大声を上げた。
「ちょっと! こっち来て頂戴!」
「どうしました、佐藤さん」
「どうもこうもないわよ! 服! 服がないのよ!」
また、話が初めに戻っていた。
佐藤の中で、先程の話は記憶にない。リセットされていた。
雅司は再び居室に入り、そっと扉を閉めた。
この夜。
佐藤の罵倒はあと二回続いたのだった。
深夜23時をまわった頃。
ノゾミの耳に、うめき声が聞こえてきた。
「ううっ……うううっ……うわあああああっ!」
「な、何、この声」
雅司が廊下を進み、山本の居室に入る。
「山本さん、どうされました?」
「トイレ! トイレに行きたいんやんか!」
「トイレですね、分かりました」
そう言って、ベッドに車椅子をつける。
「じゃあ山本さん、僕が起こしますから、しっかり持ってくださいね」
山本を抱きかかえ、ゆっくり体を起こす。
しかしその瞬間、山本が声を上げた。
「うわあああああっ! 痛い、痛いいいいっ!」
「痛いって、どこがですか」
「どこもかしこもやんか! もうええから寝かせてや!」
「トイレに行くんですよね」
「行きたない、行きたない! トイレなんかええねん、痛いんやから寝かせてや!」
見るとリハパン(紙パンツ)が、尿でパンパンに膨れていた。
「山本さん、とりあえずトイレ行きましょ? 大丈夫です、僕が連れて行ってあげますから」
「ええって言うてるやろ! 痛い、痛い痛い痛い、寒いいいいっ!」
雅司の腕の中で山本が暴れる。爪を立て、雅司の首筋に突き立てる。
「いたたたっ……山本さん、痛いからちょっと離して」
「人殺しいいいいいいっ! 助けてえええええっ!」
両手で雅司の首を絞め、山本が叫ぶ。
仕方なく再び寝かせ、布団をかけた。
「じゃあ山本さん、また行きたくなったら呼んで下さいね」
「あんた……何て名前や」
「雪城ですけど」
「あんたは人殺しや。覚えとくからな」
そう言うと頭から布団をかぶった。
「いやいや……殺されかけたのは俺なんだけど」
苦笑し居室から出ると、真っ暗なホールに渡辺が立っていた。
騒ぎで目覚めたようだった。
「おいお前!」
夕方の時とは別人のように、攻撃的な表情で雅司を見据える。
「どうされました?」
「息子に会わせろって、何べん言うたら分かるんじゃ! どないなっとるんじゃここはっ!」
「渡辺さん渡辺さん、皆さん寝てますから、ちょっとだけボリューム下げて」
「やかましいっ! 息子に会わせろ! こんな所に閉じ込めておいて、そんなことも聞けんのかお前はっ!」
「息子さんなら、明日のお昼に電話かかってきますよ」
何度も何度も説明した言葉。それを聞いて、渡辺の表情が一変した。
「明日の昼……そうなのか?」
「ええ。昼休みにかけるって、息子さん言ってましたよ」
「明日……明日電話がかかってくると」
「ええ」
「……わし、さっきも聞いたかな」
「大丈夫ですよ、初めてですから。伝えるのが遅くなってすいません」
「明日電話出来るんですね、分かった。ありがとう」
「渡辺さん」
雅司が渡辺の肩を抱く。
「明日、息子さんとしっかり話し合えたらいいですね」
「そうですね……いや、すまなかったね。ありがとう」
そう言って大袈裟に頭を下げると、居室に戻っていった。
その後、起床時間の6時まで。
便失禁、尿失禁。
徘徊する利用者たちに振り回されながら、雅司は休む間もなく走り回った。
そんな雅司を見つめ、ノゾミは複雑な表情を浮かべるのだった。




