決意
「……でき、ません」
クリスさんの視線から逃れるために、俯いて首を振った。
彼を憎んで恨んで責任を全て押しつけて、何の気兼ねも躊躇いもなく殺すことが出来たらどんなに楽だろう。だけど、私にはやっぱり出来なかった。
彼は魔王だ。満月の魔力だけで生きられる魔族。私がこちらの世界に来た元凶なのかもしれない。だけど同時に、一ヶ月もの間、ずっと側にいたひとだ。
彼が全てを知ったあの日、あの時、帰りたいと泣く私の頭を、彼は優しく撫でた。あの時の私の言葉を、彼はどんな気持ちで聞いていたんだろう。
私を苦しめていると思って、自分も苦しんで。いつも通りを装った態度の下で、ずっと自分を責めていたんだろう。そんな優しいひとを、どうして憎むことが出来るだろう。どうして一方的に責めることが出来るだろう。
それが彼の望みでも、私には、出来ない。
日本に帰りたい。だけど彼を殺したくない。
家族に会いたい。だけど彼を失いたくない。
どちらかしか叶えられない望み。相反する感情が苦しくて、胸をかきむしりたくなる。
動くことの出来ない私に、クリスさんが再び微笑んだ。
「大丈夫だよ、キョーコ。全部『悪い夢』だから。すぐに、全部なかったことになるから」
悪い夢。なかったことになる。
そう、確かに私はそう願っていた。全て悪い夢だったら。全てなかったことにできたら。
……それが出来ないから、今私はこんなにも苦しいというのに。彼は、こともなげに続ける。
「それに、ヒト型の生き物を殺すからって、罪悪感を感じる必要はないよ?他の誰かならともかく、僕が全部の元凶なんだから」
ね?と、私を安心させたいのだろう、小首を傾げて笑顔を向けてくる。
そんな彼の態度に、頭の中で、何かがプツリと切れた音を聞いた気がした。
「ふざけないでください!」
気が付いたときには、そう叫んで彼の頬を左手で思い切り叩いていた。
驚いたのだろう、クリスさんの目が見開かれたのと同時に右手の拘束が緩む。私は包丁を投げ捨てて、両手で彼の胸ぐらを掴んだ。
「そんなの、なかったことになんて、出来るわけないじゃないですか!クリスさんは何も分かってません!」
そうだ、彼は何も分かってない。だって今のは、私が彼を憎むはずだと決めつけているような言い方だった。本当は殺したいのに、ヒト型の生き物を殺すことを躊躇っているから殺さないのだと、きっと彼はそう思っているのだ。
その程度の躊躇いで済むなら、どんなに楽だったか。彼は、分かっていない。
驚きと困惑と動揺と、全てが一緒くたになった青い目を睨みつけた。
「私、クリスさんが思うほど優しい女じゃないんですよ。あなたに会う前だったら、魔王を殺すくらい、出来るならきっとしてました。日本に帰るためならなんだって出来ました」
それこそ、彼を殺しかけた勇者と同じように。
私が勇者だったら、勇者になれるだけの強さがあれば。日本に帰るために、この世界を『悪い夢』にするために、この世界の誰かを殺すことだって出来たはずだ。勝手な都合で私を召喚した人間にも、見ず知らずの魔族にも魔王にも情なんてなかったから。
そう、ついさっきまでは出来るつもりだった。彼の首元に刃を突きつけたその瞬間までは。
だけど。
「でも、今はもう、だめなんです」
視界が歪んだ。目の奥が痛い。声が勝手に震える。
零れそうになる嗚咽を堪えるために、両手に力を込めた。
「クリスさんが、私に笑いかけるから。私の名前を呼ぶから。私の隣にいるから。あなたがいるから……こんな理不尽で訳の分からない世界に、居場所ができたんです。この世界が、ただの悪夢じゃなくなったんです」
勝手な都合で私を召喚し、役立たずだと捨てた城の人間達。余所者の私を受け入れない村人達。何の関わりもない異世界人を勇者に祭り上げ、それに疑問を抱きもしないこの世界。
