第二回 少女剣客、胸高鳴らす
「はぁっ」
藍華は懸命に剣を振るった。九頭蟲は短刀を逆手に構えているが、決して剣を合わせようとはしない。大きく後退して間合いを外し、卓や眠り込んだ客を楯に逃げ回る。
「くうっ、この卑怯者っ! 毒なんか撒いてっ!」
「毒がそんなに気に入らない? 貴女だって、こんな短刀一つしか持たない私を相手に、そんな二倍も三倍も長い剣を振りまわして、卑怯じゃないの?」
「毒と剣は別でしょうがっ」
「あら、何が違うと言うのかしら? 貴女の長剣は、私の短刀よりも遠くから人を殺めることが出来る。私の毒は、貴女の長剣よりもひっそりと人を殺めることが出来る。同じことじゃないの」
「全然違うわよっ!」
頭が回らず、上手い返しの言葉は出て来なかった。兄や莫進なら、そもそもこんな無駄な問答を重ねるまでもなく、一刀のもとに斬り伏せているだろう。
藍華は稽古を怠けがちな自身を恨んだ。
藍華は生来、飽きっぽかった。我ながら物覚えが早く要領も良い方だが、最後は黙々と努力を重ねる兄には及ばない。六歳で両親を亡くし、師父に引き取られてすぐに剣を習い始めた。岱山派掌門を継いだばかりだった師父にとって兄が一番弟子で藍華が二番弟子である。当初は、兄よりも才気煥発な自分に期待を寄せられていた。三つ年上の兄を、試合で打ち負かすこともあったのだ。
兄の王達はありふれた姓名に似合いの十人並みの容姿で、才覚も凡庸そのものであった。背だけは常人より頭一つばかり抜きん出て高いが、それがまたぼんやりとした平凡さをより強調している。藍華が三つ技を覚える間にたった一つしか覚えられない兄は、弟弟子に軽んじられていた時期もあったのだ。剣は平凡、口数も少ない兄を愚鈍と見る者すらいたのだ。しかし兄は一切腐らず、黙々と修練を続けた。そうして今では師父の自慢の一番弟子に育ち、弟弟子達の尊敬を一身に集め、岱山派次代の掌門の地位を確実視されるまでになったのだ。
「こんなっ、ところでっ、死なせるもんですかっ!」
兄は死なせない。つまらないことで、死んで良い人間ではないのだ。
思い切り大きく踏み込む。相手に打ち合う気がないと言うのなら、反撃を恐れず踏み出していくだけだ。
「―――っ、やるわね」
九頭蟲が初めて短刀で剣を受けた。そのまま前へ押し出して、鍔迫り合いに―――。
「きゃっ」
足を滑らせ、藍華は尻餅を付いていた。
「っ、このっ、くっ、……えっ?」
立ち上がろうと、蹴った地面が消失した。いや、失われたのは地面ではなく、藍華自身の足の感覚だった。下半身に力が入らず、思うように動かせない。
「うふふっ、いくら女の子には効きが悪いと言っても、あれだけ息も荒く動き回ってはね」
九頭蟲が笑う。
「くうっ、このっ」
長剣を床に突き立て、杖代わりに立ち上がった。師父に見られたら怒られてしまいそうだが、構ってはいられない。
「頑張るわね。貴女、お年はいくつ? 生きる価値もない岱山の人間だけど、まだ子供というのなら命は取らないであげる。私は貴女たち岱山派とは違うからね」
剣の間合いに踏み込んできてくれたら、せめて一太刀振る舞う。そんな思いで待ち受けるも、それと察したらしく九頭蟲は距離を取ったまま口を動かすだけだった。その声も次第に遠ざかり、聞こえなくなった。
逃げられた。いや、見逃されたというべきだろうか。しかし、毒の籠った室内にいれば、どちらにせよ長くはないだろう。
「大丈夫ですか」
「―――っ」
耳元で声がして、意識がほんのわずか覚醒した。逆襲の一太刀を期していた身体は、自然と声のした方へと剣を振っていた。
「おっと」
へろへろと振られた剣は、容易く声の主に避けられたようだ。そして杖代わりを失ったことで倒れ込む身体が、誰かにふわりと優しく抱き上げられた。
