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無刀剣客多盗剣  作者: 菊池竹光
1/9

第零回 青年、江湖に足を踏み出す


「きゃっ」


 棹立ちになった馬から、身体が投げ出された。

 夏秀蕾は慌てて手綱を握り直すも、それが却って状況を悪化させることとなった。轡を支点にくるりと体が旋回し、天地がひっくり返っていた。何とか中空で態勢を立て直そうとするも、三日間昼夜兼行で駆けて通してきた手足はすぐには言うことを聞いてくれない。


「―――っ!?」


 街道の踏み固められた地面に叩きつけられる恐怖に縮こまった身体が、ふわりと優しく抱き留められていた。


「……えっと、ありがとう?」


 混乱した頭で、礼を告げる。吸い込まれるような大きな瞳がこちらを覗き込んでいた。


「いや、俺のせいだからな。すまない」


 男は横抱きにしていた秀蕾を地面にそっと立たせると、頭を下げた。

 洗いざらしの質素な衣を着た中肉中背の男だった。秀蕾よりはいくらか年嵩そうだが、まだ若い。夏の盛りも過ぎようとしているが、良く日に焼けた小麦色の肌をしている。この辺りの農夫か何かだろうか。


「そ、そうよっ、道の真ん中でぼうっと突っ立って、危ないじゃないのっ」


 思い出し、怒りが込み上げてきた。男が避けるものと決め込んで馬の足を緩めなかったこちらの非は棚上げして叱責する。


「失礼した。若い娘さんと馬が物珍しくて、つい見入ってしまった」


「物珍しい? 女が馬を駆るのがそんなに珍妙だとでも言いたいの?」


 実際、単に乗馬するだけならともかく、街道を思い切り疾駆させる女というの物珍しくはあるだろう。分かってはいても、この数日溜まりに溜まった煩悶が、ここがはけ口とばかりにあふれ出た。


「いえいえ、そういうことではなく。文字通り若い女子おなごも馬も珍しいんだ、俺には。十年以上も山に籠っていたものだからな」


「はあ? 何を言って―――」


 秀蕾は呆れた言い訳に眉を顰めるも、はっと閃いた


「―――山って、もしかして萊山!? ……いやいや、そんなはずがないわよね」


 その閃きを、すぐにかぶりを振って自ら否定する。

 武林に名を成した武術流派の中でも、特に名門正派の呼び声高い五つの門派―――五岳派。その一つにして北岳の異名を取る萊山派の本拠地がすなわち萊山である。

 この辺りで山と言われれば、何より真っ先に萊山の名に思い至る。聳える山はすでに視界に入っているし、何よりも秀蕾の目的地でもあった。山に籠もっていたと聞いて一瞬萊山派の弟子かとも思ったが、あり得ない話だった。萊山派が弟子を取るのは女性のみであると広く知られている。目の前の青年は、田舎の農夫にしては涼し気な容貌をしているが、改めて確認するまでもなく“男”だった。


「ご近所さんではあるな。萊山に程近い森の中の、小さくも険しい岩山だ。俺と師父は天問山と呼んでいたけど、知ってるか?」


「初耳ね」


「まあ、そりゃあそうだな。たぶん師父が勝手に名付けたんだろうし」


「何よそれ、そんなの知るわけないじゃない。―――いやいや、暢気に話している場合じゃないのだった。急がないと」


「そうか。しかし重ね重ね申し訳ないのだが、その馬にこれ以上乗るのは難しいんじゃないかな」


 言われて馬へと振り返る。視線を向けられた愛馬は秀蕾の元へ歩を進めようとして、ひょこひょこと跳ねた。

 慌てて駆け寄るとと、腿がびくびくと小刻みに痙攣していることに気付いた。


「あんたねっ」


 再び青年に文句を付け掛けるも、言葉を飲み込んだ。

 四本の脚に留まらず身体全体が震えていた。青年を避けるため棹立ちした時に痛めたのなら、こうはならないだろう。全身の引き攣りは馬が潰れる前兆だと聞いたことがあった。

 自分が無理に走らせ過ぎたせいだ。あのまま駆け続けていれば、青年に出くわすまでもなく脚を挫いて自分は投げ出されていたかもしれない。そしてその時には、抱き留めてくれる者はいない。


「塩は舐めさせているか?」


 いつの間にかすぐ隣に来ていた青年が言った。


「―――っ」


 青年の言葉に慌てて荷を漁り、小さな革袋から手の平に塩をあけた。馬の世話を頼んでいた知人が、旅立ちに際して用意してくれたものだ。

 馬の鼻先に手の平を持っていくと、すぐに大きな舌が伸びてきた。


「……ごめんね」


 すべてを舐めとってもなおも執拗に手の平に舌を這わせる愛馬に謝罪する。追加でさらに塩を与えると、ぶるると嬉しそうに鼻を鳴らした。


「うんっ、この調子なら大丈夫そうだな」


 馬体を撫でさするようにしながら、青年は屈託なく微笑む。


「…………」


「どうかしたのか?」


 礼を言うべきか思い悩んでいると、青年は怪訝そうに首を傾げた。


「なんでもないわ。しかし、どうしたものかしら?」


 愛馬はいくらか落ち着きを取り戻したようだが、いまだ小刻みに身体を震わせている。

 何となく周囲を見回すも、目ぼしいものは何もなかった。道を境界に左は萊山まで続く鬱蒼と茂る森であり、右はただ原野が続いている。


「道を少し行ったところに宿屋を見かけたから、しばらくそこで預かってもらったら良いんじゃないか? 何日か休ませてやれば、また元気に走り回れるようになるだろう」


「……そうね。そうしましょうか」


 馬を捨てて軽功で先を急ぐべきだろうが、仔馬の頃から共に育った愛馬だった。今や秀蕾にとって、唯一の家族と言っても良い。ここまで相当無理をして駆けてきただけに、追い付かれる心配はもうないはずだ。


