美しき別れ或いは過去逃避(1)
1
それまでキララの自室に漂っていた、その部屋の主人すらも気づくことのできない静寂。
その静けさは、キララの寝ているベッドのちょうど手に届くところにある本棚に置かれた、ピンク色豚の目覚まし時計によってあっという間に切り裂かれた。
ジィリィリィリィリィリィリィ……!
鳴り響くひどく人を不愉快にさせる高い金属音が部屋を駆け巡る。
キララは、まだ完全に作動しきっていない耳だけを頼りにその不快極まりない音の発生源を左手だけで討伐することにした。
最初の試みは見事に失敗。
どうやらまだ右側にいるようだ。
二回目の試みは、間一髪のところで目覚まし時計に触れることができたが、小指がその実行犯を右側に逃がしてしまった。
そしてようやく、三回目にして彼女の左手はにぎりしめるようにして――窒息させてしまうかのようにして、――目覚まし時計を黙らせることに成功した。
キララは鈍く気だるい体をのっそりと今できる最大の力で左に傾け、その握りしめたままの目覚まし時計を、自分の顔の正面に向けた。
四時三十二分
朝がさほど強いわけでもないキララにとって今まで見たこともない時間であった――この針の位置を彼女は夕方の時にしか見たことがない。
彼女は自らの安眠をこうもあっさりと打ち消してしまった、過去の自分に言葉にはならない恨みを抱いたが、しかしこうして恨んだままでいるは全くの無駄であることに気づき、それと同時に彼女がこうも早く起きた理由を思い出してからは、むしろ過去の自分を慰め、なんとか起きることのできた自分をひっそりと心の片隅で褒め称えるのであった。
「おめでとう、キララ。今日から私は新しい人生を自分の足で歩むんだ」
そう心の何処かにいる私がそうか細い声で呟いた。
しかし、この7時間もかけて自らの熱で温めることに成功した布団をそう易々と手放すわけにもいかなかった。
今はすでに四月上旬春真っ盛り、かつてのあの耐え難いほどの冬を過ぎたとはいえ、春の朝はまだ冬であるというのが、キララの持論である。――キララは、足の5本指全てがひんやりと凍るような冬の寒さに全く愛着を持てなかった。それと同時に、やり場のない暑さを無償で押し付ける夏もまた嫌いではあった。
彼女は布団の中で立てこもり作戦を決行していた。
朝がハンドスピーカでキララに言った。トゥオオ―――ンと耳障りな音を一つ。
「キララさん、早くそこから出て来なさい。
君は我々によって包囲されている。
お母さんは朝ごはんの支度をとうに始めていて、お父さんもついさっきに部屋から出て来てたのだよ。
もう立てこもっているのは君一人だ。
もうどこにも逃げ場はない。
さあおとなしくそこから出て来なさい」
キララが気怠そうに応える。
「いぃやぁあだもんねー!
誰がそんな手に乗るもんか。誰がなんて言ったって、春の朝はまだ冬なんだから!
その証拠に、ほぉら。こうやって私が顔を出しただけで冷気がチクチクと襲ってくるじゃないか。
私は誰がなんと言おうと、ゼッタイに持論を曲げないんだからね!」
「何を馬鹿なことを言う。4月に入ったらいつ何時でも春は春なのだよ。さあ、とぼけたことを言ってないで!」
朝は若干イラついているようであったが、亀が自らの甲羅で身を守るのと同じように、お構いなくキララは立てこもることにした。
そして、色々なことを思案していたのだが、その時なぜ自分がこうも早い時間に起きたのだろうか――そう考えているうちに、今こうやって立てこもったままでいるのは、将来的に自分にとって得策でないことに改めて気付かされ、いても立ってもいられず、急激にソワソワして来た。
そう、この朝はこれまでの朝とは全く違う意味を孕んでいるんだ。
呪魔祓いとして、——今日というこの日は、キララという小さな町に住む少女が生まれ変わる大事な日なんだ。
とは言っても、それに甘んじてオロオロと彼らに投降する訳にもいかない。
持論を抱えるキララのプライドが許さない。
ならどうするか。
そうこう考えているうちに、キララは素晴らしいアイデアを導き出した。
朝に屈することなく、この状況を打開する方法を。
彼女は早速それを行動に移すことに決めた。
一方の朝陣営は、キララがおそらくまだ投降することは無いだろうと踏んでいた。あれだけ説得しても、自らの持論に頑なに固執する態度からして、おそらく持久戦に持ち込むことになるだろうと考え、彼女を包囲する誰もが休息状態に入っていた。
しかし、事態が一変するまでにそれほど時間を要することはなかったのだった。
突然、キララの温もり(と匂い)に染まった布団がばさっと舞い上がった。
それは、これまで沈黙を保ち貫いて来た火山が噴火するかのごとく、あるいは静寂の海に突然ビックウェーブが巻き起こるかのごとく、キララの背中から離れ、早朝立て篭もり実行犯が立ち上がるのであった。
気をゆるゆるに緩めていた朝陣営は、突然起き上がったレモン色パジャマの巨人を見るや否や総崩れになり、それぞれは散り散りになって逃げ回るのであった。
キララは、そういう周囲のどよめきにそれほど気にするということもなく、ベッドを飛び降り、部屋に一つだけある両開きの窓を一気に開け、自らの上半身を窓から出すのであった。
総崩れになった朝陣営は見る影もないという有様。
窓を開けた時、キララの顔面を、パジャマの襟の隙間を、容赦なく冷気が侵入して来た。
しかし、こういった事実は今の彼女にとってどうでも良い、気にするまでもない出来事だった――この夜の神秘性が生み出した静謐さを目にしてからは。
彼女が左を向くと、そこには空がはっきりとグラデーションのようにして眩いオレンジ色で染め上げていた。空の下に座る山の裾野もそこをたまたま横切っている細い雲たちは、朝空の黒子として目立たないように必死にその豊かなオレンジを支えているようであった。
朝焼けはそういった目立たない黒子の努力によって支えられていた。
次にキララが右を向くと、そちらはまだ夜の静寂が空気を浄化している最中であった。じきに気品溢れる夜は浄化した美しい空気を騒がしい昼に明け渡す。そうして、昼がアレヤコレヤと騒ぎに騒いだ挙句、太陽が沈んだその瞬間から夜は空気の浄化を始めるのであった。
つまり、彼女は今ちょうど夜が昼に彼女の町を明け渡す瞬間に立ち会っていたのだった。そしてきっと、この光景を目の当たりにしているのは、キララを除いて誰もいない。
ただ一人、港町レヴィンスの明け渡し儀式に立ち会っていた。
彼女は、最も浄化された空気を目一杯身体に循環させると、そそくさと窓を閉め、パジャマ姿のまま部屋を後にするのであった。朝の包囲網はすでに見る影もなかった。