第七回 魔拳、荒ぶる
隻眼と睨み合った。
ほとんど物理的な圧力のようですらあった無影剣の武威が、今は軽く感じられた。
我ながら単純なものだが、馮迅の勝利を疑わない白怜の言葉にふっと肩の力が抜けたのだ。
―――行くか。
馮迅は躊躇わず一歩前に踏み出すと、右手を差し伸ばした。無影剣も動く。
「―――っ、馬鹿なっ。俺の本気の打ち込みを見切ったと言うのか?」
刀は、馮迅の手に移っていた。
無影剣は顔をしかめ、右手を握ったり開いたりながら言う。常になく力づくで奪い取る形となったから、指でも痛めたのかもしれない。
「貴殿の剣は見切れるようなものではないでしょう。見えないものは、当然見切れもしません」
「ならば何故?」
「抜き打ちである以上、剣の軌道はあらかじめその鞘が教えてくれます。どこに剣柄が来るのか分かるなら、俺は見えなくても盗れる。どうやら俺の奪刀術は、貴殿の抜刀術の天敵のようなもののようです」
「なっ」
無影剣が絶句する。
刀身が見えない速さと言う事は、剣柄―――抜き手も相応に速いということで、目で見て狙いを付けられはしない。しかし鞘から抜く以上、初めから軌道は限定されていた。
ならば抜き手が辿るだろう場所に、あらかじめ手の平を割り込ませるだけのことだ。そして剣柄に手が触れた瞬間掴み取り、奪い盗った。それは意識するまでもなく身体に覚え込ませた動きである。
「どうぞ」
先刻と同じく、捧げ出した。
素人目にも見事な鍛えで、とても気軽に抛り出す気にはなれない。この国では刀といえば重さで叩き斬るように使うものだが、無影剣の刀は長剣のように細身で剃刀のように鋭利な刃を備えている。
「…………」
無影剣はしばし何か言いたげに思い悩む様子だったが、黙って刀を受け取った。
「続けますか?」
「この手ではな。―――ちっ」
無影剣が刀を鞘に納める。
抜刀に劣らず速く、ほとんど手品でも見せられた気分だ。しかしやはり指を痛めたらしく、無影剣にとっては不出来な納刀であったようだ。しかめ面で舌打ちした。
「お前とは、またいつかやり合うような気がするな」
それだけ言い残すと、無影剣は背を向けた。
すぐにその背中は小さくなる。馮迅の知るどの流派とも異なる独特の軽功は、無影剣の故国の技だろうか。
「……そんな日が来ないことを願いますよ」
これまで対峙した中で、師父を除けば最強の相手と言っても過言ではないかもしれない。抜刀術に対する奪刀術の相性の良さで勝利を拾えたが、本来自分などよりよほど格上の武人だ。
「危ないところを助けて頂き、偸刀鬼様に御感謝申し上げます」
無影剣に標的とされていた少女が、しずしずと寄ってきて頭を下げた。片足をわずかに引き摺っているが、他に負傷はなさそうだ。
「その渾名はあまり好きではないんだけどな」
「でも、こちらのお姉さまがそうお呼びなさいと」
白怜を視線で咎めるも、しれっとした顔で受け流された。
「……馮迅だ。偸刀鬼以外なら、好きに呼んでくれ」
「では、馮迅様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
「ああ」
「申し遅れました、私は、伯姫と申します」
伯姫。一番上の娘、という程度の意味だ。字だろう。
馮迅のような庶人はあまり気にしないが、家柄の良い者は人前で名を名乗るものではない。二十人からの護衛が付いたこの少女は間違いなく良家のお嬢様か何かだろう。
「馮迅様、助けられた身でこのようなことをお頼みするのは気が引けるのですが、皆さんの介抱にご助力願えないでしょうか?」
「おおっ、そうだな。俺が見るから、足を痛めているのだし伯姫殿は休んでいると良い」
すぐに倒れ伏す二十人を見て回った。
大抵は気を失っていただけで、声を掛けると曖昧ながら答えが返ってくる。無理に動かないように伝え、とりあえず木陰に並べて寝かしつけていった。
「頭や首筋を打たれた者は、しばらく休ませれば問題なく動けるようになる。脛を打たれた者は骨が折れていたが、接いでおいた。幸いきれいに折れているから、元通りにつながるだろう。他の者が目を覚ましたら皆で運ぼう」
「馮迅様、まことにありがとうございます。この御恩は必ず―――」
