チャプター3
目がさめると、そこは車内だった。
四輪駆動のセダン車の、走行音は静かで、極度の緊張と恐怖で疲れ切った体は、否応無しにその瞼を閉じさせた。
窓の外は、澄み切った空に浮かぶ星々がとても綺麗だった。
久方ぶりの星空を見て、特有の排煙にまみれた曇り空で無いことから、忌まわしき海洋貿易都市
「ホンコン」からは抜けたのだな、と確信できた。
そしてこの車の運転手、俺に実銃を突きつけ、死の恐怖を実感させた彼女は、バックミラー越しに俺に話しかけた。
「どう、よく眠れた?」
「ああ、おかげさまでぐっすり。」
「それは良かった。
あと15分くらいで着くから、それまで、外の景色でも眺めてて。」
外の景色か。
カーウィンドウを開け、疾走する車の風を顔中で受けると、澄んだ空気とともに、湾岸高速道路の高い塀が、クーロン半島の大都会の夜景を見事に遮っていた。
このまま塀とにらめっこするのも趣に欠けるので、俺のテレフォンパンチを一本背負いで受け流した、彼女と接触を図ることにした。
「橋はもう抜け切ったのか。」
「ええ、料金管理所を通過したすぐ後に、貴方が起きたのよ。」
「橋」とは、クーロン海の海上に浮かぶゴミ溜め出島「ホンコン」と聖なる大都会「ナンキン」を結ぶ、いわゆる地獄に垂れ下がった、蜘蛛の糸的な役割を果たす、世界最大級の連絡橋である。
正式名称は、忘れたが、とにかく長い橋なので、渡りきるまでに、およそ40分くらいはかかるだろう。
となれば、銃を突きつけられ、珈琲を飲みに行くと誘われ、半強制的に車内に詰め込まれてから、だいたい1時間半ちょっとくらいか。
実感より長くなかったことを確信すると、俺の腹奥に、平生の冷静さが戻ってきた気がした。
それでもなお、車の運転に集中する、隙だらけな彼女にさえ、絶対に勝てないと、俺は直感で実感した。
丸腰の状態で、銃を持つ相手を無力化する智力。
体格差のある相手でも、適確に弱点を突き、瞬時に無力化する近接格闘力。
実銃を相手に突きつけ、物怖じ1つしない精神力。
どれを取っても、圧倒的に実力差がありすぎる。
幾多もの修羅場を乗り越え、経験によって研ぎ澄まされたプロの技だと確信した。
同じ年齢でも、一体何故、これ程まで差があるのか、俺は理解に苦しんだ。
ん、同い年?
自動車免許の取得は、学生の内は禁止されている。
じゃあどうやって、彼女は料金所、または入島管理所を抜けたのだろうか。
恐る恐る、高速を180kmオーバーでぶっちぎる、お茶目な彼女に聞いてみた。
「あのぉ〜、大変失礼ですが、年齢っておいくつでしょうか。」
「ん、ああ、年齢?
24、結構間違れるのよ、若いって。」
アクセル全開で、ワインレッドのスポーツオープンとカーチェイスを繰り広げる彼女の目には、24と言う年相応の、血の滾りが見えた。
そりゃそうだ。
ティーンエイジャーの少女が、あんな顔できねぇもんなぁ。
奇想天外な事実に、驚きを覚えなかったのは、その方が逆に、彼女の天性の才に、納得がいくからであろう。
とにかく、何歳か年が離れているかの様な、圧倒的経験差に、俺は叩きのめされたのだ。
だが、彼女のその若い血が、俺という三下を可愛いがってくれるのは、むしろ好都合だ。
その経験、盗めるだけ盗みとって、いつの日か超えてやるぜ、貴様を!
胸中の野心を、悟られぬ様外を眺め、紙一重に過ぎ去る一般車両に、その鋭い視線を向けていた。
「貴方の学校の、世界史の教師でもあるんだけど、学年違うし、面識ないわね。」
ええ!?
この見た目で教師!?
道路基準法違反のスピードで、生徒を誘拐し高速を飛ばす教師を見て、全く世も末だな、と感慨にふけり、彼女に敬語を使うべきかどうか悩んでいると、車体は急速にスリップし始めた。
「窓を閉めて。」
けたたましいタイヤの悲鳴とともに、状況にそぐわない彼女の冷静な声が、何やら不気味な不協和音を演出していた。
本来なら死を錯覚する様な、暴力的な
車体の揺れだが、彼女と付き合うに連れて、この死の瀬戸際の感覚にも、なんだか慣れてきた。
だいぶ狂ってきたな。
いや狂ってなどいない、「適応」し始めたんだ、この社会に。
急旋回する車体が目指す方向は、塀と塀の、わずかに開いたその隙間だった。
衝突と同時に、宝石の展望が、辺り一面に広がった。
道行く車のテールランプ、そびえ立つビルのガラス張りの光、街灯の灯火、極彩色の光、全てが俺を、この世界へ歓迎している様であった。
刹那の後、車は高速で落下を続け、さすがに血の気が引いた。
死を悟った次の瞬間、車はコンクリート、よりも軟らかい、何かに叩きつけられた。
落下がスローダウンする、体に受ける重力が、だいぶ和らいだと思えば、周りの視界は、鮮明さを取り戻す様、塗り替えられる様だった。
水面から上がったのだ。
タイヤは泥の地面を這い、しっかりと歩を進めていた。
底から水が放出され、車はその軽快さを取り戻した。
水陸両用車か。
こんなロマンアイテムを取り揃えているのも、彼女らしい茶目っ気だ。
「綺麗だったでしょ。」
後部座席に振り向いた、彼女の顔は、自慢のアクセサリーを見せつける様な、見た目相応の表情だった。
ハイリスク、ハイリターン(ただし一瞬)、そんな世界で、この先生きのこれるのか、そんな緊張が、胃を締め付けた。