幸せの在処 2
勇者が魔王を倒したという一報が村に入ったのは、それから数日後のことだった。
思うところがないわけじゃない。だけど、そこまで大した衝撃を受けたわけでもなかった。
きっと僕の次に魔王になったのは兄弟姉妹の誰かで、半分は血の繋がったひとだ。もしかしたら、僕が勇者に敗れたあの日、僕を冷たく見下ろしていた彼らかもしれない。一応は『家族』と呼べるだろうひとが殺されたことを悲しむべきか、たまたま召喚されてしまったばかりに魔王を殺さなければならなかった勇者に同情するべきか、彼が無事に故郷に帰ってもう僕の前に現れないことを喜ぶべきか、再び王を失った魔族を心配するべきか。どの感情を優先するか決められないくらいだから、もしかしたら本当はどうでもいいのかもしれない。
そんなことより、僕にはもっと大事なことがある。キョーコのことだ。
草むしりの手を少しだけ止めて、顔を上げてキョーコの様子を窺う。昼の青と夕の赤が混じる空を背景に立つ彼女は眩しいくらいに美しくて、思わず目を細めた。麦わら帽子でキョーコの表情は覗えないけれど、俯き加減に水やりをしながら、なんとなく心ここにあらずな雰囲気を感じる。今だけじゃなくて、ここ最近はずっと。
唯一同じ世界を知る人間がいなくなったことで、キョーコは何を思っているんだろう。孤独か、絶望か、それとも……後悔か。それを知るのが、あの時の選択を悔いていると言われるのが怖くて、僕からは何も言い出せないでいる。そんな自分の臆病な狡さが、また罪悪感を作り出すことは分かっているのに。彼女を幸せにするためなら何でも出来るなんて結局は綺麗事で、僕は自分が一番可愛いんだ。
再び下を向いてため息をつく。それが聞こえたわけではないと思うけれど、そのすぐ後に穏やかな声で「クリスさん、」と呼びかけられて咄嗟に笑顔を作った。
「日も暮れてきましたし、今日はここまでにしましょう」
「そうだね」
「向こうの片付けをしてくるので、この辺をお願いしていいですか?」
「うん。こっちが終わったら行くよ」
心の奥の蟠りを覆い隠して、いつも通りのやりとりをする。そしていつも通り一日が終わって、明日もいつも通りに過ごす。
それでいいんだろうか。自分の気持ちも彼女の本音も全部見て見ぬふりをして、何事もないように装うのが正しいんだろうか。答えは分かりきっている。本当は彼女に責められても詰られても向き合わなきゃいけないはずで、足りないのは僕の覚悟だけだ。
キョーコに嫌われる覚悟。自分の罪を目の前に突きつけられる覚悟。それが出来なくてなかなか自分の正体を明かせなかったこともあったけれど、もう逃げるのは止めにしよう。
なんとか決意を固めて、片付けの後、キョーコを呼び止めようとしたときだった。
「クリスさん、あの……」
僕が口を開くより前に、キョーコが僕の袖を引いた。いつも真っ直ぐに僕を見る彼女にしては珍しく、言葉を探すように目を泳がせながら口籠もって、
「その、お話ししたいことがあるんですが……ちょっとだけ、いいですか」
と、小さい声で言った。
キョーコから切り出されるとは思ってなくて、少し動揺して翼が震えた。だけど、ちょうどよかったのかもしれない。僕から聞いても優しいキョーコが本心を言ってくれるとは限らないから。
さあ、これで本当に逃げ場はなくなった。いつもみたいに笑って頷こうとしたけれど、強張ってぎこちない笑顔を貼り付けるのが精一杯だった。
* * * * *
「すみません、急に」
「ううん。それで、話したいことって?」
場所を移して、いつもの丘の上。木の根元に二人で並んで座ってから、改めて問いかける。
表面上は何とか平静を取り繕っているけれど、地面についた手が細かく震える。気分は、少し前にこの場所で「罪を償わせて」と言ったあの時と同じだ。断罪を待つ罪人。
キョーコは森の向こうへ沈んでいく太陽を眺めたまま、ゆっくりと口を開いた。
「私……勇者さんが元の世界に帰ったと聞いてから、ずっと考えてたんです。どうして彼じゃなくて、私が先に召喚されたのか。役立たずの私が最初に喚ばれたのはどうしてなのか」
語るキョーコの声も口調もひどく穏やかで、僕は思わずその横顔をじっと見た。
勇者の素質を持たないキョーコが、勇者としてこちらの世界に喚ばれた意味。正直、そんなの考えたこともなかった。彼女の魔力が並外れて強いからとか、召喚した術士の力量とか、いくつかそれらしい理由を推測することはできるけど、きっと彼女が言いたいのはそういうことじゃない。僕が黙ったままでいると、キョーコは少し俯いた。
「もちろん、そんなのただの偶然かもしれないですけど。もし何か意味があったのなら、それは……クリスさんに会うためだったんじゃないかって」
「……え」
予想だにしない言葉に、思考が止まった。
間抜けな声を零して固まる僕に構わず、キョーコは言葉を続ける。
「向こうの世界を忘れることはできません。こっちの世界に来てなかったら今頃どうしてただろうとか、考えることもあります。でも……少なくとも今は、こうしてクリスさんと一緒にいるのが、私の幸せなんです。だから、ええと、つまり私が言いたいのは」
最後は少し早口になって、キョーコが顔を上げて僕を見た。
キョーコの目が、僕を真っ直ぐに射抜く。黒曜石のような、うつくしい目が。その澄んだ眼差しに目も心も奪われる。
短い間見つめ合った後、不意に彼女が柔らかく笑った。心臓が、ドクリと大きく跳ねる。
「クリスさんは、私がこっちの世界に召喚されたのは自分のせいだって言ってましたけど……クリスさんのおかげで今の私が、今の幸せがあるんです」
キョーコが身体をずらして僕に向き直って、ひんやりした両手で僕の右手に触れた。まだ微かに残っていた震えに気付いたのか、そのまま優しく包み込んで。
「私を喚んでくれて、私と出会ってくれて、ありがとうございます」
それだけ、どうしても言っておきたくて。彼女はそう言って、決まりが悪そうに顔を背けた。
しばらく瞬きすら忘れてキョーコを見つめていたかもしれない。彼女の言葉が耳から頭へ、それから心へと届くのに、やけに時間がかかったから。そして漸く全てを飲み込んで理解した瞬間、僕は湧き上がる衝動のまま彼女を強く抱きしめた。
「……それは、僕の台詞だよ」
許しと、感謝。それは僕の罪悪感を溶かす魔法だった。
ずっと心にあった暗い気持ちがなくなって、代わりに暖かい気持ちが溢れてくる。止まらなくなる。伝えたい言葉は震える喉にほとんど堰き止められてしまって、何とか絞り出せたのはたった一つだけ。
「僕と出会ってくれて、ありがとう。……愛してる」
キョーコは何も言わなかった。けれど細い腕が少し遠慮がちに僕の背中に回された、それだけで十分だ。
僕なんかよりも、この世界の誰よりも、強く優しいひと。彼女を幸せにしたい。償いとか罪悪感のためじゃなくて、心の底から、彼女への愛しさのためにそう思った。
だから、この涙が止まったら言わせてほしい。僕の幸せも君の隣にあることを。そして無数の愛の言葉を。