第四回 偸刀鬼、争闘を治める
「大師兄、お返しいたします。剣をお納めください」
「いらんわっ。せっかくの戦利品であろう、煮るなり焼くなり売るなり好きにせい。それなりのものじゃ、良い金になるぞ」
「いつの間にか“偸”刀鬼などと渾名されているようですが、いつも武器はお返ししているのですよ」
「知ったことか。若造相手に剣を奪われ、それを有難く返してもらう男かっ、この花剣客莫進がっ」
「困ります。それでは俺が本当に偸盗の類となってしまうではないですか」
「知ったことか」
「それでは岱山派の名折れとなりましょう」
「お主が弟弟子などと、儂は認めるつもりはないわっ」
しばし押し問答が続いた。
「……どうかお納め頂けませんか? 少々腕が疲れてまいりました」
「なんじゃ、つまらぬ演技をしおって。―――わかった。受け取ってやるわ」
馮迅が額に汗を浮かべ手をぶるぶると震わせていると、莫進が呆れた顔で剣を取り上げてくれた。
「―――ふぅ」
馮迅は袖で汗をぬぐった。
莫進はどこかほっとした顔で、剣を鞘に納めている。これほどの剣士であれば、愛剣に対する思い入れが薄いはずはない。
「さて、大師兄。まだ続けますか?」
「ふんっ、お主のような若造に情けを掛けられた上、これ以上恥を曝せるものか」
莫進はその場にどっかと座り込んだ。
「では―――」
「儂は手を引くが、これで終わりではないぞ」
莫進がちらと視線を街道の反対へ向けた。邪教の次期教主を見張るように若い男と少女が張り付いている。先刻隠れ聞いた話によると、岱山派現掌門の一番弟子とその妹だという。
馮迅は莫進に丁寧に頭を下げ、一足飛びに駆け戻った。
若い男の横を易々と駆け抜け―――警戒するも特に手を出してはこなかった―――、白衣の女性を庇う位置取りに付く。
「貴方が江湖で噂の偸刀鬼だったのねっ」
妹の方―――確か王藍華という名だ―――が興奮気味に叫ぶ。
「ああ。少々不本意な渾名だけどな」
ここ数か月江湖を騒がした怪人に付けられた二つ名だ。馮迅がそれが自身を指す渾名だと気付いたのは、随分経ってからだ。
「それにしたって、まさかあの莫師伯の剣まで取り上げちゃうなんて」
王藍華は驚きあきれた様子で言う。
莫進ほどの達人なれば、相手に剣刃が触れるその瞬間まで剣把を固く握り込んだりはしない。無用な力みは剣先から速さを奪うだけだからだ。馮迅の修めた奪刀術はそんな相手にこそ最も有効だった。加えて使い手の個性はあれど剣の型自体は馮迅にとって慣れ親しんだものである。
「それで、若いお二人もこちらの女性をどうにかするおつもりか?」
「もちろんよっ。その女は岱山に潜り込んで、秘伝書を盗んでいったんだからっ! 偸刀鬼さん、先代の弟子っていうのは信じ難いけど、貴方も岱山派なのでしょう? 何だってそんな女の味方をするの?」
「俺は誰の味方というわけでもないさ。こちらの女性が貴方達を害そうとするのなら、その時は貴方達の側に立つだろう」
「もう十分害されてるわっ。毒を嗅がされたのよ、私達はっ」
「しかし眠り込むお三方に、こちらの女性は手を下さなかったからな」
「―――っ、確かにそうだけど。……それは、貴方が守ってくれたからでしょう?」
「いいや、俺が宿から皆さんを外へ運び出したのは、こちらの女性が去った後のことだ」
「むむっ。―――九頭蟲っ、邪教の次期教主ともあろう者が、何だって私達に手を出さなかったのよっ。貴女ばっかり偸刀鬼の助力を得て、ずるいわっ」
「せっかくお年寄りとお子様だから見過ごしてあげたのに、まさかそれを責められるとはね」
背後で女性がため息交じりにこぼす。
「むーっ、むーっ、納得いかないっ!」
少女は頬を膨らませて地団太を踏む。
「あらあら、本当にお子様なのね」
女性が煽るように言うと、少女はさらに足をばたつかせた。
「まあまあ、落ち着いて、お嬢ちゃん」
「誰がお嬢ちゃんよ、貴方まで子供扱いしてっ。だいたい貴方だって、私とそう変わらない年に見えるけどっ?」
