衝撃
結局私は寝落ちしたしたらしく、目が覚めたときにはベッドの上で、しかも食器類は全部片付けられていた。
お礼をするために家に招いたはずなのに酔っ払って後始末をさせるなんて、とんだ失態だ。自己嫌悪でクリスさんと顔を合わせるのが辛かった。翌日は逆に体調を心配されてまた申し訳なくなった。
でも気のせいか、その日からクリスさんの様子が少し変わったように思う。態度とか仕事ぶりとかではなくて、何というか……距離が出来た。前は気付いたらこっちがびっくりするような距離にいたり、さりげなく荷物を持ってくれたり、そういうことが頻繁にあったのに、あの日からそれがなくなった。
あの時、酔った勢いで何だか色々と暴露してしまった気がする。最後の方はよく覚えていないが、散々泣いて帰りたいと愚図ったのは確実に現実のはずだ。
いい年をして急に泣き出したりして、面倒くさい変な女だと思われたのだろうか。それは仕方がないことだ。あれは確かに私が悪い。
これを機に距離が出来たとして、きっと彼の翼が完治したらお別れすることになるのだから、丁度いいのかもしれない。彼が去って行くときに、心の傷を軽くすることができるだろう。それに、イケメンのドアップなんて心臓に悪いものを見なくなったのはむしろよかったじゃないか。そう思いたいのに……心にぽっかりと穴が空いたような奇妙な空しさを抱えたまま、一週間ほどを過ごした。
いくら心が空しくても、身体はいつも通りの日常を続けていく。
また食料が少なくなってきたので、篭に野菜を詰めて村へ行かなければならない。気は進まないが、生きるためには必要なことだ。
「じゃあ、いってきますね」
「いってらっしゃい、キョーコ。気をつけて」
交わす言葉は以前と同じ。
なのにやっぱりどこか距離が遠く感じて、また空しさを感じながら村へ向かった。
村に到着したとき、何だか様子がおかしいことに気が付いた。
『長閑』という言葉を体現したような静かな村なのに、今日はなんだか騒がしい。みんななにやら忙しそうに走り回っていて、畑仕事や家畜の世話をしている村人がいない。
首を傾げながら進んでいくと、村の中心の広場に人が集まって、掲示板のようなものを興奮した様子で囲んでいた。何か事件でもあったのだろうか。
少し興味を引かれてその人混みに近づき、村人達のざわめきに聞き耳を立てた。
私のすぐ後にやってきた村の女性が、人混みの最中にいた別の村人に声をかけるのが聞こえる。
「今日は随分と騒がしいねぇ。どうかしたのかい?」
「おぉ、なんでも勇者様がついに魔王を倒したらしいよ」
「それはめでたいじゃないか!」
手に持っていた篭を、落としかけた。
クリスさんの話を聞いたときから、気にはしていた。彼と戦ったらしい勇者。きっと私の代わりに、誰かがまた異世界から召喚されたということだ。
ただ、その人はちゃんと勇者としてのお役目を果たしたらしい。魔王を倒したのなら、きっとその勇者さんは帰れる。そしてそれは同時に、私が日本に帰る可能性が完全に絶たれたことを意味するのだろう。私が倒すはずだった魔王はもういないのだから。
劇的な悲しみはない。涙も出ない。ただゆっくりと、新しい諦めが広がっていくだけだ。
「でもね、その魔王はトドメを刺される前に逃げて、まだ捕まってないって話だよ」
「勇者様が探してるらしいけどねぇ」
「魔王を見つけて居場所を勇者様に伝えたら、ものすごい報酬が出るんだってさ!」
村人達が一際盛り上がる。私は思わず俯いていた顔を上げた。
魔王が捕まっていない。まだ完全に倒されていない。……いや、だから何だ。私にはどうせ何も出来ないのに。
自分を嘲笑った次の瞬間。信じられない言葉が耳に飛び込んできて、私はその場に凍り付いた。
「噂だと、魔王はきれいな顔した男の姿をしてるらしいよ。背中には鳥みたいな翼が生えてるんだって」
綺麗な顔の男。背中に翼があって。勇者と戦って、敗れた。
私は、そのひとを、知っている。
「でもよぉ、魔王が倒されたのはもうかなり前だって聞いたぜ?こんな田舎に話が回ってくるより先に、もう捕まってるんじゃねぇのか?」
「だったらいいけどなぁ。そんな化け物がどこにいるか分からないんじゃ、安心して狩りに行けないよ」
倒されたのは、かなり前。
彼が満身創痍で私の家の近くに倒れていたのは、一ヶ月以上前。
まさか。できすぎている。偶然だと片付けられないほどに。何もかも。
私は篭をその場に投げ捨てて、村を飛び出した。
「クリスさん!」
「キョーコ、おかえり。どうかした?」
いつもの丘の上。木にもたれ掛かって座っているクリスさんが、いつも通り穏やかに私を見上げた。
混乱して焦るばかりで、言葉がまとまらない。でもどうしても今聞かなければ。整わない息のまま、勢いに任せて捲し立てた。
「さっき、村で。魔王が倒されたって聞きました。でもトドメを刺される前に逃げて、まだ捕まってないって。綺麗な顔の、翼がある男の人だって……」
クリスさんは動かない。穏やかに微笑んだまま、私を見上げている。
未だに先端がおかしな方向に曲がった翼が、一度だけ小さくはためいた。
「……クリスさん、なんですか?」
彼の笑みが深まった。嬉しそうにではなくて、なんだか悲しそうに。寂しそうに。
「うん」
それからどうやって家に戻ったのか、覚えていない。
気が付いたときには、自宅の扉を閉めていて。しばらくその場に立ち尽くすことしかできなかった。