チャプター2
白昼夢から目をさますと、俺の周りは、排煙漂うくぐもった夕日に包まれていた。
雨は止み、乾いたブルーシートが俺の足元にあった。
ボタン式のレインコートを解除すると、俺の意識は鮮明となり、ことの前後が理解できる様になった。
学校の屋上。
退屈で極まりない、数学の授業を抜け出して、ここで昼寝をしていたのだ。
それにしても、一面が夕日に染まるまで、一体何時間、寝ていたのだろう。
自分で自分に呆れながら、腹も減ってきたので、屋上を後にした。
誰もいない校舎は、窓から差し込むオレンジ色の光に埋もれる様に、実に殺風景だった。
階段を駆け下りる。
コツコツと、小君良い足音が、無人の校舎にこだまする。
下階に近づくにつれ、話し声が聞こえてきた。
何やら、もめている様だった。
階段の上から、階下を覗くと、強い口調で差し迫る男と、何も言わず黙り込む、女子がいた。
端から見て、カップル同士の喧嘩だろう。
俺もそう思った。
だが、男の顔が、見覚えのある者だったのを確かめると、そうとも考えられ無くなった。
彼の名は、忘れてしまったが、とにかく女癖の悪い、悪評のあった、バスケ部のキャプテンだったことを覚えている。
そんな男が女の子と口論しているのだ。
何やら不穏な動きがあったとしてもおかしく無い。
俺の思った通り、男はそのロングヘアーの女の子を、口論の果て、壁に突き押した。
そして壁に手をついて、睨む様に顔を寄せ始めた。
やっぱりな。
別に正義感があったわけじゃないが、クズを退治する、大義名分ができたので、颯爽と階段を駆け下りた。
今にも彼女を襲う様なその男に、豪快にタックルをかました。
バスケ部の主将といえども、只の一般人だ。
暗黒街を生きる俺からすれば、取るに足ら無い存在だろう。
突然突き飛ばされ、何が何だか分からない彼に対し、俺は面子を切った。
「どうした、女の子に手は出せても、俺には出せ無いって?」
宣戦布告をすると、状況を理解したのか、彼の顔の色は怒りに変わった。
「痛ッてぇなこの野郎ォ!」
右手を大きく振り上げたテレフォンパンチで、勢い良く俺に迫りかかった。
隙だらけだ、そんな動き!
力任せの右ストレートを左に避けようとしたその刹那、
俺の頬に、渾身の拳が、容赦無く叩きつけられた。
速い…
腐ってもバスケ部である。
鍛え上げられた体から放たれた一撃は、武器に頼ったひ弱な体では、避けきることは不可能であった。
勢い良く、床に叩きつけられた。
「チィ、なめた真似しやがって。」
一発KOだ。
負けた。
床に突っ伏した俺のことは気にもとめず、再び彼女に迫り寄った。
「それでだ、一体いくらでヤらせてくれるんだよ。」
口から涎を垂らし、興奮しきった荒い息遣いで、男が聞いた。
「だから何度も言わせ無いで。
私は自分の身体を売ったりするなんて、まっぴら御免よ。
特に貴方みたいな人には。」
「ハハァ、嘘をつくなよ。」
男は彼女に指を指して言った。
「見たんだぜ昨日、売春街でお前が歩いてるとこよぉ!」
「確かに昨日の夜、そこに用事があったけど、別に売春していた訳じゃないわ。」
「だからさっきからシラを切るなァ!