「……ふむ。それは失礼致しました。確か王藍華殿と仰ったか。王藍華殿は、今、おいくつかな?」
「十六よ。もう立派な大人の女なんだからっ」
半年ほど前、天問山を降りて初めて出会った少女は十四歳だと言っていたが、確かに王藍華は彼女よりもいくらか年嵩に見えた。小さく肯いて言う。
「ふむ。十六が大人の女かどうかはさて置き、―――そちらのお嬢さん、太陰教の次期教主の白怜殿でしたか。白怜殿は、今おいくつになられた?」
「……私? 私は二十三だけれど」
急に話を振られ、白怜が戸惑いがちに答える。
「なるほど。俺は二十二ですから、王藍華殿より六つ年上、白怜殿より一つ年下という事になるな」
「な、なによ、十六も二十二も、たいして変わらないじゃないの」
王藍華は不意を打たれた様子で言い繕う。山育ちで垢抜けないせいか、馮迅は若く―――というより幼く見られがちだった。
「―――っ、兄さん」
これまで会話に加わらずにいた男が、ずいと一歩前に出た。
王藍華の実兄という話だが、あまり似ていない。年齢はちょうど妹と馮迅の中間くらいか。目鼻立ちが整い華やかな印象の王藍華と比べると、十人並みの平凡な顔立ちをしているが、背は高く身体も鍛えこまれた厚みを有していた。せいぜい中肉中背の馮迅―――健康的とは言い難かった環境故か、痩せぎすで際立って小柄だった幼少期と比べるとそれでもだいぶ成長したのだが―――と比べると、頭一つ分も抜きん出ている。
「兄さん、やるなら私がやるわ。九頭蟲の相手は私だって、最初にそう決めていたでしょう」
「九頭蟲だけならともかく、この方のお相手はお前には無理だ」
「そりゃあ、莫師伯に勝っちゃうような人なんだから、そうなんでしょうけど。でも兄さん、あの女の毒を吸っていたでしょう? そんな状態で勝負になる?」
「心配ない、毒の方はもう抜けた」
今まで押し黙ったまま内力を巡らし、気血を整えていたのだろう。男の足取りは確かにしっかりとしていた。宿の時と同様、先刻も命を奪うような毒を白怜は用いなかったのだろう。恐らく筋肉を痺れさせる類の毒か。
「とはいえこの方に勝てるかどうかは、やってみないと分からないけどな」
男は話し方も直截で朴訥としている。馮迅の正面まで足を進めると、ぺこりと礼儀正しく頭を下げた。
「王達と申します。武林の御先輩に、一手お相手を願います」
「お、おう」
毒気を抜かれながらも、馮迅は返礼する。
「とぼけた男だけど、岱山派の次期掌門と目されている奴よ。気を付けなさい」
背後の白怜が囁く。
「おや、俺の助力は不要だったのでは?」
「ふんっ、思ったよりは使える男みたいだから、助けられてあげるわ。せいぜい役に立つことね」
「ははっ、分かった。求められなくても勝手に助けるところだが、求められたとあっては万難を排し必ずお助けしよう」
「なら軽口なんて叩いていないで、目の前の相手に集中しなさい」
「―――ああ」
言われるまでもなく馮迅は若者が一歩進み出た瞬間から微塵も警戒を緩めてはいない。
―――これは、強い。
先刻戦った莫進の剣も、山を降りて以来対峙してきた相手の中では群を抜いた域にあった。しかし驚くべきことに、目の前の若者はそれに匹敵する威を放っていた。
静かに対峙した。
これまでに対してきた者は、馮迅が無手と見ると嵩にかかって攻め立ててきたものだが、王達と名乗ったこの若者はまずはどっしりと中段に構えた。岱山派の剣術としては、実に正統な構えだ。岱山派の基礎となる八つの剣技―――霹靂八式―――は、全てこの中段の構えから繰り出すことが出来る。大きな体に基本の構えが実に様になっていた。
足指の力でわずかににじり寄り、あるいはにじり去る。微妙な間合いの取り合いとなった。王達の剣先は、常にぴたりと馮迅の正中を捉えている。
「…………」
「…………」
王達の額から汗が滴る。こちらも似たようなものだろう。顎先へと流れ落ちる滴りを感じた。
馮迅は指先二つ分、前へ出た。王達の間合いに身を晒す。
「…………」
