出会いは唐突に
夏本番がすぐ目前まで迫ってきて、私もこの世界の生活や農業の勝手が分かってきたある日。いつも通り農作業を終えて畑から自宅(村の人が使っていない小屋を貸してくれたのでそこをチマチマと改装しながら住んでいる)まで、その日の収穫を運んでいた夕暮れ。すっかり通い慣れ見慣れた道の真ん中に、なにやら黒いものが落ちていた。
最初は石か動物の死骸かと思ったけれど、近づいてみれば明らかにそれは人の形をしていて、よく見ればあちこちボロボロの傷だらけで、更によくよく見れば翼が生えていて。
驚いたのは一瞬のことで、すぐに思いついた。
――――魔族だ。
勇者になれと言われていた時期に、高位の魔族は人型に動物の特徴を備えていると教えられた気がする。人間の身体に狼の耳と尾とか、鱗とか、そういうものが付いているということだ。確かこの動物的特徴にも序列があった気がしたが、そこまでは覚えていなかった。私の頭の出来なんてそんなものだ。
さあどうする。私は悩んだ。
魔族は人間を見境なく襲い、食べることもある、らしい。この魔族が目を覚まして私に襲いかかってきたら、間違いなく殺される。死んでいるのか気絶しているのか分からないけれど、今のうちに村の人たちを呼んでくるのが正解なんだろう。
……だけど。目の前で誰かが傷ついて倒れているのを見てそれを放っておくのは、日本人として気が引ける。今すぐ応急手当をすれば助かるかもしれないのにその可能性を捨てるのは、私がその人を殺すのと同じだ。いや、人ではなくて魔族だけど、私自身が魔族に襲われたことはないし、魔族に恨みがあるわけでもないし、命がある生物だという点では一緒だろう。
村長に知らせに行くか、自宅から少しでも人命救助に役立ちそうなものを持ってくるか。とりあえず野菜の入った篭を地面に置こうとした、その時。
「……おいしそうな、匂いがする」
「っ!?」
恐らくこの時、私は飛び上がっていたと思う。
どう考えてもこの掠れた声の主は地面に倒れた魔族さんで、恐る恐る見下ろした先、血と泥に塗れた顔の中で光る青い目と視線が絡んだ。
助けるべきかもしれないと思っていたはずなのに、いざ目を覚まされると相手が次に何をするのか分からない恐怖が先に立って動けない。しかも聞き間違いでなければ、今おいしそうって……
「わ、私は食べても美味しくないですよ」
「……? あぁ、違う、君のことじゃないよ。……その、篭」
「へ?」
魔族さんの視線が私の顔から腕に抱えた篭に移動した。私ではなくてこの篭に入った野菜のことを言っていたらしい。考えてみれば、私のような貧相な女を食べても美味しくないことくらい、わざわざ言わなくても分かることだ。
魔族さんがあまりにもじっと篭を見てくるので、篭から一つトマトもどきを取り出して彼に差し出した。
「えーと、食べます?」
「……いいの?」
「味の保証はしませんけど、それでもいいなら」
「……ありがとう」
野菜を受け取る手は、爪の長さも肌の白さも、人間と全く同じだった。少し筋張った、ただの男の人の手。その手が気怠げに動いて赤い実を口に運ぶのを、私はぼんやりと見ていた。
「……美味しい」
「ありがとうございます」
「君が作ったの?」
「ええ、まぁ」
「君は僕が怖くないの?」
世間話と全く同じ口調で言うものだから、一瞬意味を捉えかねて返事に詰まった。
普通、人間は魔族を恐れるんだろう。私のように自衛の手段を持たない一般人なら、尚更。それは知識としては知っているけれど、所詮異世界人の私だから、実感はない。それに、今ここにいる魔族さんは割と穏やかそうなことが分かったし、背中に翼がある以外はほとんど人間と変わらない。少なくとも私を襲うつもりはないようだから、別に怖いとは思わない。だからそれを正直に、ストレートに伝えた。
「そうですね、怖くはないです」
すると魔族さんは何度かぱちくりと目を瞬いて、黙ってしまった。
なんだろう、流石にこの怪我でたくさん喋って疲れたんだろうか。怪我には詳しくないからどれくらいの傷なのかは分からないけれど、まさか野菜一個で怪我が治るはずもないことくらいは分かる。