「それなら案内しよう。こっちだ」


 青年は鞍に括り付けていた幾ばくかの荷を取り上げて肩に担ぐと―――馬の負担を多少なりとも軽減しようというのだろう―――、手綱を手に取って街道を北へ歩き始めた。こっちだも何も、道は延々一本道である。


―――まあ、良いか。


 案内など不要だが、あえて断ろうという気にもならなかった。この数日、誰と言葉を交わすこともなく、わずかな休息だけで馬を走らせてきたのだ。

 この男に何か不埒な考えでもあるのなら、叩きのめしてやればいい。

 夏秀蕾の父は最大最古の武術流派にして五岳筆頭の方山派の高弟で、方山五拳の一人に名を連ねた拳法の達人であり、母は萊山派開祖の李仙姑に特に目を掛けられた直弟子である。大冒険と大恋愛の末に二人は結ばれ還俗し―――方山派は禅宗、萊山派は道教の宗派でもある―――、一粒種の娘秀蕾が生まれることになる。二人の愛の物語は、今も江湖に語り継がれていた。

 その後、二人はこの国の都の瑞京で道場を開き、秀蕾も幼いころからそこで武芸を仕込まれてきた。そこらの男が束になって掛かってきても蹴散らす自信はある。


「…………」


「…………」


 馬に無理のかからないゆっくりとした歩調で、平坦に踏み固められた道を進んだ。景色も至って単調だ。視界の左を森が、右を原野が占め、それが途切れることない。


「……ちょっと、何か話しなさいよ。気が利かないわね」


「うん? ああ、黙り込んで歩いているだけというのも退屈か。師父も俺も沈黙があまり気にならない質だったからな。……そうだなぁ、ずいぶん急いでいたようだけど、何か急用でもあるのか?」


「わ、私のことはいいじゃない。あんたの話をなさいよ。そうだ、十年以上も山に籠っていたと言っていたけど、あんた歳はいくつなの?」


「……えーと、たしか二十は超えてたような」


「何で曖昧なのよ」


「師父も俺も無頓着だったもんだから」


「無頓着って。いくら何でも自分の年を忘れる?」


「ははっ、確かに。我ながらとんだ間抜けな話だな」


 青年が照れ臭そうに頬を掻いた。日に焼けた肌で分かり難いが、赤面しているようだ。


「それで、そう言うお嬢ちゃんはいくつだ? 十歳くらいか?」


「こんな十歳がどこにいるのよっ」


 秀蕾は我ながら年の割にそこそこ発育の良い身体を手で指し示す。

 瑞京では兄弟子や弟弟子に言い寄られることも少なくなかった。もちろん親の威光もあるだろうが、それを抜きにしても容姿にはかなり自信がある。両親からして美男美女の誉れ高く、その一人娘なのだ。


「えっと、じゃあ、……四十くらいか?」


「十四よっ!」


「そうか、十四か。へえー」


「ま、前を向いてなさい、前をっ」


 自ら促した形だが、じろじろと見やる青年の不躾な視線に秀蕾は頬が熱くなるのを感じた。山暮らしの田舎者らしい遠慮の無さと言うものだろうか。

 秀蕾はひとつ咳ばらいをして気を取り直すと、話を続けた。


「それで、そうすると十前後の子供の時分から山暮らしということになるけれど、十年以上も何をしていたの?」


「師父に修行を付けてもらったり、一緒に獣を狩ったり、野草を取ったり」


 農夫ではなく、猟師ということだろうか。獣の足跡を読んだりする技は、師から弟子に伝えられると聞いたことがある。


「ふーん。それで、何だって山を下りて来たわけ?」


「数日前に師父が亡くなられて、一人きりになってな」


「―――っ、わ、私も」


「私も?」


「ううん、何でもない。……その、お悔やみ申し上げるわ」


ただのお決まりの言葉に実感が籠る。秀蕾も、一月ほど前に父母を失い天涯孤独となったばかりの身である。


「それで、前々から少しは街に下りて世間を知ってこいと師父からは言われていたんでね。お言葉に従い、見聞を広げようかと」


「なるほどね。確かにあんた、もっと世間や常識というものを知った方が良さそうだわ。私を子供や大年増と見誤るなんて、世間知らずも良いとこだわ。お師匠様の言うことは正解ね」


「あっ」


 青年は突然小さく声をあげると、荷物を地面に置き、手綱を秀蕾の手に押し付け、左手の森の中へとがさがさと分け入っていった。


「ちょっ、ちょっと、あんた―――」


「良いものがあった」


 問い質すまでもなく、青年はすぐに引き返してきた。手には赤い小さな実をいくつもたくわえた木の枝が握られている。


「どうぞ」


「何、これ?」


「おや、木苺をご存じない? こういう道沿いには珍しいけど、いくらか山へ分け入ればいくらでも目にするもんだが」


「いや、山になんてそうそう入ることないわよ。しかし、これが木苺なのね。名前は聞いたことがあるけれど、実物を目にするのは初めてだわ。……食べれるのよね?」


「もちろん。だから、どうぞ」


 人好きのする笑みを浮かべて男が枝を突き出してくる。

 出会ったばかりの男の口車に乗せられて、得体の知れない果実を口にしてしまって良いものか。今更ながら警戒心が湧いて躊躇していると、男は一房をちぎり取って秀蕾の愛馬の口元へ運んだ。


