臆病なふたりの告白 4
思い返してみると、この状況を生んだ原因は、ヘンリックさんが謝罪してくれたあのときまで遡る気がする。確かあのとき「クリス様の奥様」みたいに呼ばれて、でも色々とそれどころじゃなくてスルーしたから、あれで私たちが結婚してると思われたのかもしれない。そういえば機会がなくてあれから訂正してないし、ヘンリックさんから他の人にそうやって伝わった可能性は高い。それにしたって、一言くらい相談してくれてもいいのに。たぶん、というか確実に、クリスさんも何も聞いてなかったみたいだし。
一つ溜息をついて、仰向けで天井に向けていた目を横へ移す。そこにあるのは無駄に余ったスペースと枕だけで、クリスさんの姿はない。彼は今、リビングのソファで寝ているはずだ。
『……何もしない自信が、ない、から……』
だから一緒に寝るのは無理、本当にごめん、ベッドはすぐ戻してもらうね、僕はソファで寝るから、ベッドはキョーコが使って。そんなようなことをまくし立てて、彼は同じベッドを断固拒否した。そして夕食も風呂も済ませた後、私のクローゼットにあった予備のブランケットだけ持って本当にリビングに行ってしまったのだ。
言われた内容がどうこうというより、今私の頭に残ってるのは、その時のクリスさんの慌てっぷりだった。顔どころか耳や首まで真っ赤にして、思い切り目を逸らして翼を震わせて。普段は聞き取りやすいゆったりした調子で話すのに、うわずった声で早口になって。あんなに狼狽えて、焦ってるクリスさんは初めて見た。……と言っても、彼と知り合ってからまだ日本の暦で言えば三ヶ月くらいしか経ってないんだけど。
「……三ヶ月か」
小さい声で呟いてみる。三ヶ月。毎日農作業をこなして淡々と過ごした、長いような短いような期間。毎日少なくない時間を一緒に過ごして、あの壁ドン事件から少しずつ距離を縮めて、彼の知らない顔もいくつか発見したと思ってた。でも。
『あのクリス様に恋人だなんてあり得ないと思っておりましたけれど……』
優雅に笑うシェリーさんの言葉。顔が良くて優しくて紳士的で、女の子に好かれるような所しかないのに、どうしてあり得ないなんて言ってたんだろう。
『もう僕に用はないはずだけど』
クリスさんの冷たい顔。久しぶりに会ったはずのお姉さんや側近である相手に向けるような表情じゃなかった。
『クリス様のご家族のこと、聞いてないっすか?』
ネイト君の不思議そうな顔。確かに、毎日一緒にいる恋人の家族のことを全く聞いたことがないのは変かもしれない。兄弟姉妹がたくさんいることも、そこで確執があったことも、何も知らなかったなんて。
そういう話をする機会はなかったわけじゃない、というか、いくらでもあったと思う。農作業の合間とかお昼の休憩のときとか、彼は時間があればこの世界のことを教えてくれてたから。国々の情勢。大まかな歴史。魔法のこと。魔族のこと。でもその中に、彼自身の話はほとんどなかった。それはきっと、彼に話すつもりがなかったから。
「……」
まだ三ヶ月だからと考えるか。もう三ヶ月なのにと捉えるか。考えれば考えるほど眠気が遠ざかるのが分かる。
少しだけ迷った後、私は体を起こして静かにベッドから抜け出した。
* * * * *
リビングに通じる扉の隙間からは、微かに光が漏れていた。どうやら、クリスさんはまだ起きているらしい。一応軽くノックするとすぐに返事が来て、私がドアノブに手をかける前に内側から扉が開かれた。その隙間から顔を覗かせた彼の目が、私を見下ろしてゆるりと緩む。
「キョーコ、どうかした?まだ寝ないの?」
そう尋ねてくる口調も表情も、なんだかいつもより甘く感じる。寝る間際の時間だからクリスさんがいつもよりリラックスしてるのか、それとも私が勝手にそう受け止めてるだけなのかは分からないけれど。少なくとも、つい数時間前の狼狽は完全に消えてるみたいで、少し安心した。
「あの広いベッドに一人というのが、落ち着かなくて。クリスさんは何してたんですか?」