この世界でずっと、私は独りだった。孤独で、諦めと絶望と隣り合わせの、ただ死なないために生きるだけの日々だった。それを変えたのは、他の誰でもない。クリスさんだ。
私を『勇者のなり損ない』でも『余所者』でも『異世界人』でもなく、ただの『京子』として見てくれたのは、彼だけだった。
「他の誰かじゃなくて、クリスさんだから出来ないんです。たとえこの世界に来たのが、あなたのせいだったとしても……この世界で安らぎをくれたのは、あなただけだから。あなたを、好きになってしまったから」
ああ、なんて、身勝手なんだろう。
初めは私が勝手に彼を殺そうとして、でも出来なくて。いざそれをやれと言われたら、今度は勝手に怒って。わがままで、救いようがない。
だって、気付いてしまったから。なぜ彼を殺せなかったか。なぜ彼を失いたくないのか。なぜ彼を憎めないのか。その理由。
私はこのひとが、クリスさんが好きだから。愛してしまったから。
クリスさんと出会って、一緒に過ごして、そして好きになったことを、悪い夢にしたくない。なかったことになんて、出来ない。
それでもう二度と日本に帰れなくなるとしても。
「罪を償うなら、一生かけて償ってください。私のために死ぬんじゃなくて、私のために生きてください。もう、私をひとりにしないで……」
いつの間にか、彼の胸ぐらを掴んでいた手からほとんど力が抜けていた。ボロボロと涙が溢れて止まらない。きっと今、私は酷い顔になっているはずだ。
言葉と酸素を吐き出し続けて息苦しい。必死に荒い呼吸を繰り返す間、クリスさんの顔を見られなかった。
言いたいことを全て叩き付けて。少しずつ冷静になってくると、自己嫌悪がじわじわとこみ上げてくる。大それた、彼の意思を無視したことを言ってしまった。何様なんだ私は。彼に生きていてほしいんだと、それだけを伝えたかったのに。
ごめんなさい。忘れてください。でも、私のために死ぬなんて言わないでください。準備した言葉は、どれも口からは出てこなかった。なぜなら。
クリスさんが、壊れ物に触れるような手つきで、私の両手を包み込んだから。
「キョーコは……本当に、それでいいの?後悔しない?」
囁くような問いかけに、声も出せずに頷く。
向こうの世界を本当の意味で諦めるのはつらい。だけど、彼を手にかけること以上につらいことはないだろう。だから後悔はしないと、決めた。
クリスさんの手が、私の頬を包んでゆっくりと顔を上げさせる。滲んでぼやけた視界の中で、彼が微笑んでいるのが何故かハッキリ見えた。いつもの穏やかな顔ではない、泣きそうな、嬉しそうな、色々な感情が雑ざったような顔。
彼の目が潤んでいたように見えたのは、私の気のせい、なのだろうか。
「君は、強いね」
頬に手を添えたまま、親指で目元を優しく拭われる。間近から顔を覗き込まれて、こんな状況なのに心臓が跳ねた。
「今言うのは、すごく卑怯かもしれないけど……僕の気持ちを、聞いてほしい」
気持ち。クリスさんの。
そういえば、私はついさっき好きだと告白をしてしまったのだった。しかも、ほとんどどさくさに紛れて。
赤くなるやら青くなるやら、聞きたいような聞きたくないような、どうすればいいのか分からなくて固まる私に、クリスさんはもう一度笑いかけた。
彼の手が頬を離れて、ひんやりとした朝の風がやけに冷たく感じる。けれどすぐに右手を恭しく取られて指先に唇が触れて、燃えるような熱に変わった。
「僕も君が好きだよ、キョーコ。初めて会ったあの日から」
クリスさんの綺麗な目が、私を捉えてとろりとほどける。
「君が許してくれる限り、ずっと君の側にいる。僕の一生をかけて君を幸せにすると、誓います」
まるで結婚式の誓いのように、厳かに、密やかに告げられた言葉。
嬉しいのに涙ばかりが溢れて止まらなくて、しゃくり上げる合間に「はい」と小さく返すのが精一杯だった。それでも彼は柔らかく微笑んで、朝日の下、私たちは初めてキスをした。