「ほら、お前も食べろ」


「ちょっと、何を勝手なことを」


 愛馬は秀蕾の気も知らず、ふんふんと鼻を鳴らして臭いを確認した後、貪るようにそれを口にした。


「ははっ、よしよし、もっと食え。木苺は運動した後に食べると疲れを癒してくれる。この子の身体にも良いはずだ」


 馬の鼻梁を撫でさすりながら、青年は朗らかに笑った。


「ほらっ、お嬢ちゃんもお疲れだろう、食べておくと良い」


 男は秀蕾に勧めながら、自身も馬と争うように木苺を頬張る。

 言動といい表情といい一々明け透けで、まさに山育ちの田舎者という感じだ。世間知らずな反応や突飛な行動は、年下の男の子でも相手にしているような気さえしてくる。


「…………あまり美味しくないわね」


 恐る恐る口に入れた木苺は期待したほど甘くはなく、酸味ばかりが口に残った。

 それから青年は、田舎の猟師らしく山での生活の話などを始めた。この国の都で生まれ育った秀蕾には新鮮ではあるが、少し退屈な話でもあった。


「―――あら、あんたひょっとして剣を使うの?」


 ふと、青年が背負う物に気付いた。秀蕾の荷とは別に、三尺(90㎝)余りの細長い布の袋を肩掛けにしている。形状からして中身は長剣と見て取れた。猟師であれば普通なら得物は弓か、せいぜい槍だろう。


「ん? ああ、これか。これは俺が使うわけじゃなく、形見というか預かり物というか、まあそんな感じの物だ」


「何よそれ、はっきりしないわね」


「俺もどうしたものかと持て余している物でな。まあ何にせよ、俺には剣なんて使えないよ」


「ふーん」


 話し込んでいる間に、街道沿いに建つ宿に到着した。

 秀蕾は店頭で主人の中年の男にまとまった銭を渡し、差し当たって三日間の馬の世話を頼んだ。


「あんた、萊山は近所だと言っていたわよね?」


 宿の前で待ってくれていた青年に尋ねる。考えてみれば荷物も背負わせたきりだ。


「ああ」


「それなら萊山の山門の場所は分かるわよね? 案内してくれないかしら?」


「いいぞ。実際に訪ねたことはないが場所なら分かる。こっちだ、お嬢ちゃん」


 男は気軽に肯くと、再び街道を北へと向けて歩き始めた。


「そのお嬢ちゃんって言うの、やめてくれない? 子供扱いされているみたいで、屈辱だわ」


「ふむ。それじゃあ、お姉さんとでも呼ぼうか?」


「はぁ、なんでそうなるのよ」


 何度目かになる男の間抜けな物言いに、秀蕾は嘆息をこぼした。


「そういえば、まだ名前を教えていなかったわね。私は夏秀蕾。あんたは?」


「ああ、俺はりゅ、―――いや、馮迅」


「なあに、まさか今、自分の名前を間違えそうにでもなったの?」


「ははっ、人に名を告げるのなんてそれこそ十年以上もなかったからなぁ」


「おかしな男ね」


 男―――馮迅にいくらか気を許しつつある自分に秀蕾は気付いた。どうせ萊山までのわずかな道行きだ、それも良いだろう。


「……ところで山門ということは、萊山派への入門が希望なのか?」


「入門。そうね、そういうことになるのかしらね」


「そうか。李仙姑がいれば、何かの時も安心だな」


「何か? ……あんた、何を知っているの?」


 秀蕾はぱっと男―――馮迅から距離を取り、身構えた。


「何も知らないぞ。ただ、何やら怪しい連中が宿からぞろぞろと出て来ているからさ」


「―――っ!」


 言われて、そっと背後に視線を向ける。ちょうど主人を押し退けるようにして男達が宿の入り口から出てくるところだった。全員が同じような造りの柳葉刀を佩いている。秀蕾の宿敵、鉄刀門の門下と見て間違いない。


「もうっ、もっと早く言いなさいよね。……でも、いったいどうして」


「どういう事情か知らないが、萊山に身を寄せることを相手に知られていなかったか? 萊山の山門へ向かうならこの街道を通るしかないから、待ち伏せしていたんじゃないかな」


「ちっ」


 萊山に逃げ込むなど今の今まで誰にも口にしたことはなかったが、自分の出自を思えば容易に想像の付くことだ。父と方山派の面々とは折り合いが悪いが、母は李仙姑に今も可愛がられていて、何度か瑞京の道場に指導に来てくれたこともあるのだ。

 ここまで懸命に馬を飛ばしてきたから、そう簡単に先回りされるとは思えない。男達は三日前に秀蕾が事を成し遂げ瑞京を脱するより以前から、恐らく一月前のあの日、秀蕾の父母が討たれた直後に瑞京を発って、ここに潜んでいたのだろう。秀蕾が山門―――萊山派が統べる山域への入り口―――に駆け込めば、連中は萊山派の李仙姑を敵に回すことになる。