「まあまあ、こっちが勝手にやったことだ、そちらが気にすることじゃないさ」
今にも地面に手をついて頭を下げそうな伯姫を押し留める。
どんな下種をも救うと誓った馮迅だが、そんなこととは無関係に不思議と庇護欲をかき立てられる少女だった。白怜も珍しく親身に接していて、足を痛めている彼女を支えるように寄り添っている。
「……伯姫、ちょっとこれを見てくれるかしら」
白怜は伯姫の鼻先に拳を持っていくと、ゆっくりとそれを開いた。
「? 何もないようですが、おねえ、さ―――」
伯姫の首がかくりと力なく折れる。直後に全身も脱力して崩れかけるのを、そっと白怜が抱き留めた。
「はっ、白怜殿っ、何を?」
「一応私たちは岱山派から狙われる身なのだから、あまり他人と関わるべきではないわ。この子にも迷惑を掛けるかもしれない」
「それはまあそうだろうけど。……何を嗅がせたんだ?」
「……眠っているだけよ」
白怜が少々言葉を濁した。
用いたのは例によって内錬毒の一つ睡蓮だろう。鼻先にきつめに嗅がせて一瞬で意識を落としたようだ。睡蓮に限らず眠り薬というものは、度が過ぎればそのまま眠りから覚めずに死に至ることもある。白怜がきまり悪げにしているのもそのためだ。
「大丈夫なんだろうな?」
「この私が加減を誤るはずがないでしょう。それより、貴方もそれなりに吸い込んだはずなのだけれど、何ともないのかしら?」
白怜が疑わし気な視線をそっくり返してくる。
「まあ、距離があったからな」
「もっと遠くにいるこの子の護衛達には、しっかり効いているのだけれど?」
白怜が周囲を見回しながら言う。気付けば、確かに先刻までそこかしこから上がっていたうめき声が絶えていた。
「…………まあ、貴方の内功なら耐えられても不思議はないか」
何と言い繕ったものかと思い悩んでいると、白怜の方で勝手に納得してくれた。これ幸いと馮迅は話を逸らす。
「しかしこんなところに寝かせておくわけにもいかないし、どこかへ運ばなければ」
「護衛の連中は置手紙でも残して、そのまま放置で良いわよ。いくら眠りこけているからといって完全武装した集団に手を出そうなんて奴はそうそういないでしょう。問題はこの子だけれど、五里ほど戻ったところに宿があったでしょう。あそこに部屋を取って、私たちはこの子が目覚める前に窓からでも立ち去るとしましょう」
白怜はすらすらと算段を口にする。馮迅が護衛の者達を介抱している間に練っていたのだろう。
「わかった。それなら早速―――」
「―――小妹に近づくなっ!!」
白怜から少女を受け取ろうと腕を伸ばした瞬間、怒号が響いた。
人影が凄まじい速さで駆け寄り、無数の拳が馮迅に襲い掛かった。
後方に飛び退って避けるも、人影はぴったり離れず付いてくる。猛烈な連打はほとんど拳で作られた壁が迫ってくるように感じられるほどだ。
「おいっ、あんた何か誤解しているぞっ」
拳の合間から除く顔は、若い男のものだ。ようやく少年から青年に仲間入りしたといった年頃だろうか。
「何が誤解だっ! そっちの女もすぐに小妹から手を離せっ!」
「俺たちはたまたま通りかかっただけだ。その女の子に危害を加えるつもりはない」
「嘘をつくなっ! 俺は目が良いんだっ。その女が小妹に何かするのが見えたぞ!」
「いや、あれは、その、ひどく興奮している様子だったから、しばらく眠ってもらおうかと」
「やっぱり何か毒でも嗅がせたのかっ!」
見られていたばつの悪さに、言い訳のつもりがつい自白する形となった。白怜がこの馬鹿、という険しい視線を向けてくる。
若者の拳がさらに勢いを増す。
―――仕方ないか。
可愛そうだが手首の一つも外せば大人しく話を聞く気にもなるだろう。
じりじりと後退しながら、飛んでくる拳の一つに手を伸ばす。しかし触れる直前、突きの途中で拳が引かれ、代わりに膝が飛んできた。跳躍しながらの膝蹴りで、半身になって避けるもこめかみを軽く掠めていった。
振り返りざまに腕ごとぶつける様な若者の裏拳。馮迅があえて大袈裟に上体を逸らして避けると、狙い通り残った腹部へ向けて中段の突きが来た。取りにいくも、やはり指先が触れる直前にぱっと拳が引かれた。
二度続けば偶然とは言えない。