「うん……ちょっとね」
クリスさんが曖昧に微笑む。はぐらかすような言い方だったような気もするけど、流石に考えすぎだろうか。
入ってもいいのか迷ったのは一瞬で、彼は扉を開けて中に招き入れてくれた。さっきまで座っていたらしきソファに戻る彼について行くと、テーブルの上に見慣れない物があった。綺麗な金の額縁と、そこに収まっている複数の人影。写真……いや、この世界にカメラなんてないはずだから、これは。
「肖像画、ですか?」
「うん、昔のね。みんなが持ってきてくれた荷物に入ってたんだ」
クリスさんに促されてソファに腰掛ける。すると彼も隣に座って、肖像画を私から遠ざけるように脇にどかしてしまった。昔というのがどれくらいの過去なのかは知らないけど、さっきちらっと見えた人影の数からして、子どもの頃のクリスさんとご両親の絵なのかもしれない。つい額縁を目で追うと、クリスさんが小さく笑う気配がした。
「見たいの?」
「まぁ、はい。すごく」
「そうなんだ……いいよ、どうぞ」
「え」
遠ざけられた額縁があっさりと戻ってきて、私の方へ差し出される。そんな簡単に見せてくれるとは思ってなくて、肖像画じゃなくクリスさんをまじまじと見た。
「どうしたの?」
「いえ、その……本当にいいんですか?ご家族のこと、知られたくないんじゃ……」
「……もしかして、シェリーとかネイトに何か聞いた?」
クリスさんが苦く笑ったのを見て、しまったと思ったときにはもう遅い。彼の中では、私は家族のことを『何も』知らないはずだ。普通は、家族写真(ここだと肖像画だけど)を見るのにそんなことは聞かない。知られたくないかもしれないと推測する材料を私が持ってることに、彼は気付いただろう。
……というか、彼がどう思ってるかまだ分からないのに、家族を『知られたくないこと』だと決めつけるなんて失礼すぎる。でも失言は取り消せないし、変に誤魔化すよりは正直に話した方がいい。
「……すみません。ネイト君から、少し」
「ふぅん……そう」
何かを含んだような言い方だった。やっぱり気を悪くしただろうか。
だけど、彼は肖像画を私に手渡して、一緒に覗き込むように距離を縮めてきた。多分見てもいいということだろう。この距離感は落ち着かないけど、私も額縁の中に目を落とした。
その絵の中でまず目を引いたのは、中央に立つ立派な翼を背負った男性だ。間違いなく美形の類いではあるが、目つきが鋭くて近寄りがたい雰囲気を感じる。その隣には豪奢なドレス姿の角の生えた女性が寄り添うように立っていて、赤子を抱いて嫋やかに微笑んでいる。髪と目の色が、そして綺麗な顔に浮かぶ優しそうな笑顔がクリスさんと同じだった。クリスさんは母親似らしい。
布に包まれた赤子をじっと眺めると、クリスさんが「なんか、ちょっと恥ずかしいね」と柔らかく呟いた。その声にさっきの含みはない。
「言い訳になっちゃうかもしれないけど……知られたくない訳じゃないし、隠してたつもりもないよ。ただ……あんまり楽しい話じゃないから、わざわざ言う必要はないかなって」
彼の指が額縁をゆっくりとなぞる。薄く微笑んではいたけれど、両親の姿を懐かしむ笑み、という感じではなかった。何となく、彼のこの顔には見覚えがある。これは……そう、私が酔って日本人だと暴露した後、彼が私と距離を取っていた頃によく見せていた顔だ。本当の気持ちを隠している顔。
「……私は、知りたいです。魔王だった頃のことも、昔のことも、全部」
あの時は彼のことを本当に何も知らなくて、急によそよそしくされてもまあ仕方がないと思ってた。いずれ離れるかもしれない相手だから、それも受け入れるしかなかった。でも今は違う。私はこの世界で、彼と一緒に生きていくと決めたんだから。気持ちを押し殺して隠さないでほしい。それが悲しみや苦しみなら尚更。