「―――っ! あいつっ、瑞京では姿が見えないと思ったらこんなところに」


 最後に宿から出てきた巨躯を見て、かっと頭に血が上った。鉄刀門の掌門 “だった” 倪飛鵬の実弟倪飛燕だ。秀蕾にとっては、不倶戴天の仇と言っていい。

 この場で全てに決着を付けてしまいたい。そんな誘惑に駆られるも、それはただの自暴自棄というものだった。自分では倪飛燕一人にだって勝てるとは限らないというのに、多勢に無勢である。それに今ここで戦えば、この気の良い田舎者を巻き添えにしかねない。


「……馮迅、あの男達に絡まれたなら、私とは関りがないと言いなさい」


「そちらはどうするつもりだ?」


「山門への道筋は?」


「まっすぐ二十里(10㎞)ほど行った先に脇道がある。山門はその先だ」


「そう、ありがとう。それじゃあ私は、―――逃げるわっ」


 言い捨て、駆け出した。


「てめえっ、待ちやがれ!」


 背後から怒号が上がる。振り返らず足を動かした。山門に辿り着きさえすれば、李仙姑が何とかしてくれるはずだ。逃げ切れるか。

 秀蕾の地を滑るような足運びは、母に教わった萊山派の極上の軽功だ。一方でどたばたと不規則に足音を踏み鳴らす男達の軽功は、お世辞にも質の高い武術とは言えない。鉄刀門掌門の倪飛鵬は千里行の異名を取る軽功の達人だったが、本人の素質によるところが大きく、熱心に弟子へ教えを授けるような人間でもなかったのだろう。しかし問題は疲弊しきったこの身体と秀蕾自身の技の未熟さだった。

 五里駆けた頃には、聞こえてくる男達の足音はかなり遠ざかった。

 十里で、再び近付いてきた。足の指先に力が入らず、一歩一歩の歩幅が狭まっているのが自分でも分かる。

 十五里駆けた頃には、足音だけでなく荒い息遣いまでが聞こえてきた。連中も疲れきっているが秀蕾もそれは同じで、自分の心臓の鼓動がうるさく感じられる。足運びはもはや軽功の態を成さず、ただただ走っているだけだった。

 街道の先に、分かれ道が見える。馮迅の言っていた山門へと続く脇道だろう。もう少しだ。


「―――っ!」


 道沿いの森から、街道を塞ぐように男達が飛び出してきた。すでに抜き身の柳葉刀を手に引っ提げている。秀蕾は足を止めざるを得なかった。


「……挟み撃ちか」


 荒い息を隠すようにあえて口に出したが、汗にまみれ上気した頬は隠しきれない。新たに現れた男達は余裕の笑みを浮かべている。

 後から追ってきた男達も到着し、秀蕾の背後で足を止めた。


「へへっ、夏家のお嬢さん、こんにちは。あんまり遅いんで、もう兄貴に捕まっちまったのかと思ったぜ」


 そのうちの一人、見上げるような大男がニヤニヤと笑みを浮かべながら言った。


「……倪飛燕」


 口にするだけでも不快な男の名を呟く。

 さすがに倪飛鵬の弟だけあって、倪飛燕は他の連中と比べるとあまり呼吸を乱していない。その気になれば、早々に秀蕾に追い付くことも出来たのかもしれない。


「へっ、夏家のお嬢さんにお見知りおき頂けていたとは、こいつは光栄だ」


 都の瑞京には五十を超える武術道場が存在する。五岳派など名門正派を修めた達人の開くものが多いが、中には半ばごろつきの溜まり場のようなものもいくつかあった。

 秀蕾の家、鴛鴦館は前者の代表格である。父母二人の武林における知名度と、武術の本場方山と萊山の技を習える道場として瑞京で最も人気のある名門道場だった。弟子の数は百を超える。

 一方でこの男達の鉄刀門は後者の代表である。悪名なれど倪兄弟の名は江湖にそれなりに知られており、質の悪い連中はこぞってその門を叩く。


「ふんっ、あんたのその顔、忘れるもんですかっ。我が命に代えても、必ず殺してやるんだから!」


「おおっ、怖え怖え。何をそんなに怒っていやがるんで? 俺たちが何かしたか?」


「今さらとぼけるんじゃないわよっ! 邪教のあの白い剣士を雇って父さんと母さんを斬らせたのはあんた達でしょうっ!」


「へへっ、やっぱり気付いてやがったか。そこまで知られていたとなると、ますます萊山にやるわけにはいかねえな」


「―――っ、何を白々しくしらばくれているのかと思えば、そういうこと」


「へっ、まあ仮に何も知らなかったところで、逃がす気はねえけどな。なんせ鴛鴦館の一人娘だ。良い値が付きそうだぜ」


「やっぱり、父さま達の調べは間違いなかったのね。―――鉄刀門の連中は女をかどわかし、腐敗した朝廷の高官に売り渡しているって」


 全ては鴛鴦館に通う弟子の一人、秀蕾の二つ年上の妹弟子が消息を絶ったことから始まった。父と母は方々を調べ回り、鉄刀門の悪事に辿り着いた。鉄刀門の顧客には都の高級役人も多く含まれていることも分かっていたため、訴え出る相手を吟味し、慎重に証拠集めが続けられた。そんな最中だった。鴛鴦館に一人の剣士が訪れたのは。

