第一話 ある吸血鬼の話
最近、妙に肉類ばかり食べたくなる。
今日も仕事帰りに寄ってきたスーパーで、牛と豚の合挽肉、豚バラ、鳥のささみ、ハムやソーセージ、と肉ばっかり色々買ってきてしまった。全部料理して明日の朝と昼までで食べ尽くしてしまう。これじゃあ医者の不養生だな、と思いつつも、以前は嫌いじゃなかったしそれなりに食べていたはずの野菜がなんとなく受け付けないような状態だったのだ。おかえり、と出迎えてくれるパートナーの瀬田のために野菜とか他の食材も買って帰るが、裏都自身が食べない分、最近は少ししか作っていない。
「もう、また肉ばっかり」
「仕方ないやの……最近全然野菜とか食べられないし……」
「わかってる。ほら、料理手伝うよ。今日は何作るの?」
瀬田の優しい微笑みが裏都の心に突き刺さる。職場が医療関係の研究所なので仕事ついでに検査もできるのだが、検査結果は異常なし、病気らしい兆候は食の偏りだけであった。
瀬田と一緒に、最近一括で買った一軒家のキッチンに立つ。時刻は午後五時、そろそろお腹が空いてくる時刻。今日の夕食は、ハンバーグ、豚肉の生姜焼き、ささみの唐揚げ、ポテトサラダ……見事に肉類ばかりである。裏都は、そんな今の自分に罪悪感と焦燥感を覚えつつ、包丁を手にするのであった。
翌日、休日の午前十時。
何か妙なことがあれば、相談すべき相手といえば、時計卯夜であった。瀬田の身体の件も、解決のきっかけを掴んだのは彼のおかげである。科学で医療の研究をしている身としては正直、魔法なんてよくわからない力を使っている卯夜のことはよくわからないやつだと思っているのだが、とはいえ頼れる人間(?)なのは事実なので遠慮なく頼る。
「最近肉類ばっかり……??」
「やの……。野菜とか全然、食べられなくて」
ふーむ、と首をかしげる卯夜。こいつ男だったよね、昔から女の子みたいなところはあるっちゃあったけど高校生くらいからさらに女の子っぽくなった気がする、と思う裏都である。本人がそれでいいならそれでいいのだろうが。
しばらく考えて、わかった、というふうに手のひらを握りこぶしで叩く卯夜。
「もしかして、身体が肉を求めているのは血が足りてないからとかそういうのじゃない?」
「ち、血……??一応サプリメントで対処してるから鉄分不足とかそういうことはないはずやのけど……」
「栄養素的な意味じゃなくて、知らない?吸血鬼」
卯夜が出した回答は、つまりそういうことであった。吸血鬼。卯夜も以前何人かの吸血鬼に関わったことがあるというが、吸血鬼になりかけの人間に共通しているのが野菜などを食べるのが困難になり、逆に肉ばかり食べるようになる、という兆候。人間、及びそれに類する生物の血液を摂取すればその症状は収まるという。ただし、輸血パックからとかそういうのはダメ、だそうだ。
「まぁ、今は瀬田のやつも健康体なんでしょ?吸血くらい協力してくれるでしょ」
「ほ、他に解決法はないやの……?」
「そんなこと言ってると死ぬよ」
今回ばかりは治療法も代替可能な薬品等もないらしい。おとなしく腹をくくって血を吸ってこい、と言われてしまった裏都であった。
休日の昼くらい一緒に過ごしたい。十二時には裏都は帰宅していた。昼食の用意は瀬田が全部済ませてくれている。
「で、どうだったの?」
「……ごめん、やの。その話は後で……」
言いづらいことがあっても言わないなんてことはない。けれど、言い淀んで、言うのを後回しにしてしまうことくらいはあった。隠したいから隠しているんじゃない、ということをちゃんと理解している瀬田は、それじゃ、ごはん食べてからね、と優しく応じてくれる。その優しさがまた心を痛ませるのだ。
また、ステーキに手を伸ばす。なりかけだから肉をひたすら食べるというだけで済んでいるけれど、そのうち本当に誰かの血液なしでは死んでしまう身体になってしまう。医療行為、みたいなものなのだから何ら恥じることも逃げるべきことでもない、と、医者として自分に言い聞かせる。切り分けた一切れを口に運ぶフォークを持つ手が震える。取り繕うように、一切れ、また一切れと口に運ぶ。
言いづらいことがあっても言わないことはない。それをきちんと理解している瀬田は、その様子をそこはかとない不安を抱きながら少しだけ見つめて、それからサラダに手を伸ばした。
食後、落ち着いて話がしたくて二人で寝室へ。二人で寝るにもやや大きい、キングサイズのベッドには、清潔感のある純白の寝具。とにかく安心感が欲しくて裏都が布団に潜り込むと、瀬田も一緒に布団の中に。
住宅街の、さらに外れの一角は、ごくたまに車が通る以外は無音と言えるほど静かなものだった。昼間でも外の様子を気にせず安眠できる空間で、夜勤や早番で昼に寝て過ごすこともある裏都にとっては最高の環境だ。
