第三回 給仕、甚だ場を乱す
「―――っ」
どこからか声が響いた直後、ぽんと軽く肩を掴まれた。莫進は心臓を鷲掴みにされたような驚きに、軽功で大きく跳び退いた。
「……お主は、先刻の給仕ではないか」
九頭蟲と莫進の間を阻むように降って湧いたのは、宿で雇われていた若い男だった。
後を付けられた。いや、さすがに自分と王達の目を欺けるとは思えない。九頭蟲に同行していたと考えるべきだろう。
「やはり邪教に連なる者であったか」
「―――どこの誰だか知らないけれど、そこをどきなさいっ」
莫進の言葉を遮るように、九頭蟲が叫んだ。
「むっ。この男、貴様の手下か何かではないのか?」
「知らないわよ、こんな奴」
九頭蟲が吐き捨てるように言う。嘘を言っているようには見えないが、この女のことだから当然信頼など出来ない。
「莫師伯、きっと本当よ」
「藍華?」
「私達を宿から外に運び出してくれたの、たぶんその人。―――ねえっ、貴方っ、そうなんでしょう?」
「ええ。皆さんお元気そうでよかった」
男がこくりと肯いた。
「そうか。それは礼を言わねばならぬな」
未だ半信半疑ながらも、莫進は軽く頭を下げた。
「いえ、お気になさらず。眠り薬とはいえ、長く吸えば体に毒です。放っておくわけには参りませんから」
「―――ちっ、ずいぶん早く追ってきたと思えば、それで」
男の背後で、九頭蟲が舌打ちする。
警戒心の欠片もなく街道を歩いていたが、本来なら莫進達はまだ眠りの中にあるということなのだろう。
「それで、ここには何をしに来おった? この儂を遮るとは、何のつもりだ?」
「……はっ、―――岱山派門人馮迅、大師兄にお初に拝謁致します」
若者はわずかに躊躇いを覗かせた後、拱手し片膝を付いて言った。
「馮迅?」
莫進と九頭蟲が同時に声を上げ、そして同時に頭をふった。
二つ連なると少々曰く有り気だが、馮も迅もさして珍しい名ではない。
「そ、そんなことより師伯。この人、師伯のことを大師兄って」
莫進を大師兄――― 一番上の兄弟子―――と呼んだということは、自分が馮一剣の弟子と名乗ったに等しい。
「ふんっ、騙りに決まっておるわ。江湖におれば師父の弟子を名乗る者など腐るほどおるぞ。一々真に受けておっては、お主らには百も二百も師叔がおることになってしまうわ」
馮一剣が消息を絶って十数年。本人の不在を良いことに、質の悪い連中が箔付けに弟子を騙るなど日常茶飯事だった。
「いや、すると名前の方も偽りか。小僧、我が師の弟子を騙り、我が師の姓を偽るとは、いったい何のつもりじゃ?」
「騙っているわけではないのですが」
馮迅と名乗った若者は困った様子で苦笑を浮かべる。
「……ふむ、まあ良かろう。貴様の詮議はまた後だ。まずはこちらの毒婦めを。―――むっ、何のつもりだ?」
横をすり抜け九頭蟲に迫ろうとした莫進を、馮迅と名乗った男は一歩下がって再び妨げる。
「大師兄こそ、いったい何をなさるつもりです? 馮一剣の一番弟子ともあろう御方が、このような女性相手にそうも殺気を撒き散らして」
「分かっておるのか、そこな女子は邪教の者ぞ」
「ええ、お話は聞こえておりました。太陰教の、次期教主のお方だとか」
ぴくりと九頭蟲の表情が動いた。太陰教というのは邪教の正式な名称であるが、教団外の人間からその名で呼ばれることなどほとんどないのだろう。江湖の者達はただ邪教と呼び蔑んでいた。
「そこまで聞いていたなら分かろうが、この毒婦めを斬って捨てるは江湖のためよ」
ずいと半歩身を寄せ、そこをどけと睨み据える。すでに莫進の剣の間合いだが、若者は動く素振りも見せない。