 剣士が道場に足を一歩踏み入れた瞬間、その場の空気が凍りつくのを感じた。男の纏う得も言われぬ濃密な香気の正体が、今なら何となく分かる。人殺しの気配だ。

 少年と見紛うほど小柄で痩せぎすだが、この剣士の噂が江湖で囁かれ始めてすでに五年以上の年月が流れている。小白蛇しょうはくだ、あるいは単に白い剣士とも呼ばれる男だ。蒼白な肌に、噂通り死装束のような真っ白な衣服で、一目でそれと知れた。この数年の邪教が請け負った殺しの仕事の大半を担っているとも言われ、かつて江湖を血と恐怖で染め上げた災厄剣こと龍捷の再来と恐れられていた。

 白昼堂々道場に乗り込み仕合を申し入れてきた小白蛇に、両親は彼の者の悪行にここで終止符を打つと、意気揚々と応じた。父は瑞京第一、母は瑞京第二の武芸者であり、天下でも有数の達人だ。秀蕾含め弟子の誰もが負けるなど想像もしなかった。

 まずは父が立ち会うこととなった。拳法と並び方山派が得意とする棍法で対した父を、小白蛇は嬲るように何度も斬り付けた。恐らく小白蛇の狙い通り、堪らず割って入った母も交えて二対一の戦いとなった。そこからは一瞬だった。わずか数合の内に父が斬り伏せられ、返す剣で母が刺し貫かれた。

 自分も含め十数人の高弟達が小白蛇に攻撃を仕掛けたが、秀蕾以外の全員が瞬く間に斬り伏せられた。他の弟子達が恐慌をきたし逃げ出す中、一人身構える秀蕾に一瞥をくれて白い剣士は道場を立ち去った。子供は殺さない、それだけを言い残している。


「鴛鴦館のおしどり夫婦もいらぬ腹を探ったりしなけりゃあ、死ぬことも、娘が慰み者にされることもなかったのになぁ」


「―――っ、殺すっ! 李仙姑の手を借りるまでもないわっ、今この場で殺してやるっ!」


 倪飛燕目掛け、飛び掛かった。萊山派の軽功で相手の懐まで踏み込み、方山派の二起脚―――跳び二段蹴り―――を仕掛ける。秀蕾の得意技だ。


「はぁっ!」


 二起脚の一段目の前蹴り。流派によっては二段目を当てるための牽制であったり、助走の一環であるが、方山派では鳩尾を狙って本気で蹴り込む。

 しかし倪飛燕はひょいと半歩下がるだけで秀蕾の前蹴りを避けた。構わず二段目で顎を蹴り上げにいくが、それも一歩退くことで容易く躱す。

 やはりこの男の軽功は秀蕾よりも上だった。


―――だけどこれなら。


 中空で、蹴り上げた足を引かぬままに右腕を振るう。手には、袖に仕込んでいた匕首ひしゅがすでに握られている。“一度目”ほどの躊躇いもなく、それを投擲した。匕首は蹴り脚の影が作る死角を辿り、倪飛燕の喉元へと吸い込まれていく。


「―――っ」


 秀蕾は覚えずぎゅっと固く瞳を閉ざす。しかし直後、キィンと予期せぬ金属音が耳朶を打ち、秀蕾の目を開かせた。


「そんなっ」


 倪飛燕はいつの間にか抜き放った柳葉刀を、眼前に掲げていた。匕首は当然それに弾かれ、秀蕾共々むなしく地に落ちた。


「おいおい、不意打ちの匕首の技なんて、方山や萊山にあったか?」


「くっ、まさかこれが防がれるなんて」


「へっ、何を驚いていやがる。軽功じゃあ兄貴に譲るがな、刀法なら俺の方が兄貴より上なんだぜ」


「倪飛鵬より上。……そういうこと」


 匕首の技は、倪飛燕の言う通り方山や萊山に伝わる武芸ではない。この一月の間、軽功を得意とする倪兄弟に一矢報いるべく秀蕾が考えに考えて作り上げた奇手だった。


「へっ、しかし手癖も足癖も悪いこって。お役人様に売り渡すにしても、手首の一つ、足首の一つも斬り落としておいた方が安心か」


「―――っ」


 倪飛燕が柳葉刀を構えた。上段とも中段ともつかない、どっち付かずの曖昧な構え。しかし兄の倪飛鵬共々、この下手くそな構えから繰り出す力任せの斬撃で少なくない武芸者を血祭りにあげてきたのだ。

 他の連中も、刀を手に秀蕾を囲い込む。


「なるほど、そういう事情かぁ」


 争闘の場の緊迫した空気を、緊張感のない声が破った。それはこの数刻ですっかり聞き馴染んだ声だ。


「……馮迅?」


「おう」


 倪飛燕の巨体の陰から、馮迅はひょいと顔を出した。


「ほら、預かりっぱなしの荷物」


 言いながらとことこと無警戒に男達の囲みの内へ、秀蕾の隣まで歩み寄り、荷を押し付けてくる。


「な、何を暢気に。というか、あんた、いつの間に?」


「いつの間にも何も、ずっとここにいたぞ」


「倪の奴の背後に隠れて、一緒に付いてきていたということ? あんた、軽功が使えるの?」


「ああ、結構得意だ」


「けっ、結構得意って、あんた」


 秀蕾は唖然として言葉を失った。

 男達に気付かれもせずここまで後を付け、加えて秀蕾の攻撃を躱した倪飛燕の動きにも気取られることなく合わせたということだ。そんなことは秀蕾の父母にだって出来はしないだろう。


