一ノ瀬遼
その日、陸上競技場の空は高く澄み渡っていた。バックストレートでは滑らかな向かい風が初夏の青い匂いを運び、その纏わりつく爽やかさが心地よいまどろみを誘う。
「ねえ、起きてよハルカ」
声がした。
抗いがたい誘惑を断ち切り目を開くと、声の主である大島茜はすぐそこにいた。
「……だから、ハルカじゃねえって」
そう言って、睡魔と戦いながら一ノ瀬遼は立ち上がった。
長い間座っていたせいで凝り固まってしまった関節を軽くほぐす。どうやら身体のコンディションは悪くないようだ。
「こんなとこで寝ちゃダメだよ」
「分かってるよ」
ぶっきらぼうに答える遼。その答えに茜はニヤつく。
「あれ、もしかして緊張してるの?」
「……別に」
嘘だった。
高校三年生の夏、南関東大会決勝。六位以内ならインターハイ、負ければ引退。こんな状況で「緊張は一切無い?」それは、ただの強がりだ。
「それで、要件は?」
競技前に茜が声をかけてくる事は珍しかった。なんでも大会の張り詰めた空気が好きで、出来る限りその雰囲気を感じていたい、とかそんな感じの理由があったはずで。それは一年前、彼女がまだ選手であった時から変わらなかった物の一つだった。
「あー、先生が早く帰ってこいってさ」
「えっ、それだけ?」
「うん、それだけ」
だからこそ、用件がこれだけという事に遼は驚きを隠すことが出来なかった。
二人は揃って学校の拠点に戻り始めた。ゆっくりと、不自然な歩きの茜に自然と遼が合わせる形で。
遼は陸上ほど残酷な競技は他に無いと思った。
『10秒72』
遼が100m走り切るのにかかる時間だ。中学の時のベストが『11秒02』だったから、ちょうど0・3秒しか伸びていない。
高一から大体二年半、毎日死ぬほど走り続けた。雨の日も風の日も、夏だろうが冬だろうが、移ろい往く季節も問わず、ただひたすら己を磨き、無駄を極限まで削ぎ落とした。方法も問わなかった。効果の有りそうな物ならなんだってやった。私生活もすべてかけた。当然、食事にだって気を使った。嗜好品の類はもう何年も口にしていない。
そこまでして作り上げ、研ぎ澄ませても結果はたったの0・3秒これだけだった。
「陸上は残酷だ」遼は思う。
「才能に勝る努力はない」と、いつも遼に教えてくれた。遼は石ころだった。どんなに磨いてもガラスや宝石のような煌めきは持てず、またどんなに足掻いてもその価値は原石のままの宝石にすら劣った。
それでも中学生になるまでは――もっと厳密にいえば茜と会うまで――遼は自分の事を天才だと思っていた。
小さいころから走れば負けなし。年の差が一つ二つぐらいなら上級生にだって負けたことが無かった。運動会のゴールテープはいつも遼が切っていた。
中学に入って本格的に陸上を始めた時もそれは変わらなかった。
たいして部活に力を入れていない公立の中学だったこともあり、遼は入部して間も無く先輩を合わせても学校で一番足が速くなっていた。
入部して一月と十日ほど経った六月、遼は初めて大会に出た。都大会の予選である地域別大会だ。
もちろん誰にも負ける気は無かった。『大会に出て優勝』それしか遼には見えていなかった。
初めての競技場は広かった。たくさんの選手が競い合う。それにふさわしい場所だった。
今からそのタータンを走れると思うと心が舞い上がるのを感じた。
この時はまだ走るのが心から好きだった。
それは自分の初レースの前、時間を潰すため、ただなんとなく見ていただけだった。
今でも忘れない多摩東部一年女子100m第六組。
レーンに並ぶ未だあどけない女子達。
その第四レーン。
そこで出会った。
スタブロを合わせ、一度礼をし、再びラインに並ぶ。
いっときの静寂。
鳴る号砲。
美しく駆ける一人の少女。
撃ち抜かれた。
その瞬間、遼の頭だけでなく、心が、身体が、その細胞の一片一片に至るまでが、理解した。いや、むしろ普通よりはあった才能のせいで理解させられてしまったのだ。
『ああ、自分には届かない』と。
これならば理解しなかった方が、才能が無かった方が、その方が楽だったかもしれない。もしかしたら、走ることが好きなだけの未来があったかもしれない。しかし現実は残酷だった。遼の幼い自尊心を叩き壊すにはそれで十分過ぎた。
大島茜は紛れもなく天才だった。まるで緻密なガラス細工のように、美しく流麗な走りをした。
その衝撃は激しかった。
楽しみにしていたはずの地域別大会。遼はその後のことはあまり覚えていない。
確かに望み通り遼は優勝し都大会への切符をつかんだ。だがしかし、そのとき得た敗北感は拭うことができなかった。
人生で二回目の大会は東京都総合体育大会ーー通称、都総体だった。
この時、遼は生まれて初めてレースに敗北した。しかし何故か、この時それ程の衝撃を受けることは出来なかった。
拠点に着いた。
敷かれたブルーシートに腰を下ろし閑散とした空気に身を委ねる。
隣には好きだった『走り』を憎むまで憧れた大島茜がいる。
彼女の後頭部で一房に纏めた髪が揺れる。無邪気な顔で振り向く。
「どうかした?」
「……別に」
遼は呟く。
あの笑顔の裏側で彼女は何を思っているのだろうか?
ゆったりと、そして素早く時が流れていく。幾度と思考の渦に飲まれる。
思い出すのは中学一年のあの日。
再び出会った高校一年の春の日。
彼女が散った高校二年の夏の日。
何度考えても遼には分からなかった。
言葉にすることも出来なかった。
だから言った。
「俺の走りを見てて」
「第4レーン、一ノ瀬遼くん……」
名前が呼ばれた。
一礼し、光る白線に立つ。
6年前、彼女に心を奪われてから少しでも近づけただろうか?
分からない。
努力は無駄だったろうか?
分からない。
彼女は、茜は『今』この瞬間、いったい何を考えているだろうか?
分からない。
この6年間の努力はあと10秒で終わるかもしれない。
しかし、そんなことはどうでも良かった。
客席は満員だった。
「待ってる」
彼女の返答を口の中で反芻した。
どういう意味だろうか?
いや、どういう意味でもいいだろう。
走った後で本人に聞けばいいのだから。
「On your mark.」
一礼し、軽く跳ねたあと、スターティングブロックに足を合わせ、白線に指をつく。
「Set.」
音を聞き反射的に思考が白く染まっていく。
号砲が鳴った。
ゴールテープはもうない。
中学の時初めて書いた小説が出てきたので供養。