「……どうあっても邪魔立てすると?」
「見過ごせません」
「今度は、気を飛ばすだけでは済まさんぞ」
「……」
言いながら剣気を当てるも、男はやはりどこ吹く風と受け流した。
「師伯、恩人の方にそれは。それに先代様の弟子というのはさすがに偽りとしても、先程の軽功、確かに岱山派に所縁の方です」
王達が言った。
莫進には見えなかったが、一歩下がった位置にいた王達からは先刻割って入った際の若者の身ごなしがしっかりと見て取れていたのだろう。
「貴方も、早く謝ってしまいなさいっ。莫師伯は斬るとなったら躊躇わないわよっ。早く謝って」
藍華も叫ぶ。
「王達、藍華っ、黙っておれ」
「―――っ」
ちらと二人に視線を飛ばすと、藍華はすくみ上って支えていたはずの王達に逆にすがり付いた。男にぶつけたような剣気を込めたつもりはないが、本気の自分に対したひよっ子ならばそれがごくごく自然な反応だった。
「話し合いで解決、というわけにはまいりませんかね?」
莫進に剣気を向けられてなお、そんな気の抜けたことを口にするこの若者の方がおかしいのだ。
莫進は剣把を一度握り直した。ただ鈍感なだけの阿呆か、若さに似合わぬ達人かはすぐに分かる。
「―――どこの誰だか知らないけれど、下がりなさい。ご老体も、呆け老人じゃあるまいし相手を間違えないことね」
莫進が剣を奔らせようとする刹那、九頭蟲がぴしゃりと水を差した。
「ほうっ、せっかくの助けを拒むか。良い覚悟じゃな、九頭蟲」
莫進は一先ず剣気を静めた。
「こんな若造一人の助勢があったところで、岱山派の花剣客の前には無為に散らすだけでしょう」
「……ふんっ。ほれ、毒婦めもそう言っておることだし、下がらぬか」
九頭蟲の冷え冷えとした声に、頭に上った血がいくらか下がった。しっしっと若者に手を払う。
「そういうわけにはまいりません」
しかし頑として男はその場を動く気がないようだった。
「はぁ、分からない男ね」
九頭蟲がため息交じりに肩をすくめる。
「そこにいる莫進というお爺さんは、五年に一度の方山比武で優勝したこともある達人よ。気儘な性分と元々他流派の出身という立場ゆえに、掌門の地位は弟弟子に譲ったという話だけれど、その剣は五岳の掌門と遜色ない。つまり天下で五指、―――は言い過ぎにしても十指には間違いなく入ろうという実力者よ。貴方みたいな若造が敵う相手ではないわ。貴方も馮一剣の弟子を騙るならそれくらい知っておきなさいな」
「はあ」
諭すように言い募った九頭蟲に、男が気のない返事を返す。
「……本当に分かったの? だったら早くそこをどきなさい」
「いえ、それを聞いてますますここをどくわけにはいかなくなりました。私が引き下がれば、貴女の命が危険に晒されるということでしょう?」
「―――っっ、分からない男ねっ! 私のために戦い死ぬ栄誉を得る資格は、どこの馬の骨とも知れない貴方には無いのよっ」
「勘違いされては困る。俺は何も貴女のために命を張ろうというのではありません。人が殺されるところを見たくないという、俺自身の問題なのですよ。俺の目の前で殺し合いはさせません。あの店に入り俺の目に留まったのが不幸と諦めてください」
「なっ、そんな勝手な言い分が―――」
「―――その辺でいいじゃろう、九頭蟲。何を言うたところで、この男は折れそうにないわ。そうじゃろう、若いの?」
「はい。俺をどかしたいなら、それこそ斬り倒すことですね」
「まったく、おかしな男じゃのう」
「本当に。―――ふんっ」