足元から大地が消える喪失感に恐怖し、藍華は思わずその腕に縋り付く。思考は定まらないが、男性の逞しさを感じた。
「兄さん? ううん、違う。誰?」
問い掛けに返す言葉はない。触れた身体は巨躯の兄とも痩身の師伯のものとも違っているように思えた。しかし、不思議と不安はない。
やがて身体が、どこかに横たえられた。
「あっ」
男の体温が離れていく。胸に寂寥感が湧くも、すぐにそれも曖昧となっていった。
「…………?」
次に目覚めると、十数人の男達と並んで地べたに寝かされていた。
師伯と兄が起きていて、男達の間を忙しなく動いては脈を取ったり、口元に水を運んだりしていた。
「気付いたか」
王達が目を開けた藍華に気付いて、駆け寄ってくる。
「……兄さん、ここは?」
「店の裏庭だ」
くいっと王達が顎を向けた方を見やると、確かに先刻の宿が見えた。
改めて辺りを見回すと、裏庭に植えられた木の陰で、良く風が通り、目の前には井戸もあった。すでに日は西へ大きく傾いている。
「兄さんと師伯が運んでくれたの?」
「……? お前ではないのか?」
王達と二人、目を見合わせた。
「私は知らないわよ。今の今まで気を失っていたのだもの、運び出せるはずがないじゃない」
「俺と師伯が気が付いた時には、すでにここへ寝かされていた。毒の効きが悪いようだったから、お前が最後の力を振り絞って運び出してくれたものと」
「……それじゃあ、あれは夢ではない?」
「何の話だ?」
「……ううん、何でもない」
何故か兄には言い出し難く、藍華は口を噤んだ。
「―――藍華、調子はどうだ?」
他の者の介抱を切り上げ、莫進も寄ってきた。
「よっと。―――うん、大丈夫みたい」
問いに、藍華は立ち上がるとその場で軽く跳ね、腕をぐるりと回す。わずかに足元がふらつく感覚は残るが、それは単に起き抜けのせいのようでもある。毒の影響はほとんど感じなかった。
「そうか、なら店の者もかなり回復したことだし、後のことは任せ、我らは毒婦めを追うぞ」
莫進がくいと親指を向けた先で、店の主が頭を振りながら身を起こしていた。他の者もぱらぱらと目を覚まし始めている。王達と莫進で、気付けに内力を送り込んで回っていたのだろう。
「追うって、どこに向かったのか分かるの、師伯?」
「確信はないがの。ここで出くわしたということは、白翠道沿いに真っ直ぐ西へ進んでおると言うこと。となれば、次の目的地に見当が付かんか?」
「中岳―――方山に向かってる?」
「うむ、恐らくな。となれば、儂にとっては旧知の土地よ。あの女の逃走路も、大方予想が付くわ」
岱山派先代掌門馮一剣の一番弟子に当たる莫進であるが、その来歴は方山派に所属する武僧の一人であった。当代随一と呼ばれた剣術に惚れ込み、方山派を抜けて馮一剣に弟子入りしたのだ。
「それにしても、九頭蟲の毒を受けた私達が、どうして無事でいられるのかしら?」
「眠りへ誘う毒を使われたのじゃろうな。邪教の毒の中には、そういう類のものもあると聞く」
「でも、なぜそんな毒を。私や兄さんはともかく、師伯を仕留める好機だったのに」
「ふむ、その辺りに内錬毒の秘密が隠されておるのかもしれんな。好きな毒を自由自在にまき散らす、と言うわけにもいかぬのか。あるいは、毒自体の性質、使いやすさなどもあるのかもしれんな」
「……他の客を気遣ったのでは?」
王達が間の抜けたことを言う。
「相手は邪教の次期教主じゃぞ。そんな甘い女ではなかろう」
「そうそう。兄さん、あの女の色香に惑わされでもした?」
軽口を叩くと、王達にぎろりと睨まれた。軽く舌を出して頭を下げる。