それに何より彼が怖くないと分かったから、助けることにもう躊躇いはなかった。
「怪我、大丈夫ですか?手当てとか要ります?」
「ううん、平気。自己治癒力でそのうち治るから」
本当だろうかとちょっと疑ったけれど、本人がそう言うのだからそうなのだろうか。ここで嘘をつく意味もないし。
それでも流石に傷口に泥が付いたままなのはどうかと思い、家からタオルを持ってきましょうかと聞いたら、それも断られた。
水とか他の食料とか毛布とか、怪我人に必要そうなものを勧めても放っておいていいよの一点張りで、渋々納得して家に帰ろうとしたとき、不意に魔族さんが何かを思いついたように「あぁ、」と零した。
「名前、聞いてもいい?」
「京子です。魔族さんのお名前は?」
「……クリス」
それが、クリスさんとのファーストコンタクトだった。
その翌日、彼は道の真ん中から近くの木の根元まで自力で移動していた。
確かに彼が言った通り自己治癒力とやらが働いたようで、前日より多少怪我が治っているようだった。「おはよう」と挨拶する声が弱々しかったから、夕方、その日採れた野菜を少し分けてあげた。
更にその翌日、驚いたことに怪我がほとんど完治していた。唯一翼だけがボロボロのままあまり変化がなかったけれど、他はもう一目では分からないくらいだった。クリスさん曰く、満月の夜は魔力が高まるから自己治癒力も上がるらしい。
それでも篭の野菜を物欲しそうに見ていたから、また少しお裾分けした。
また更に次の日、クリスさんがイケメンになっていた。
いや、顔の造りはきっと全く変わっていないと思うのだけど、近くの泉で水浴びをして全身の泥を落としてきたらしく、その日初めてまともに顔を見たのだ。にこ、と笑いかけられてちょっとときめいた自分が憎い。イケメンは罪だ。罪深い。
その罪なイケメンが、その日爆弾発言を落とした。
「キョーコのおかげで元気になったから、今まで野菜をくれたお礼に、キョーコの仕事を手伝うよ」
「え、クリスさん農業とか出来るんですか」
「家庭菜園ならやったことあるよ。力仕事でも汚れ仕事でも、何でも言って?」
「いや、イケメンに汚れ仕事とかさせるのはちょっと罪悪感が……」
やんわりとお断りしようと思ったけれど、クリスさんはなかなかに強引で、結局畑仕事を手伝ってもらうことになってしまった。
流石魔族と言うべきなのか力仕事は本当に捗ったし、魔法で細々とした作業もやってくれるので、彼が来てから効率がぐっと上がった(初めて見た魔法にテンションが上がって年甲斐もなくはしゃいでしまったのは余談だ)。
それから一ヶ月弱。クリスさんは毎日毎日やって来て、大した報酬もないのに文句一つ言わずに手伝いを続けてくれている。
お礼というならもう十分すぎるほどなのに、彼はまだ恩義を感じているんだろうか。本当に律儀というか礼儀正しいというか、きちんとした人、じゃなくて魔族だ。
彼が何を考えているのかよく分からない。でも。
「キョーコ、大丈夫?」
「え?」
「なんだかぼんやりしてるみたいだけど……熱中症?ちょっと休憩した方がいいんじゃない?」
また作業の手を止めてしまった。考え事をすると他のことが疎かになるのは私の悪い癖だ。
それなのに純粋に心配してくれるクリスさんに申し訳なくなって、慌てて首を振る。
「いえ、大丈夫です。ちょっと考え事をしていただけなので」
「そう?無理しないでね」
ほっとしたように息を吐いて、クリスさんは再び雑草との格闘を再開した。
その背中で揺れる翼は、まだ治っていない。完治すれば空も飛べそうなくらい大きな翼だけど、今は所々羽根が抜け落ちていて、先端が少し変な方向に曲がっている。本人は痛くないと言っていたが、見ている方が勝手に心配してしまうような痛々しさだ。
あの翼が治ったら、もしかしたら彼はどこかへ飛び去って行ってしまうのかもしれない。
そんな日が早くきてほしいような、少しでも遅くなってほしいような。複雑な気持ちを抱えたまま、私も目の前の作業に戻るのだった。