馮迅がにじり寄った分だけ、王達が下がった。
「―――っ」
今度は王達が前に出る。豪胆にも指先と言わず拳二つ分を一度に踏み込んで来た。構えた剣がぐぐっと迫り、王達の大きな身体が半ばその陰に隠れる。
その距離を維持したまま、対峙が続いた。眼前に据えられた剣先は小揺るぎもしない。莫進があからさま過ぎるくらいに放っていた剣気―――斬るぞ斬るぞという殺気の類―――が皆無だった。激流のようだった莫進の剣とは違い、大海のような茫洋とした構えだ。ゆったりとして、されど大きな力を秘めている。圧してくる波に抗わず、されど流されず。馮迅は足元を軽く踏みしめ、受けた。
「…………来ないのか?」
王達が詰めていた拳二つ分だけ後退していた。
「どうにも、剣が届くという気が致しません。よろしければ、そちらから打ち掛かって来ては頂けないでしょうか?」
「俺は仲裁に入っただけだからな。こちらから攻めるつもりは毛頭無いな」
「では、どうしましょうか?」
「ははっ、それを俺に聞くか」
馮迅も会う人会う人からどこかずれていると言われたものだが、この王達というのも独特の雰囲気を持った若者だった。
馮迅は構えを解いた。その瞬間に斬り付けてくるかとも思ったが、王達も剣を鞘に納める。
「困りましたね」
「困ったな」
「もうっ、兄さんっ! それに偸刀鬼もっ! 何を素っ頓狂な会話をしてるのよっ」
王藍華が叫ぶ。
「引いてはもらえないものか?」
馮迅は改めてお伺いを立てる。
「さすがにそういうわけには。秘伝書も盗まれておりますし」
「そういえばそんな話だったな。……そうだ」
馮迅はくるりと踵を返すと、白怜に近付いた。
「な、何よ」
「―――ちょっと失礼をば」
「…………?」
及び腰で短刀を構える白怜の襟元に手を突っ込んだ。白怜はしばし状況が飲み込めず、呆然とした様子だった。
「―――っ!」
馮迅は顎先をかすめる短刀をわずかに身を仰け反らせて避け、次いで飛んできた平手は甘んじて頬に受けながら、目当ての物を探り出した。件の秘伝書である。
「あっ、返しなさい、この変態っ。貴方偸刀鬼でしょう。盗むのは刀剣の類だけじゃないのっ?」
「本当にお返ししてもよろしいのですね?」
「? ええ、早く返しなさいよ」
「分かりました」
さっと身を翻すと、一足飛びに王達の元へ戻る。
「白怜殿が、こちらはお返しするとのことだ。罪を憎んで人を憎まずと言う。自らの意思で盗んだ物を返還した。この一事をもって白怜殿の改心の証とし、この場は納めてもらえないか?」
「ちょっと、何を勝手なことを。―――っ」
背後で白怜が騒ぎ立て始めたが、視線を一つくれると大人しく引き下がった。このまま争いを続けたところで、白怜の得る物は何もない。
「……師伯っ、いかがいたしましょうか?」
街道の向かいに腰を下ろしたまま不機嫌そうにこちらを睨んでいる莫進に、王達が尋ねた。
「すでに敗れた儂が口出しすることは何もないわ。王達、お主の好きにせい」
「では―――」
「待って、兄さん。岱山で毒を嗅がされて意識の戻らない子達がいるわ。改心の証というのなら、彼らもどうにかしてもらわないと。―――九頭蟲、解毒剤は持っているのでしょうね!?」
「……言ったでしょう、死なない程度の毒にしてあげたって。岱山で撒いたのも貴方達に使ったのと同じ眠りへ誘う毒よ。今頃とっくに目覚めて元気にしているでしょうよっ」
「本当でしょうね?」
「あのねぇ、私が本気になればほんの一吸いしただけで即座に命を奪う毒だって、全身の穴という穴から血を垂れ流して三日三晩悶え苦しんで死ぬ毒だって出せるのよ。私に殺す気があったのなら、今頃貴方達はこうしていないわ。少しは感謝しなさいよね」
「―――っ、このっ
「藍華、よせ。九頭蟲、感謝などするつもりはないが、貴殿が眠らされた私たちに手を下さなかったことは覚えておく。それではここは偸刀鬼―――馮迅御先輩の顔に免じて、引かせて頂きます」
「ふんっ」
「おうっ、感謝する」
「失礼いたします」