「あんた一体何者なの?」


「俺自身は特に何者というわけでも。……ふむ。落ち着いて話すには、少々剣呑か―――」


 馮迅が言うや、秀蕾の隣で一陣の風が立った。風は秀蕾の周囲を、男達の間を吹き抜け、再び秀蕾の隣で吹き澱んだ。そこでようやく、ただ馮迅が駆け抜けただけなのだと認識が追い付く。


「て、てめえっ、そりゃあ俺の柳葉刀っ、いったい何をしやがった」


 倪飛燕が馮迅を指差し叫ぶ。足を止めた馮迅は、それまで丸腰だった腕に柳葉刀をたんまりと抱えていた。


「お、俺のも」


「俺のもだっ」


 どっさり得物を抱えた馮迅に代わって、男達の方が無手となっている。


「……あんた、何をしたの?」


「ずいぶんと危ないものをお持ちだったので、ちょっとお預かりした」


 馮迅は柳葉刀を無造作にがらがらと抛り出しながら言った。


「お、お預かりしたって」


 またも秀蕾は絶句させられた。

 無手で相手の得物を奪い取る。多くの武術流派に型として存在こそすれ、実現は困難な机上のものとされる類の技だ。最高難度の功夫だった。それを瞬時に多数からとなると、方山五拳に数えられた父でもそんな真似は不可能だ。方山派掌門の円開禅師や李仙姑でも、いや、武林の歴史に燦然とその名を刻む方山派開祖の空明大師や天下第一剣こと馮一剣であっても、果たして同じ真似が出来るかどうか。


「俺の眼前で、殺しはさせない」


 馮迅は周囲の男達一人一人に視線を合わせるようにしながら静かに言った。


「……」


 男達は馮迅の足元に転がる得物を取り返したいのだろうが、互いに先を譲り合うように目くばせをし合うばかりで、誰一人として一歩前に踏み出すことが出来ずにいる。

 当然だろう。この連中も曲りなりにも武芸者である。目の前の青年が卓越した軽功と尋常でない武功の持ち主であることくらいは、誰に言われるまでもなく理解していよう。


「―――くっ、うおおおっっ!」


 倪飛燕が自身を奮い立たせるように雄叫びを上げると、馮迅の足元に頭から突っ込むように飛び込み、柳葉刀を引っ掴んだ。さすがに身ごなしは軽い。


「へへっ、刀さえ手に入れちまえばこっちのもんだ。もうさっきみてえな油断はしねえぞ」


 倪飛燕は強がるように言いながら、片手持ちの柳葉刀の短い柄を強引に両手で握り込む。対する馮迅に慌てた様子は微塵もない。


「おらぁっっ!」


 倪飛燕が柳葉刀を大上段に振りかぶり、振り下ろす。力任せだが、その勢いは容易く人の身体など両断し得るものだが―――。


「―――っ、ばっ、馬鹿なっ」


 次の瞬間、鼻先に柳葉刀を突き付けられているのは倪飛燕の方だった。

 柳葉刀が振り下ろされる瞬間、馮迅の手が柄を握る倪飛燕の手元に伸ばされた。すぐ隣に立つ秀蕾にはそこまでは見て取れたが、それから先なにがどうなったのかは皆目見当もつかない。ただ剣など使えないと言っていた馮迅が刀を突き付ける姿は、倪飛燕の素人臭い構えよりもよほど堂に入っていた。


「……」


 馮迅は静かに刀を引き、再びがらんと放り出す。倪飛燕は慌ててそれに飛び付いた。


「へへっ、まぐれはそう何度も続かねえぜっ」


 再度袈裟懸けに振るわれた柳葉刀は、初めからそうと決められていたかのようにまたも馮迅の手に納まった。


「ちっ」


 倪飛燕は馮迅がそれを手離すのを待たず、地面に転がった別の柳葉刀を拾い上げ斬り付ける。馮迅は手にした柳葉刀を投げ捨て、代わりに倪飛燕の手から再び奪い盗る。倪飛燕がまた別の柳葉刀に手を伸ばす―――。

 そうして同じやり取りが数十度も交わされた。せっかくの至高の絶技も、こうまで当たり前のように繰り返されると三文芝居でも見させられているような気分だ。秀蕾だけでなく周囲の男達も飽き飽きとした顔を隠さなくなった頃、ようやく倪飛燕は音を上げた。


「はぁっ、はぁっ、いったい何だってんだ、何でまぐれがこんなに続くっ」


「そりゃあ、まぐれじゃないからな」


 力任せの刀を振り続けた倪飛燕が肩で大きく息をするのに対して、馮迅は額に汗一つかかず涼やかな風貌を保っている。


「はぁ、はぁ、ば、馬鹿いうなっ。この俺の刀をっ、それも思いっきり斬りにいったところを、奪えるはずがねえだろうっ」


「別に納得いくまで続けてもらって構わないぞ」


「……くそっ」


 倪飛燕は忌々し気に吐き捨てると、大地にへたり込んだ。


「―――っ」


 その瞬間、秀蕾はほとんど反射的に動き出していた。


―――父さん、母さん、今こそ仇を


 抱えていた荷を抛り出し、地面に放置されたままの柳葉刀の一本をつかみ取り、倪飛燕の頭上で振り被る。地べたに座り込んだままの倪飛燕は、疲労の際で満足に反応出来ずにいる。振り下ろした。