この堅物の兄に限ってそんなはずがないことは、藍華も良く理解している。
「他にも一つ、気がかりがある。あの若い給仕の男が見当たらん」
「あのちょっと男前の?」
胸がどきりと高鳴った。思い起こせば、意識を失う間際に聞いた声は給仕の彼のものだったような気がしてくる。
「うむ。あの毒婦の手下か何かかもしれんな」
「……そういえば、あの女と同席していた男の人は?」
多分違う。そう思ったが、やはり藍華は言い出せず、ふと思いついた別の疑問を口にしていた。
「まだそこで目を回しておるわ。店主に話を聞いたが、どうも偶さか相席しただけの男らしい。というより、男の方から酒の相手にとしつこく誘ったようだな。隠れ蓑に利用されたということじゃが、まあ自業自得じゃな」
「それで思い出した。あの女の手には蛇血痕がなかったわ。師伯、邪教の女弟子は皆、手の甲にそれを浮かべているという話ではなかったの?」
邪教の毒術の使い手は女性信徒に多く―――また邪教はそもそも女の弟子が多い―――、その修行者は手の甲に蛇が這いずったような赤い紋様を浮かべるらしい。江湖ではそれを蛇血痕と呼び、恐れ蔑んでいるという。
宿まで来る道すがら、莫進から聞かされた話である。邪教を相手にするなら、何よりも警戒しなければならないのがまずは毒を盛られることである。毒に侵されてしまえば、鍛えた武術の腕も発揮しようがない。だから藍華も王達も、宿に入るなり客の中で一人きりの女へ注意を向け、その染み一つない白い手を確認している。
「ふむ。毒術の達人になるほど、蛇血痕は薄れると聞いたことがある。次期教主ともなれば、きれいさっぱり消えるのかもしれんのう」
莫進が思案顔で言った。長年武林の第一線で活躍してきた莫進にしても、邪教については分かっていないことが多いのだろう。
「さて、ここでいつまでも思案していても仕方がない。行くとするか。毒婦めの体術は並、まだ遠くへは行っておらんはずだ」
莫進が店主に一言を声を掛け、裏庭から宿をぐるりと迂回して街道へ向かう。途中、藍華は遠巻きに店内を覗いて見たが、やはりもぬけの殻であった。あの給仕の男もいない。
「では行くとするか」
「はいっ」
言うや、莫進と王達が駆けだした。二人の軽功は疾駆する駿馬よりもよほど速い。藍華も何とか後に続くも、次第にじりじりと引き離されていった。
「莫師伯っ、兄さんっ、速過ぎる。私の軽功では付いていけないわ」
「まったく、仕方がないのう」
莫進が瞬く間に藍華の眼前まで駆け戻り、その手を取った。
「きゃっ、―――あははっ、楽しいっ!」
莫進に手を引かれると、歩幅が二倍にも三倍にも伸びた。まるで空でも飛んでいるようだった。周囲の景色が目まぐるしい速さで左右に流れては消えていく。仇敵を追跡中であることも忘れ、覚えず藍華は歓声を上げた。
「莫師伯、あまり妹を甘やかされては困ります。藍華、本気で駆ければ付いて来られない速さではないはずだ」
「本気で駆けてくたくたになってしまったら、せっかく追い付いても剣を振るえないわ。あの女の相手は私がするんだからっ」
眉をしかめて言う兄に、藍華は口をとがらせて返した。
「この程度で疲れ果ててしまう腕前でか」
「まあまあ、そう言うな王達。儂はあの魔女と再び剣を交わそうという藍華の度胸を買うぞ。危うくなれば、儂が手を貸すわい。邪教の毒婦めに一発くれてやれ」
「わかりました、莫師伯」
兄はわざわざ足を止め、莫進に対して一礼する。相変わらず兄は目上の人間に従順だった。一方で目下の人間には限りなく優しく―――それが一時弟弟子たちに侮られた原因の一つでもあるのだが―――、兄がお小言を口にする相手など実の妹である藍華くらいのものである。