九頭蟲は莫進に同意を示し、敵の言葉であることに気づいて横を向いた。
「では本人の言葉通り、斬り倒させてもらうとしよう。九頭蟲も、それで構わぬな」
「勝手になさいな」
九頭蟲は九頭蟲で、ずいぶんとおかしな女ではある。見ず知らずの男に懇切丁寧に無謀を説いて助力を断るなど、毒術に暗器、詐術と謀略が得手の邪教の者、それも次期教主とも思えない。
「……抜かなくて良いのか?」
莫進は、若者が背中に負った縦長の布袋に顎をやった。長さからして、中身は長剣であろう。仮にも馮一剣の弟子を騙るなら、剣士ではあるはずだ。
「お気になさらず」
「そうか。無手だからといって遠慮はせぬぞ」
「はい」
男が奇妙な構えを取った。左手左足前の自然体だが、左手は人差し指と中指を伸ばして剣指を作り、右手は半ばまで拳を握った半開きである。半身に構えた剣士から、剣を取り上げたような構えだ。
「―――ふっ」
莫進は剣を奔らせた。斬り上げ、斬り下ろし、右から薙ぎ、左から薙いだ。
「ぬっ」
自慢の連撃が全て空を斬っていた。
「おおっ、なるほど。花剣客の異名はこの剣捌きが故ですか。上下左右とほとんど同時に奔った斬撃は確かに花弁が如しですね」
「……お主の軽功も中々のものではないか」
一瞬で間合いを外し、次の一瞬で元の場所―――莫進と九頭蟲を阻む位置―――へ駆け戻っている。そして王達の指摘通りその足運びは岱山派の軽功に近い。
「逃げ足には少々自信があります」
「その自信、いつまでもつか試してやろう」
莫進は今度は斬りながら距離を詰めた。必然、若者は今度は元の場所へ戻ることは敵わず、横方向へ大きく飛び退いた。莫進を九頭蟲から遠ざけるつもりだろうが、思惑に乗って後を追った。九頭蟲の側には王達がいるし、仮に逃げられたところで追い付くのも難しいことではない。
踏み込みながら斬り下げ、着地と同時に斬り上げる。次の一歩で左から薙ぎ、右から薙いだ。
岱山派初代の軒轅鴻は“百歩百殺”の異名を持つ剣客だった。後ろ足の蹴り出しと前足の踏み込みの力を相乗させて剣に伝える。一歩一斬にして百歩百殺の豪剣である。
軒轅鴻の唯一の弟子であり二代目―――実質的な岱山派の開祖―――の馮一剣は、その師をも凌ぐ腕前と称えられた。歩法に独自の軽功を取り入れることで、剣の威力はそのままに流れる様な連撃を可能とした。十数年前に江湖を去るまではまさに無敵の存在で、大陸中から使い手が集まり腕を競い合う方山比武で五度も一位に輝いている。
莫進の剣は、それをさらに応用したものだ。蹴り出しで一つ、踏み込みでもう一つ剣を振るう。言わば一歩二斬の剣だった。先達二人が一撃に込めていた脚力を分割している分だけ威力には劣るが、手数だけなら馮一剣をも凌ぐ。機を読み先を取るという点で先師の境地に達し得なかったが故の数頼みであるが、莫進の性分とも合致し、見事に花開いた。
大抵の相手は二歩四斬までで仕留め、倒れた身体には紅い花びらが四枚咲いている。故に付いた渾名が花剣客である。
―――だというのに、この若造。この儂にいったい何手振るわせるつもりか。
若者を追って、街道の中央まで進んでいた。繰り出した歩数はすでに二十を超え、つまり斬り付けた回数は四十を超える。
足元を斬り払うような低い横薙ぎを続けた。一歩目、二歩目の合わせて四撃は後退して間合いを外され、さらに深く踏み込んだ三歩目。初撃はやはり退いて避けられるも、二撃目はひょいと前足を上げてすかされた。―――莫進の狙い通りに。
次の一歩で下段から斬り上げ、斬り下げる。乱れた足元で避けられるものではない。
「何とっ」