「…………?」


 当然手の平に伝わるだろう肉を割き頭蓋を断つ感触がなかった。秀蕾は恐る恐る、やはりつぶってしまっていた目をあける。

 呆けた表情の倪飛燕の顔が見えた。汗にまみれているが傷一つない。それにどこかほっとしかけた自分を頭を振って否定し、秀蕾は目を転じた。


「……これは何のつもりよ、馮迅っ!」


 握っていたはずの柳葉刀が馮迅の手に移っていた。秀蕾は無手の右腕を倪飛燕の頭上で馬鹿みたいに振り抜いただけということだ。


「そんな無理をしてまで、人なんて殺すもんじゃあないよ」


 やはり柳葉刀を抛り出しながら、馮迅が言う。


「む、無理なんてっ」


「それにさ、言ったろ。俺の前で殺しはさせないと」


「何よっ、私の邪魔までするつもりなの! 聞いていたのでしょうっ、こいつは邪教に依頼して、私の両親を殺させた奴らの片割れなのよっ!」


「それでも殺しはいけないよ。きっと後悔する。それは本当に最後の最後の手段なんだ」


「じゃあどうしろっていうのよ、父母の仇を見逃せとでも言うのっ!? それでこいつが悔い改めて、真人間になるとでもっ?」


「それは、どうだろうなぁ。生まれつき良心の欠片も持ち合わせちゃいないって面をしてるし、更生する可能性は、うーん、万に一つくらいは望めるか?」


 馮迅はしげしげと倪飛燕を眺めながら言う。


「てめえっ、そりゃあいくら何でも言い過ぎだろうがっ」


「あんたは黙ってなさいよっ」


 倪飛燕を睨みつける。本来秀蕾よりも格上の武芸者であるが、馮迅に散々にやられて自信もすっかり喪失したのだろう。倪飛燕は大人しく黙り込んだ。


「こいつが真人間になる可能性なんて万に一つなのでしょう。だったら殺してしまうべきよ」


「その万に一つの可能性にかけて、大事なもの全部投げ出してくれた人を俺は知っている。その人に報いるためにも、どんな糞野郎だって俺は見殺しには出来ない。悪いな」


 馮迅が遠い目をして言う。


「―――っっ。それは、あんたの事情でしょうっ。見殺しが嫌だっていうのなら、目でもつぶってなさいよっ!」


「今さらそういうわけにもいかないな。俺に出会っちまったのが不幸だと、諦めてくれ。頼む」


 馮迅は膝を突き、頭を下げた。額を地べたに付けるほど深々とした礼だ。


「こいつはあの白い剣士に依頼して、父さんと母さんを殺したっていうのに、あんたは頭を下げてまで私には殺すなと言うのっ?」


「ああ」


「たまたま、あんたがこの場に居合わせたから? それだけの理由でこいつは助かるっていうのっ!?」


「ああ」


 馮迅に出会わなければ、秀蕾は今頃倪飛燕たちに捉えられ、死ぬよりも不幸な未来が待っていた。当然、倪飛燕を仕留めるこの好機だって訪れてはいない。しかし馮迅にそれを誇る様子は微塵もない。


「それなら、それならっ、どうしてっ、父さんと母さんが斬られる前にっ、―――私が倪飛鵬を殺してしまう前にっ、来てくれなかったのよっ!」


「なっ、てめえ、まさか兄貴をっ」


「そうよっ、殺してやったわっ! 私が父さんと母さんを殺されてからのこの一月の間、何をしていたと思うっ? 瑞京に潜み、あんたたち兄弟を殺すことだけ考え続け、そして三日前、ついにやってやったわっ!」


 倪飛燕にと言うよりも、馮迅に聞かせるために叫んだ。狂ったように叫ぶ秀蕾に、倪飛燕は怒りを忘れ気圧されたように目を見開く。

 鴛鴦館での惨劇以来、倪飛鵬は子分でもある弟子達を常に護衛のように付き従えていた。当然、襲撃を警戒していたのだろう。しかし鴛鴦館の気骨と腕のある弟子は、すでに小白蛇の剣に倒れている。秀蕾は一人路地裏に潜み、襤褸を纏い時には顔に泥を塗りたくって変装し、機会を伺い続けた。そうしてようやく倪飛鵬が一人きりになったのが三日前だった。物陰から駆け寄っての不意打ちの二起脚は弟の倪飛燕以上の身ごなしで躱されたが、そこからさらに不意打ちを重ねた匕首の投擲は、過たず倪飛鵬の喉に突き立っていた。

 襤褸を脱ぎ捨て、知人に預けていた愛馬を受け取るとすぐに萊山へ向けて発った。姿が見えなかった倪飛燕や弟子達が報復に動き出すと思ったからだ。

 父母の仇を討ったのだ。誇らしく、胸がすく思いは確かにある。しかし道中、目を見開き、口をぱくぱくとふるわせながら死にゆく男の顔が頭にこびりついて離れなかった。すっかり気が滅入ったところに出くわしたのが、馮迅であった。