「……せー、た」
「うん。なぁに?」
柔らかな羽毛布団の中で、手を握り合う。こうすれば、いつだって自然と素直になれた。病気が治っても相変わらずインドア派で、白くてきれいな手だ。こんな手でも料理以外の家事の大半を任せてしまっているので、たまに小さく傷が出来ていたり、冬だと手荒れすることもある。冬が近づく度ハンドクリームを買ってきてあげているのは、この手が綺麗なままでいてほしいからだ。
決心する。隠し続けようなんて、死んだってありえない。お互いの全部を、いつでも知っていたいから。一緒に生きると決めた日、たとえどんな小さなことでも大きなことでも絶対に話すと誓ったのだから。
「……今日、卯夜に話を聞いてきた」
やの、なんて語尾はお預けだ。馴染みすぎて外すとやや口下手になってしまうけれど、でも、ありのままの自分で話す。言い淀むようなことなら、尚更、何かに包もうだなんてありえなかった。
「吸血鬼のなりかけかも、って……そう、言われた。血を吸わなきゃ、いつか死んでしまう、って」
怖くて、辛くて、瀬田を抱きしめるその手が震えて。
情けなくて涙が溢れてくる。長い眠りについていた瀬田をもう一度目覚めさせたあの時、裏都は俺のヒーローだって言ってもらえた、そんな裏都はこんな告白程度で怯えるような弱い人間じゃない、と。
怖くて、辛くて、情けなくて、頭の中身が全部ぐちゃぐちゃにかき混ぜられてしまいそうだった。
「……裏都」
震える身体を、背中をしばらく優しく撫でていてくれた瀬田がふと名前を呼んだ。ここに俺がいるから大丈夫。そう言いたげに、瀬田は裏都を抱きしめ返す腕に力を込め、さらに裏都の身体を己の胸へ繋ぎ止めようとする。
「ちゃんと、また言ってくれてありがと。大丈夫だよ……、そりゃ、怖い、よね。大丈夫だよ。泣きたいなら、いくらでも泣いていいんだよ」
その優しい言葉が、また胸を刺す。心の痛みをひたすら誤魔化すように、溢れ出ただけの涙が、やがて嗚咽混じりになる。
「……っ、ぅ、ぁ。ひっく、う、あぁあ……っ」
幼子のように泣きじゃくる裏都を、瀬田はただいつまでも優しく、強く抱きしめていた。
やっと落ち着いた頃には、もう日が傾いていた。泣き疲れて眠ってしまった裏都の頭を、瀬田はそっと撫でる。食事の一つくらい遅れたり抜いたりしたところで構わない。起きた時にそばに居なかったら怖いよね、と、瀬田はただそこにいた。そういえば、寝室に身体に傷をつけられそうな刃物はあっただろうか、とタンスや棚を探してみると、タンスの上段の小さな引き出しにメスが入っていた。消毒液やガーゼ、医療用精製水なども揃っている。多くの家庭に揃っている救急箱のラインナップを豪華にしたような感じ、と言えば伝わるだろうか。医療用精製水とガーゼ、包帯など、処置に必要そうなものと一緒にしまってあるメスを取り出すと、ベッドサイドのテーブルに置く。
すっかり暗くなったころに、ようやく裏都は目を覚ました。
「おはよ」
「……、せぇ、た……」
ただぼうっと瀬田の顔を見上げる裏都。メスの先を医療用精製水を染み込ませたガーゼで拭って綺麗にして、それから瀬田は手首の皮膚の上を、躊躇なくメスを滑らせた。
「っ、瀬田……!?な、何やって……っ」
「……裏都」
手首にできた傷口から、鮮血の珠がぷくりと膨れ上がる。それを自分の口で吸い上げて、それから瀬田は裏都の唇と己の唇を重ね合わせる。己の血を、口移しで飲ませた。
「ん、っ……、っは、」
「ふ……、……どう?」
口移しできる量なんてごく僅か、すぐ唇を離せば、息が荒くなる裏都。微笑むでも不安げな表情をするでもなく、ただ裏都を見つめる瀬田。しばしそのままだったものの、やがて裏都は瀬田の、手首を切った方の手を引き寄せた。
その手首に口を近づけ、血を貪る。ずっと身体がこれを求めていた、というのがよく分かる感覚。血液なんて鉄の味しかしないと思っていたのに、なぜだかとても優しい味がした。
「……裏都」
「……んっ……、」
「美味しい?」
瀬田の顔を見ると、瀬田は優しく微笑んでいた。あぁ、綺麗だ、と思った。夜の空が、窓の外に見える。今日は新月。吸血鬼みたいな人外のモノと言えば、新月の夜は力が増すんだっけ。
血を一通り貪り、手首の傷の処置を済ませる。真っ白な包帯が、一瞬だけ巻いてないように見えるほど白い肌。今日は無性にその身体を弄びたい気分だった。
包帯を巻いた手首に下手に触れないよう注意しつつ、真っ白な布団の上に押し倒す。体中に力が湧いてくる。”食事”をしたのは自分だけとか、そんなことも忘れて、また唇と唇を重ねた。
今夜は、窓の外を眺めればただひたすらに星空の輝く新月の夜。その中でもひときわ、ふたつの一等星が力強く輝いて見えた。