「ほれ、日が落ちると面倒だ。もう少し急ぐぞ」
「はっ」
堅苦しいのを嫌う莫進が先へ促す。
「藍華も、舌を噛まぬよう静かにしておれよ」
「はーい」
王達がじろりとこちらを睨んだ。返事を伸ばすなと言いたいのだろう。
そこからは黙々と街道を駆けた。さすがに兄と師伯は速く、二刻ほどで白装束の後姿を捉えた。道の真中を堂々と歩いている。
莫進と目語を交わすと、兄はさらに加速して九頭蟲の前へ回り込んだ。
「あ、あらっ、何かご用かしら? 岱山の皆さん。わざわざお礼でも言いに来てくれたのかしら?」
追い付かれるとは考えてもいなかったのか、九頭蟲は一瞬動揺を覗かせるも、すぐに余裕あり気な笑みを浮かべた。
「礼ですって。蔵を荒らしまわって秘伝書を盗んだ挙句、毒までもっておいてっ。それも一度ならず二度までもっ」
莫進と兄妹が岱山を下りた理由である。二日前、何者かに秘伝書や名剣が納められた蔵が暴かれた。番に当たっていた数名の弟子は皆昏倒しており、翌早朝に三人が犯人の捜索に出立した時点ではまだ意識を取り戻してもいなかった。先刻と同じく、あれもこの女の内錬毒というやつだろう。
「だから、死なない程度の毒にしてあげたんじゃない」
「―――っっ」
莫進が一歩踏み出すのと同時に、王達も前へ出た。弟弟子達のことであるから、表情にこそ出さないが兄には珍しく激昂している。
「あら、怖い。花剣客莫進に、岱山派掌門の一番弟子とも有ろう方が、たかが女一人に二人掛かりだなんて、―――さすがですわね。か弱い相手を大勢でなぶるのは、五岳派の得意技ですものね」
九頭蟲はやはり笑みを絶やさない。しかし内心にそれほど余裕はない様子だった。前後を挟む王達と莫進を交互に見やりながら、じりじりと移動して街道を逸れ、周辺に植えられた並木の幹へ背中を預けた。
「心配なさらずとも、貴方の相手は私一人よっ。今度こそ、逃がさないんだから」
ぐいぐいと莫進と王達を押し退けるようにして、藍華が前へ出た。
「あら、お嬢ちゃんがお相手? 大丈夫? さっきの毒はもう抜けたの?」
「余裕を見せていられるのも今のうちよ」
藍華はすらりと長剣を抜き放つ。莫進が先刻の言葉通り腕を組んで静観の構えを取ると、王達も―――不服そうに眉をしかめながらも―――引き下がった。
九頭蟲が短剣を抜いて逆手に持つ。やはり受けの構えで、長剣の攻撃を凌いで毒を撒くつもりだろうか。しかしこれだけ開けた場所なら、先刻のような毒香の類の効果は薄い。
「―――っ!」
予想に反し、九頭蟲の方から踏み込んで来た。
それも構えた短剣ではなく、左の拳で藍華の顔面を狙ってくる。想定外の動きだが、やはり体術にそれほどの切れはない。間合いを見極めわずか半歩後退すると、九頭蟲の拳は藍華に届くことなく鼻先で止まった。
「甘いわね」
お返しとばかりにこちらも余裕の笑みを浮かべてやると、九頭蟲の静止していた拳が開き、―――ぶわっと黒塵が舞い上がった。
「下がれっ、藍華っ!」
「―――うぇっ」
襟元を思い切り引っ張られ、喉からくぐもった情けない音が漏れた。
次いで腰へ回された腕は、今度は間違いようもなく兄のものだ。王達は藍華を抱えたまま、一跳びに二丈(6メートル)ほども飛び退る。
「大丈夫か」
王達は袖口で口元を覆いながら言った。どれほど効果があるか分からないが、兄に促され藍華もそれに倣う。
「う、うん、ちょっと吸い込んだ気もするけど、今のところは何とも」
「そうか」
小さく肯くと、王達は藍華を庇うように前へ出た。
「あらあら、一対一の勝負じゃなかったのかしら? ずるいのね。名門正派が聞いてあきれるわ」
九頭蟲がくつくつと笑う。周囲にはうっすらと黒い粉塵が漂っていた。
