美しき別れ或いは過去逃避(5)
5
キララは、両手で持ったカバンを重そうにしながら、一段ずつ階段を慎重に下りていった。
階段を降り、リビングを経由して、廊下を通り過ぎ、玄関にたどり着くまでの間に、キララは先ほど姉妹の部屋と別れを告げた時とやけに似ているノスタルジィに襲われていた。
――そうか、私はあの部屋とだけじゃなくて、この家そのものと別れを告げるのか。それだけじゃなくて、お母さんとお父さんととも……。
そう思うと、目頭がついつい熱くなってしまうけど、こんなところで泣いても母親がオロオロと困ってしまうだけだ。
涙は最後にとっておこう。何の最後か知らないけれど、――
やっとの事で玄関を出ると、荷台付き三人乗りのカーキーカラーでところどころにサビやら凹みやらがある自動車が路上に佇んでいた。
自動車の前には、その持ち主である斜め前の家に住む近所のおじさんが母と楽しそうに談笑しながら待っていた。
玄関から現れた彼女を認める、近所のおじさん。
「おーぉ、おーぉ、キララちゃんじゃないか。おはよう」
こんな早朝にもかかわらず、おじさんは眠気を微塵も感じさせない快活な調子で話しかけてきた。
港の倉庫を取り仕切っているおじさんは、町内では珍しい蒸気自動車の持ち主。そのおじさんが蒸気自動車を手に入れたのはつい三年前のことだから、姉の頃は重い荷物を持って、苦労しながら港までどうにかこうにかして行った。
馬車を使うと言う手もあるのだが、――それに、このおじさんは蒸気自動車に乗る前は馬車に乗っていた――それなのに姉が、
「大丈夫、大丈夫。このくらいの荷物平気で持って行けちゃうんだから」
と言って馬車を断ってしまった。
先日、母が車を使わせて欲しいと菓子折りを携えてお願いしに行ったのも、その頃の経験からなのだろう。
おじさんが間髪入れず話しかける。
「キララちゃんも、もう独り立ちするんだねぇ。本当にしっかりしとるわ」
「ええ、ありがとうございます」
「呪魔祓いの修行に行くんだろう?」
「あっ、はい。マイトへイヤー賢人の元で修行なんです」
「あー、あっ! マイトへイヤーさんってあのマイトへイヤーさんかい? そらぁ、すごい人の元で修行することになったねぇ。きっちり修行して、バンバン悪い奴を懲らしめりぃよ」
「はい、わかりました。ありがとうございます」
若干引きつった笑顔でキララはそう言うしかなかった。そこまで話し上手ではないキララにとっては、今のは精一杯の会話であった。
母が口を開く。
「ほんとに今日はありがとうございます。姉の頃は、重い荷物を持って港まで行くのも大変だったもので……」
「あーぁっ、えーんよ、えーんよ。どうせわしも港まで行かないかんのやけ、ちょっと一緒に乗せて行くだけやよ」
「ありがとうございます。ほんとにもう」
「よーしじゃあ、そろそろ港に行く時間や。はいはい、その荷物は荷台に乗せておこう。キララちゃんももう乗っとっていいから」
「あっ、ありがとうございます」
そう言うとキララは、おじさんに荷物を渡し、自分は自動車の助手席に座った。
自動車のソファーはクッション性で家のソファーより劣っていた。
おまけに、早朝ということもあってソファーから冷気が彼女の太ももから背中にかけて染み渡ってきた。
「くぅー、さむい」
そう言いながら、手のひらをこすり、手のひらを口で覆って息を吐く。
それしか、凍えている自らを慰める方法はなかった。
おじさんが勢いよく運転席側のドアを開け、勢いよく盛り込んできた。
寒さなんてものが微塵にも感じられない。
というより、このおじさん、むさ苦しい!
「よぉしじゃあ行こうか。
そうだ、最後にお母さんお父さんに挨拶しときなさい。
ほらそこのドアの横のハンドル回したら窓が開くから」
おじさんの気の利いた判断
キララは言われた通りにハンドルを回し窓を開け、窓から顔を覗かせた。
母はキララの目線より下にいる。
「キララ、向こうに行っても無茶しないことよ。
必ず週に一回は手紙をよこしなさいよ。
お母さん、楽しみに待ってるから」
「わかってるよ。お母さん。
絶対約束守るから
絶対手紙送るから」
二人は穏やかな表情であったが、母の表情のその奥には、旅立つ娘に対する寂しさと心配の念が感じられた。それをはっきりとキララは感じていた。
自動車のエンジンがかかる――爆音が辺りを包み込む
ふと彼女は、もう一つ、最も伝えておかなければならないメッセージがあった気がした。しかし、どうにもその言葉が浮かんでこない。
旅立ちの日を迎えた娘たるものが母に告げておかねばならない、大切な言葉――何かあったはずなのに、どう頭を捻らせても一向に見つからない。
その時、今の私と同じように旅立って行った姉のことを思い出す――あの時、お姉ちゃんは私になんて言ってたっけ……、そうか。あの言葉だったんだ。私がお母さんに伝えるべき言葉は、
その途端に車はゆっくりと動き始めた。
キララはもう一度自動車の窓から顔を出し、そして自動車のエンジンの爆音に負けないくらいの大きな声で叫んだ。
「お母さん!
私、お姉ちゃんが旅立ったあの時、
自分の人生をちゃんと自分の脚で歩むって、お姉ちゃんと約束したの!
だから……、だから私、絶対お姉ちゃんとの約束守るから!
絶対自分を見失わないんだから!」
――目から大粒の涙が溢れてきた。どうして、どうしてなの。さっきまで、お母さんを心配させちゃいけないから、泣かないって決めてたのに。どうして、こんなに悲しいの……
ゆっくりと進み始める車を追いかけながら、母も負けじと叫ぶ。
「ええ! わかったわ!
あなたとお姉ちゃんとお母さんの約束よ!
何かあっても、お母さんは絶対あなたのことを守るから!
あなたは、お母さんの大事な大事な愛おしい娘なんだから!」
自動車は加速する。
小走りだった母は足を止め、大きく手を振り、別れの挨拶をした。
キララは自動車の窓から上半身を乗り出し、できる限りの精一杯の力で手を振った。
母の姿は次第に小さくなっていく。