信じられないことをする。若者は莫進の剣の側面に剣指を添わせ、本来正中線を抜くはずだった軌道をそっと横へ逸らした。斬り上げも斬り下げも、半身になった若者の身体に掠めもしない。
剣に剣を添わせ逸らすというのなら珍しい技法ではない。岱山剣法の基本となる八つの剣技にも含まれる動作だ。しかし速さで言えば江湖でも指折りの―――本音を言うならば随一という自信がある―――莫進の剣を相手に、若者は剣ではなく剣指でもってそれを成した。神業と言って良いだろう。
「逃げ足だけでなく、腕も中々のものではないか。もう一度聞くが、剣は抜かんで良いのか?」
無手だが拳法や掌法ではなく剣法の動きだった。それも岱山剣法だ。もし剣指ではなく剣を使われていたなら、こちらの剣を逸らした若者の剣の切先は莫進の手首を落としていたかもしれない。
「結構です」
「……惜しいのう」
ならば勝負もここまでだった。莫進はこれまでよりもさらに深く、二歩踏み込んだ。胴を狙った左右からの横薙ぎ四連撃をみまう。若者は横にも斜めにも躱すことは出来ず、真っすぐ後方へ下がった。胴を狙っているから、剣指で逸らせもしない。上へ逸らせば頭を、下へ逸らせば脚を剣は捉える。
「―――っ!」
背中を木の幹にぶつけ、若者の足が止まる。ようやく追い込んだ。ちょうど、九頭蟲が背にしている木と街道を挟んで対角線上に位置する並木だ。莫進はそこでもう一度追撃の足を止めた。
「……いかがされました?」
「今回の件、元々お主には関わりのない話。ここで引くなら見逃してやるぞ?」
馮一剣の弟子などあり得ないし、わずかに他流派からの混ざりものがありそうだが、やはり男の身ごなしは岱山派に連なる者のそれだ。同門の若者を手に掛けるのは短気で知られた莫進とて気が引けるものがあった。
「大師兄があの女性から手を引いてくださるのなら、そのお言葉に甘えましょう」
「ふむ、そうか。―――ならば」
莫進は踏み込んだ。距離が詰まっている分、小刻みな二歩で花が咲くような四連撃を放つ。左右の薙ぎから上下段、どこにも逃げ場はない。
最初の一撃、左からの横薙ぎが若者の腹部を捉える。次いで右からの横薙ぎに、斬り下げ、斬り上げ。どれも確実に急所を抉る軌道を辿った。
「ぬっ」
剣先を鼻先に据えられ、莫進は身を硬くした。
若者が剣を構えていた。剣先をやや高めに置いた中段の構えは岱山派の、それも馮一剣の佇まいとよく似ている。先刻剣を逸らした技と言い、たしかにこの男は岱山派の剣士だった。
「お主、いつの間に―――」
剣を抜いた。言おうとして、若者が手にしているのが自身の剣であることに莫進は気付いた。
改めて見やれば、若者の身体は斬り払ったはずの胴も、斬り上げ斬り下げたはずの正中線にもわずかばかりの傷も見えない。斬ったと思ったのは錯覚で、自分は無手となった握りだけを馬鹿のように振り回していたということだ。
「―――剣と言うものは、本来手から離れたがっているものなのですよ」
若者が剣を引いた。
「ちっ、若造が、我が師と同じようなことを言いおって」
馮一剣が隠遁する間際によく口にしていた言葉と同じだった。師父であり、天下の剣士の頂点にある者の言葉であるから、十数年を経た今も鮮明に覚えている。
若輩者が口にするにはおこがましい言葉だが、現実に先刻まで確かに莫進の掌中にあったはずの剣は若者の手の内にあった。若者はそれを、恭しくこちらへ捧げ出してくる。返却しようというのだろう、一度“奪い盗った”剣を。
「―――そうか、噂の偸刀鬼というのはお主かっ」
莫進は思わず叫んでいた。