「ふんっ、尋常な立ち会いに毒など使いおって。邪教相手に正道を貫く必要など無いわ」
「あははははっ、見事に騙されてくれるわねっ! 臭いを嗅いでごらんなさいな、ただの胡椒よ」
「なんじゃと、―――っ、騙されるかっ!」
一喝すると、莫進が思い切り息を吹いた。それで、九頭蟲の撒いた粉塵はきれいに消し飛ばされていく。
「もう、酒臭いわね」
「口の回る毒婦め。江湖を闊歩し云十年の儂を、容易く謀れると思うな」
「そのようね。……でも、そっちのお兄さんの方は、ちょっと経験が足りないみたい」
「何っ!」
莫進が振りかえるのと、藍華を守るように立っていた王達の身体がぐらりと傾ぐのが同時だった。
「兄さんっ」
「―――っ、大事ない」
王達は倒れ伏す寸前で踏みとどまるも、意識が朦朧とするのか何度も頭を振っている。
「もうっ、迂闊なんだから」
憎まれ口を叩きながら、藍華はそっと兄に寄り添った。自分も危うく粉塵を嗅ぎ掛ける寸前であったことは当然口にしない。
「隙だらけよ、お二人さん」
「―――っ、させるか」
莫進が跳躍し、藍華達と九頭蟲の間に割って入ると、何もない虚空へ向けて目まぐるしく剣を旋回させる。キンキンキンっと、かそけき金属音だけが十も二十も藍華の耳に届いた。
「邪教の暗器か」
莫進の足元に落ちた何かが、西日を受けてキラキラと光を反射する。目を凝らすと、毛筋ほどの細さの針のようだった。
邪教の代名詞である毒術と並び恐れられるのが、その多様な暗器の数々である。扱う暗器の種類は二百を超えると言われ、当然それぞれにお得意の毒が仕込まれている。
「卑怯者め」
「卑怯、ですって」
莫進が蔑むように言うと、九頭蟲の顔から笑みが消えた。白い肌に紅を差して見えるのは、照り付ける西日のせいばかりではないだろう。
「貴様らがそれを言うかっ。年端もいかぬあの子を寄ってたかって殺めた貴様らがっ」
「―――っ。……龍家の子倅のことを申しておるのか?」
豪胆な莫進が珍しく気圧されたように呟いた。
「あれに関しては、我が師にとっても痛恨事であった。お主とて聞いておろう、師父はあの一件を境に剣を捨てられた」
「剣を捨てた? そんなことであの子の命を奪った罪が贖えるとでもっ?」
「……しかし、師父の剣は」
「ええ、そうでしょうよ。貴方達にとって天下第一剣と称された馮一剣の剣はこの上ない至宝でしょうよっ。我が教団の者も、何人斬り殺されたことかっ」
十二年前、邪教と五岳派―――大陸の東西南北中央に位置する五名峰を本拠とする五つの武術流派の総称―――との間に大きな抗争があった。双方少なくない数の犠牲を出した戦いは、邪教教主の右腕にして教団内最強の武人と目されていた災厄剣こと龍捷を岱山派前掌門の馮一剣が討ち取ることで一応の決着を見た。その際に龍捷の嫡子である少年も一緒に犠牲になったという。
当時まだ岱山派に入門もしていなかった藍華が口を挟める問題ではなかった。
「でもね、あの子だって特別だった。五十八人の母から望まれた、五十八番目の息子っ、我ら太陰教の希望そのものだった。それを、たかだか一武芸者のつまらぬ剣技ほどの価値もないというかっ!」
「なんじゃと? 一武芸者のつまらぬ剣技とは、さすがに聞き捨てならんな」
言われっ放しになっていた莫進が、ようやく声を上げた。
「……ふんっ、つまらないものをつまらないと言って、何が悪い」
九頭蟲の顔に一瞬躊躇いの色が過るも、傲然と言い放つ。
「ならばつまらぬかどうか、その目にしかと焼き付けるが良いわっ」
莫進が剣を手に九頭蟲へ向けて踏み出し掛けた瞬間―――
「―――お待ち下さい」
涼やかな声が争闘の場に水を打った。聞き覚えのある声音に、藍華の胸が再びとくんと高鳴った。