でもそれは私が勝手にそう思ってるだけで、彼がそうしたいかは分からない。クリスさんの目を見つめると、彼は驚いたように目を瞬かせて、それから眉を下げて笑った。
「……じゃあ、キョーコのことも教えて」
「私のこと?」
「うん。向こうでの生活とか、家族のこととか。今までずっと、聞いてもいいのか分からなくて言えなかったんだけど……僕も、キョーコの全部を知りたい」
言われてみれば、クリスさんに私のことを尋ねられたことは一度もない。たぶんそれは、私が向こうの世界のことを思い出したくないかもとか、思い出したら向こうが恋しくなってしまうかもとか、そういう気遣いからだろう。そして私も、自分自身のことを話したことはない。クリスさんの言葉を借りるなら、知られたくない訳でも隠してたつもりもなくて、聞かれれば答えたとは思うんだけど。私が向こうの世界に置いてきたものを彼は知りたくないかもと思うと、自分から話すのも悪い気がして。
……こうやって自分を顧みると、私も全然人のことを言えない。自分のことは話さないのに相手のことは知りたいなんて、虫が良すぎる話だ。
「……私たち、お互いに相手のこと全然知らないんですね。話さないし、聞かないし」
私たちは、どちらも踏み込むことに臆病すぎるのかもしれない。踏み込んで相手を傷つけるのが怖くて、でも自分から踏み込ませることも出来なくて、当たり障りのない距離を保とうとして。蓋を開けてみれば、傷つけるかもしれないなんて思い込みに過ぎなかった。
「もうこの際、気になることは全部聞いちゃいませんか?遠慮して何も言わないより、何でも言い合える方が、上手くやっていけると思うんです。これからずっと一緒に暮らすんですから」
「……うん。ありがとう、キョーコ」
何故だか、クリスさんは少し泣きそうな顔で笑った。
今夜はこのまま、二人で語り明かすのもいいかもしれない。クリスさんのことを話してもらって、私も自分のことを話して。お互いのことを、もっと知られればいい。
それから……
「……早速だけど、僕が気になったこと、言ってもいい?」
「なんですか?」
「その、……ええと……ネイトと仲良くなるのはいいんだけど……あんまり仲良くなりすぎると、困る、かも」
「はい?」
何故そこで急にネイト君の話が。私がぽかんとした顔をしたせいか、クリスさんは気まずそうに顔を逸らして、目線だけ私に向けながら唇を尖らせた。これはもしかして、拗ねてる?
「『君』付けだし、敬語も使ってないし……話すとき、近いし。心配になるから」
そんな風に言われるほど近づいて話したつもりはないけど、畑仕事を手伝ってもらったときは確かに結構近かったかもしれない。彼は彼で報告を受けてたのに、ちゃんとこっちを見てたのか。別に内緒話をする以外の意味はなかったけれど、そして相手は中高生くらいの子どもだったけれど、言われてみれば一応男の子相手にちょっと軽率だったかもしれない。申し訳ないと思いつつ、でも、やきもちを焼くクリスさんというのは新鮮で、可愛い。
「分かりました。これからは気をつけますね」
「うん」
クリスさんは一つ頷いて、ばつの悪そうな顔のまま私の肩に額を押し当てた。はぁ、と溜息が二の腕辺りにかかってくすぐったい。
「……こんなに自分が嫉妬深いなんて、知らなかった」
「そうなんですか」
「鬱陶しい?」
「いえ、可愛いです」
「かわ……」
彼が一拍黙り込んだ後、額をぐりぐりと押しつけてくる。これが抗議だとしたらますます可愛いんだけど、それを言ったらまた拗ねてしまいそうで、額縁を膝に置いて空いた手で彼の頭を撫でた。
私たちが知らないのは、きっとお互いの過去だけじゃない。今まで言えなかった本音も、自分自身ですら知らなかった顔も、まだまだたくさんありそうだ。どうにも言葉足らずになりがちな私たちだから、ちゃんと言葉を重ねて、そういうことも分かち合っていかないと。
……それから。折角本音を言い合うのなら、さっき伝え損ねたことも、言ってみようか。
何もしない自信がなくても、私は構いませんよ、って。