異常なまでに勘の鋭い男だった。若者は自分でも何をそこまで警戒しているのか理解出来ないのか、怪訝そうに小首を傾げながらも連打を再開した。
連打の質自体はお世辞にも上等とは言えない。虚を交えるでもなく全てが実の拳。隙を見せてやれば思惑通りにそこへ打ち込んでも来る。花剣客莫進の精緻な剣舞とは比べるまでもないし、同じ無手でも萊山派掌門の李仙姑の点穴や掌法の玄妙さには程遠い。
しかし体幹がよほど強いのだろう。身体ごとぶつかってくるような強力な打撃を次から次へと振り抜いて来る。内力や技法によるものではなく、単純な速さと勢いに馮迅は圧倒された。
その上で拳を取りにいけばすぐさま手を引く勘の良さだ。
―――こいつはやり難いな。
軽功で躱し続けるも、勢い任せの乱撃は無軌道ゆえにただでさえ不慣れな奪“拳”術ではとらえきれない。無影剣の完成された型とは対極に位置する存在だった。
しかもどういう体力をしているのか、若者の連打は少しも勢いが衰える様子がない。それどころか、振れば振るほど益々勢いづくようだった。
五十合を越え、百合に迫る頃には、さながら暴風と化した。手が付けられない。
「―――そこの貴方、こちらを見なさい」
冷たい声が場に響いた。
視線をやると、白怜が眠りに落ちた少女に短刀を突き付けていた。終わりの見えない立ち合いに業を煮やしたのだろう。若者の拳がぴたりと止まる。
「そのまま、動くんじゃ―――」
「―――ちっ」
若者は舌打ちするや、ぐっと大地に身を沈めた。直後、右拳を大きく、地面を擦るように低く振るった。
馮迅には一瞬、若者の腕がぐんと伸び、打撃自体が白怜を目掛けて飛んでいったように錯覚された。―――実際には路傍に落ちていた小石を、右の拳で打ち出したようだ。
「きゃっ」
白怜は短刀で石を受けるも、腰砕けにくずおれた。
若者が馮迅に背を向けて、白怜と少女へと駆ける。機敏な動きだが、軽功では馮迅にいくらか分があった。
さっと前へ回り込んで遮ると、若者がぎょっとした顔で足を止めた。
「白怜殿、余計な手出しはするな。貴方を守りながら戦える相手じゃない」
「くっ、人がせっかく楽に終わらせてあげようとしたっていうのに」
「良いから、その子から離れて」
「……ふん」
白怜は立ち上がり、渋々ながらも身を引いた。
足元が少々ふらついているのは、石に込められた勁力に当てられたためだろう。石を飛ばす技は意表を突いたもので、隣にいた馮迅にも止める間がなかった。
「あんたも、狙うならまずは俺を狙え。あの娘に手出しはさせない」
「悪党の言葉を信じろとでも?」
「それがまず誤解なんだかなぁ」
「……まあいい。お前は悪党にしちゃどこか間が抜けてる。なんせ、それだけの軽功を持ちながら、後ろから襲いもせずにただ俺の前に回り込むことしかしなかったくらいだしな。その言葉、信じてやるよ」
若者も軽功には自信があったようだ。だから無防備に背中も曝け出したし、追い抜かれた今となっては見逃されたと感じてもいるのだろう。
実際には、馮迅は無抵抗な相手を攻撃する手段を持ち合わせてはいないというだけの話なのだが。
「―――いくぜっ」
拳の連打が再開された。後退し、時にはかいくぐって前に出て避ける。足を止めれば、猛攻に圧倒されかねない。
―――右の拳だ。
距離を取って仕切り直した時、若者の連打は決まって右の突きから始まる。そして左右ともには速く体重の乗った突きだが、右の拳の方がわずかに“引き”が遅い。恐らく右利き。右拳の威力には特に自信があるのだろう。それがわずかな力みを生んでいた。
馮迅は、一歩大きく飛び退った。逃がしてなるかと、若者が猛然と距離を詰める。そしてやはり右の突きが顔面に迫る。
今度は拳を引かれても間に合わないように、ぎりぎりまで引き付け、左掌で若者の右拳を包み込むように受けた。右の剣指を手首に宛がい、拳が引かれると同時に剣指に押し付けるように左掌を捻った。
かこっと、両手に若者の右手首が外れる感触が伝わってきた。盗った―――
「―――っ」
と思った瞬間、視界が真っ黒に染まった。
次いで白い光が明滅したかと思えば、突如足元の地面がせり上がってきて、全身を打った。
そこでようやく、馮迅は自分が倒れたことを理解した。