彼の懺悔
翌日の、早朝。まだ空が暗いうちに、私はそっと家を出た。
途中で何度も立ち止まって、何度も迷って、何度も引き返しかけて、それでも歩を進めて。あの丘の上、木に凭れて眠るクリスさんの姿を見つけたとき、心臓が一気に加速するのを感じた。
一睡も出来ずに、ずっと考えていた。きっとこれが最初で最後のチャンスだと。
私では魔王を倒せないはずだった。諦めなければいけないはずだった。もう向こうの世界に帰れないと、思っていた。
でも今、こんなにも近くに魔王がいる。しかもこんなにも無防備な姿で、まだ翼が治りきっていない不完全な状態で。今なら。今だけは。
勇者は彼を探しているらしい。当然だろう、きっと勇者だって元いた世界に帰りたがっているはずだ。血眼になって魔王の行方を追っているに違いない。今まで見つかっていないのは奇跡に近い。
勇者が彼を見つけたら、今度こそ確実に仕留めるはずだ。それはいつになるか分からない。明日かもしれないし、もしかしたら数分後かもしれない。そうなったら、私が日本に帰れる可能性は完全に潰えてしまう。
だから。
勇者が彼を見つける前に――――私が。
卑怯で、身勝手で、許されないことをしようとしている。自分の願望のためだけに。
右手で握り締めた包丁を胸の前で構えた。勝手に浅くなる呼吸が、耳元で脈打つような鼓動が、彼に聞こえてしまいそうだ。
一歩、一歩。近づいて。彼の傍らに膝をつく。震える手で刃を彼の首元に近づけた。
でも。
目の前に、朝焼けに照らされた綺麗な顔がある。すっかり見慣れた顔だ。
穏やかに微笑む顔。心配そうな顔。嬉しそうに笑う顔。土に塗れた真剣な横顔。
この一ヶ月で見たクリスさんの表情が次々と浮かんでくる。まっすぐに私を見て、キョーコ、と呼ぶ優しい声が蘇る。
彼を殺してしまったら、彼は二度とそんな表情を浮かべることはなくなる。分かっていたはずなのに、理解した上でここに来たはずなのに、それを今、突きつけられたような気分だった。
関係ないじゃないか。だって、彼を殺したら向こうの世界に戻れるのだから。二度と彼を見ることはないのだから。そう思うのに、手が動かない。
どうして。
どうして?
――――あぁ、そうか。
その理由を、答えを掴みかけて。僅かに包丁を引っ込めた、その時。
急に、包丁を持った右の手首を、掴まれた。
「やめちゃうの?」
「――っ!?」
手首に気を取られて、それからもう一度彼の顔を見ると、青い目が私を見据えていた。
見られた。知られてしまった。
顔から一気に血の気が引く。だけど、もがいて振り解こうとする前にクリスさんがいつもみたいに微笑んでいるのが見えて、金縛りのように動けなくなった。
「たぶん、今やらないと手遅れになるよ。次の満月には翼が治って、僕の力が全部戻るから君の力じゃ殺せなくなる。それとね、首を切るなら一回で確実にやらないと、自己治癒力ですぐ治っちゃうから気をつけて。先に翼を切り落として魔力の供給をなくした方が、簡単かもしれないね」
丁寧に説明をしてくれる、それが彼を殺すための手段で、私にそれを勧めているのだと理解するまで時間がかかった。
私が彼を殺そうとしたと知った上で、彼はそれを受け入れている。それどころか、やれと言っている。穏やかに笑って。いつもの口調で。
「ど、して……っなんで抵抗しないんですか。クリスさんなら、逃げるのも反撃するのも簡単なんでしょう!?なのになんで、」
「キョーコがこの世界に召喚されたのは、僕のせいだから」
思ってもみなかった言葉に、私の動きが止まる。手はすぐに解放されたけれど、その場から逃げようという気持ちはもう起きなかった。
召喚。彼はそう言った。知らないはずなのに。私がこの世界の人間じゃないことも、召喚されてこの世界に来たことも、直接言ったことはないはずなのに。しかもそれが、クリスさんのせい?
クリスさんが木から離れて、私の正面に座り直す。一度俯いて小さく息を吐いて再び顔を上げたとき、彼は昨日のような、悲しそうな微笑みを浮かべていた。
「僕の懺悔を、聞いてくれる?」
私を真っ直ぐに射抜く目が、私の視線を絡め取って離さない。不思議と、青い目がきらきらと光を放って見えた。
いつの間にか空は少しずつ明るくなって、朝日が昇りかけている。これからいつも通りの夏の一日が始まるのだろう。私たちだけを取り残して。
そんな中で、彼の『懺悔』が始まった。
「この間キョーコの家に行ったとき、話したよね。僕は勇者と戦って負けたって。勇者がたった一人で僕の城に乗り込んできたとき、彼が言ってたんだ。ニホンに帰るためには、魔王を殺さなきゃいけないんだって。戦いながらだったけど少しだけ話を聞いてね、異世界のニホンっていうところから人間が召喚されて、勇者にさせられてたことを知った。キョーコもニホンが故郷だって言ってたから、きっとあの勇者と同じだったんだろうって、気付いてたんだ」
穏やかに、淡々と。
私の目を見つめたまま、言葉が続く。
「あの時も言った通り、僕は他の魔族に馴染めなかった。だから昔から僕に従う魔族は少なくて、僕がみんなの暴走を抑えきれなかったから、この世界の人間の手に負えなくなって君が喚ばれた。僕が、君を家族から引き離した。君がこっちの世界に喚ばれたのも帰れないのも、全部僕のせいなんだよ。それに、」
言葉が途切れた。まるで声を失ったかのように、唐突に。
私を見据えたままだった目が揺れて、笑顔が崩れる。くしゃりと顔が歪んだのが見えたのはほんの一瞬で、すぐに彼の両手に覆い隠された。
「もっと早く君に打ち明けて、もっと早く君を元の世界に帰してあげられたのに、出来なかった……勇者に殺されるなら君のために死ぬ方がずっといいって、思ったのに!僕に出来ることなら何でもするって思ったはずなのに!君に嫌われるのが、君の隣にいられなくなるのが怖かったから!僕は君に救われたのに、君が僕のせいで苦しんでるって分かってたのに、僕は自分のわがままを優先した!僕は……っ」
私は、呆然と聞いていることしか出来なかった。彼がこんなに声を荒げて感情を剥き出しにするのを、今まで見たことがなかったから。
クリスさんが両手を外して、私を見る。泣いているのかと思ったが、涙の跡はなかった。
そして、もう彼は笑顔ではなかった。怖いくらいに真剣な顔で、綺麗な顔がつくりものみたいに見える。
彼が再び私の右手を取る。私が包丁を取り落とさないように片手で包み込み、もう片手で刃先が首元に来るように優しく引っ張った。
「お願いだ、キョーコ。今度こそ、君に恩を返させてほしい。僕に、罪を償わせて」
一気に情報が流れ込んできて、それを咀嚼するのに精一杯だった。ただ、クリスさんの『僕のせいだ』という言葉が、悲痛な叫びが、私の中でぐるぐると回る。
彼が告白した罪。
彼が償おうとしている罪。
私が彼を殺すことで、彼がその罪を償うことができるなら。
私は。
私は――――