「…………いまさら、一人殺すも二人殺すも同じなのよ」


「そうか。俺がその場にいなかったばっかりに、辛い思いをさせちまったな」


 馮迅が顔を上げた。


「あんた、何を泣いてるのよ」


「秀蕾の気持ちが、痛いほど分かる。俺も昔、似たようなものだったから」


「だったら―――」


「それでも止める。他でもない俺は止めなきゃならない。―――頼む、秀蕾。俺に出来ることなら何でもする。だからこの糞野郎を見逃してやっちゃくれないか」


「何でもする? なら代わりにあんたを殺すと言ったら、それでも構わないというのっ。命は命でしか購えないわっ」


「なんだ、そんなことで良いのか」


 馮迅はあっさりと言ってのけると、地に膝を付いたまますっと背筋を伸ばした。斬りやすいように、ということなのだろう。


「ほっ、本気なのっ?」


「まあ、俺だって死にたいわけじゃないが、こればっかりは仕方ないな。命は命でしか購えない。確かにその通りだ」


「…………」


 再び柳葉刀を引っ掴み、振り被る。睨み据える先は今度は倪飛燕の脳天ではなく馮迅の肩口だ。振り下ろした。


「―――っ!」


 先刻と違い、されどやはり予想外にも、肉を断つ嫌な感触が手の平に走っていた。


「あ、あんたっ、何してるのよっ。何でさっきみたいに取り上げないのよっ!」


 柳葉刀は馮迅の左肩に刀身の半ばまでを埋めたところで止まっている。いや、咄嗟に秀蕾が止めていた。


「無茶な願いをしてるってことは分かっているんだ、命くらいは賭けないとな。それに、どうせ俺を殺すつもりなんて初めからなかったんだろう?」


「知ったようなことをっ」


 どうせ命が惜しくなって刀を奪い取るに決まっている。だからそれを盾に倪飛燕の殺害を見逃すよう迫るつもりだったのだ。万一のために、頭頂ではなく肩を狙っておいたのが幸いした。


「―――っ」


 そっと刀を持ち上げると、服に滲む程度だった血がどっと吹き出してきた。半ばまでといっても幅広の柳葉刀であるから、一寸(3㎝)ほどは斬り込んでしまっている。

 秀蕾は慌てて柳葉刀を投げ捨て傷口を両の手の平で抑えつけに掛かるが、上手くいかない。


「くっ、もうっ、何なのよ、これはっ」


 人ひとりを殺そうという覚悟はどこへ行ってしまったのか。肩口を一寸斬っただけで、がくがくと両手が震えて言うことをいかない。出血を止めるつもりが、かえって傷口を広げてしまうようだった。


「ちょっとそこのあんたっ、いつまでぼうっとしているのよっ。命の恩人が危ないのよっ、早く手伝いなさいっ! あんたらもっ、早くっ!」


 倪飛燕や男達に、立場―――命を狙った当の本人であり、馮迅がいなければ逆に殺された方がましという目にあわされていただろう―――も忘れて叫ぶ。


「……お、おうっ。―――おいっ、誰か針と糸を持ってこい。それに酒もっ」


 倪飛燕の方も秀蕾が兄の仇であることを忘れたのか、毒気を抜かれた様子で肯くと、子分たちに命令を飛ばし始めた。


 結局、馮迅の傷は幸いにも軽傷と言っていいものだった。上衣をはだけさせると、意外なほど背中から肩にかけての筋肉が厚く、骨や経絡に刃が達することはなかったのだ。

 数刻後には、馮迅は秀蕾と二人、萊山へ続く脇道の前に立っていた。倪飛燕ら男達は距離を置いて、こちらを伺うともなしに手持無沙汰な様子だ。

 馮迅は彼らに、自分と一緒に瑞京に戻って、秀蕾の妹弟子を含む売られた女達を共に救出することを誓わせていた。顧客を知る倪飛燕ら自身の協力なくして成し得ないことだ。倪飛燕もこの甘過ぎる青年はともかく李仙姑は恐ろしいであろうから、約束を違えはしないだろう。それに考えたくもないことだが、馮迅の言いなりになって大人しくしている今の姿や、秀蕾に言われるがままに傷の治療に当たった先刻の様子からして、存外素直なところもある連中なのかもしれない。

 倪飛燕への憎しみは変わらず秀蕾の胸の内にある。しかしただ憎むべき仇でしかない倪飛鵬の死に際すら目にこびり付いて離れないのだ。成り行きとはいえ共に馮迅の治療に当たった倪飛燕を手に掛ける気には、もうとてもなれそうになかった。


「……こんなやり方が、私以外の人間にも通じるなんて思わないことね。今後もこうして殺し合いの場に出くわす度にいさめ続けるなら、今にあんたは自分の無力に泣くことになるわ。いや、今度こそ本当に命を落とすことになるかもね」


「ああ、そうかもな」


「それでも、私の両親の代わりにあんな連中の命を救ったようなものなのだから、あんたはこれから先、どんなクズの命も助けなさい。私の言うことを、何でも聞いてくれるのでしょう?」


「ああ、わかった」


 馮迅はひどくあっさりと肯いた。


「それとねっ、目の前で殺しはさせないと言うのなら、誰よりもまず自分自身の命を守りなさいよねっ」


「―――っ。ああ、約束しよう」


 馮迅の答えを背中で聞き、秀蕾は坂を登る。山門へ続く道は、真っすぐきれいに伸びた一本道だった。




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