軽く手を上げた馮迅に対して王達は仰々しく拝礼して踵を返すも、数歩先で引き返し、まだ白怜を睨みつけたままの王藍華の手を取った。そしてもう一度ぺこりと頭を下げると、妹を引きずるようにして莫進と共に街道を駆け戻っていった。
「いやあ、何とも変わった若者だったなぁ」
馮迅が呟くと、白怜が何か言いたげな視線を向けてきた。お前がそれを言うのか、というところだろうか。
「……ところで貴方、身体の方は何ともない?」
「ああ、幸い斬られることもなく、無傷だが」
「そういうことではないのだけれど。……まあ、良いわ。貴方これからどうするつもり? あの宿は莫進の泊まりつけのようだし、いまさら戻り難いのではない?」
「ああ、無責任なようだが、このまま宿の方はお暇させて頂こうかと」
そのつもりで、唯一の私物である形見の品も背負って出ていた。
「それで、これからどうするの?」
「どうしたものかな。元々は師兄お二人に御挨拶でもしようかと岱山へ向かうつもりでいたが、すでに目的はざっくり半分以上は達成したと言える。掌門にはお会いできなかったが、大師兄から話は伝わるだろうし」
物見遊山も兼ねてのんびりと気侭に、路銀が尽きる度に仕事を探すという旅を続けてきた。岱山におもむく前の最後の職場というつもりで選んだのがあの宿だった。それが莫進達と白怜との邂逅の場となったのは、実によく出来た巡り合わせである。
「そう。なら私に付いてきなさいな」
「白怜殿に?」
白怜がちょっと顔をしかめた。
「さっきから気になっていたのだけれど、気軽に人の名を呼ばないでくれないかしら」
「はぁ、では九頭蟲殿とでもお呼びしましょうか?」
「その渾名は好きじゃないわ。……そうね、祭酒様とでもお呼びなさい」
「白怜殿がどうしてもそれが良いと言うのなら構わないが、―――はい、祭酒様のご指示に従います」
きっと白怜に睨まれ、馮迅は言い直した。祭酒というのは太陰教の幹部に与えられる称号のようなものだ。
「話を戻すけれど、私に付いてきなさいな、偸刀鬼」
「ふむ、それはつまり俺に護衛をしろということかな。しかし、そもそも何だって太陰教の次期教主ともあろう方が、護衛の一人も連れずに岱山派と諍いなどを起こしているんだ、祭酒様?」
「内輪の話よ。貴方が知る必要はないわ。―――逆に聞くけれど、私を一人放っておいていいの? 岱山派の連中にこれからも狙われるかもしれないし、行く先々でも揉め事を起こすわよ、私は。貴方は求められなくても勝手に助けるのでしょう?」
「……確かに選択の余地はなさそうだ」
馮迅はため息交じり、渋々ながらという態で言った。
元より岱山派と太陰教の諍い、それも白怜に関わることとなれば、積極的に介入すべき理由が馮迅にはある。言われずともこっそりと後を付けて、いざという時には今回のように助力しようと考えていたのだ。
「分かればいいのよ。守らせてあげるから、感謝なさい」
白怜がにんまりと上機嫌に笑った。ちょうど良い護衛が手に入った、とでも思っているのだろう。
「それで、今からどこへ?」
「方山へ向かうつもりだったけれど、莫進達に足取りを読まれたようだったわね。どこか他の五岳にでも、―――そうね、萊山にでも行ってみましょうか。掌門の李仙姑は馮一剣と親しかったらしいし。……“あの子”を殺した時にも、一緒にいたという話を聞くしね」
感情を殺した声で言い足す白怜に、馮迅の胸が掻きむしられる。
白怜の言うあの子。邪教の高弟龍捷の息子で、十二年前の五岳派との抗争の際に馮一剣の剣に掛かったとされる少年。その名を龍迅。―――いまさら言うまでもなく、それは馮迅その人のことである。
「なにをぼさっとしているの、付いてきなさい、偸刀鬼」
「あ、ああっ」
さっさと歩き始めた白怜が振り返り眉を顰める。馮迅は慌てて後に続いた。
「……ところでその偸刀鬼という渾名、俺も不本意なのですが」
「馮迅と名前で呼べとでも? いやよ、貴方は偸刀鬼で十分だわ」
振り向きもせず言い捨てた白怜の声は、こちらを頑なに拒絶していた。