これが学校に知れたらどうなる。
停学、では済まされねぇぞォ!」
「ご期待に添え無い様だけど、貴方の過大妄想よ。
拗らせ過ぎね、童貞の。」
「ウルセェ!とにかくヤらせろぉ!」
そう言い放つと、彼女に向かって野獣の様に突進していった。
そんな発情中の彼を、耳元を掠める一発の銃声が、「恐怖」と言う理性に引きずり戻した。
銃を握り締めているのは、俺だ。
彼の顔の10cm横を目掛け、俺の「エアースパイラーⅡ」が、火を吹いた。
銃口から立つ煙を吹きながら、最初からこうしていれば良かったんだという、軽い後悔を覚えた。
やはり信用すべきは、野蛮な拳なんかじゃ無く、信頼を寄せた、相棒だ。
銃口を差し向けて、怯える彼に、言い放った。
「消え失せな、俺の視界からァ!」
「ヒィッ!」
と叫んで、飛ぶ様に、彼は校舎を後にした。
衝撃波が、掲示板のポスターを、ズタズタに引き裂いて、散乱させていた。
西部劇よろしくの一転攻勢に、頭の中の脳汁は、とどまることを知らなかった。
カタルシスと優越感に、一人浸っていると、そうだ、襲われていた彼女の事を思い出した。
お礼の言葉を期待して、後ろを振り返ったが、彼女はいない。
俺が勝利の美酒に酔いしれている合間に、彼女は校門に向かって、足早に歩を進めていたのだ。
助ける目的で戦った訳ではないが、パンチ一発分の自己犠牲を、彼女に払ったのだ。
多少の苛立ちを覚え、無礼を戒めようと、幾メートルか先の、彼女に駆け寄った。
「ちょっと待てよ、助けてやったのに、礼の言葉も無しかよ。」
その言葉を受け、彼女はさも当然のように言い切った。
「別に、貴方の力を借りなくても、自分で自分の身くらい、私は守れるわ。」
何だと、生意気な。
だが、上等じゃねえか。
その尊厳をちょっと傷つけてやろうと、懐にしまった「エアースパイラーⅡ」を再び取り出し、彼女に見せつけた。
「見ろよ、玩具じゃねぇ、本物の銃だ。
もう一度、生意気な口聞いてみろ、眉間に、バァ〜ン、と大穴が開くぜ。」
彼女の目元が、怯えるように微かに動いた。
「あらそう、怖いわね。」
平静を装っているが、震えた声は動揺を隠し切れて無い。
やっと、可愛らしさを見せたじゃねぇか。
そうだよ、分かればいいんだよ、分かれば。
満足そうな俺の顔を伺った、彼女が笑みを浮かべてこう言った。
「だけど、他人の為に引き金を引くなんて、随分お節介なランナーさんね。」
何だと、
俺の眉間に再び、苛立ちの皺が戻ったかと思えば、突如、彼女は俺に、抱きつきかかったのだ!
思わず、心臓が高鳴り、鼓動が波打った。
彼女の髪の毛のいい匂いがする、その甘い気の隙間に、ピタリ、冷や汗が走った。
左脇腹に、冷やりとした硬い、鉄の触感が感じられたのだ。
彼女は着ている、ブレザー・コートの中に右手を忍び込ませ、服越しに、俺に向かって何かを突きつけた。
「1ミリでも、その右手が私の方向に動けば、このナイフが、貴方の左脇腹を切り裂くわ。」
やられた。
ナイフと銃、加えて性別のアドバンテージもある。
しかし、こうも近距離では、俺が引き金を引くより先に、彼女のナイフが、俺の脇腹を引き裂くだろう。
おふざけのつもりが、とんだ失態を招き入れてしまった。
もうしばらく、この抱擁を味わいたかったが、彼女に刺殺されるといけないので、銃を投げ捨て、丸腰になった。
「これでもう、文句無いだろ。」
彼女から離れ、両手を挙げ、降伏の意を示した。
ふふふ、と笑った彼女が、コートから手を出すと、握っているのはボールペンだ。
ただ五本の細い指が、あざ笑うかの様に、そのペンをくるくると回していた。
「てめぇ、騙しやがったな!」
ここまでコケにされちゃあ、付き合いきれねェ!
右手を大きく振り上げ、勢い良く彼女に迫りかかった。
ぶん殴るとは言わねぇ、俺に逆らった分、痛みで償ってもらうぜ!
平手打ちの要領で、彼女の頬に手を振り下ろした。
が、しかし、彼女の左手が、俺の手首を捉えると、流れるような身のこなしで、襟元を掴まれ、俺は勢いそのまま、虚空を舞い、一本背負いの要領で、コンクリートの地面に叩きつけられた。
背中に衝撃が走るが、痛みは無い。
受け身の取りやすい、やさしい一撃だった。
糞ッ!
何てザマだ!
体勢を立て直し、立ち上がろうとしたその瞬間、
俺の眼前には銃が向けられていた。
ミストリアル社製、TR-6中期型、通称ライガー、サイレンサー付き。
「貴方の銃とは違うの、実弾が入っているから、」
「私が今、引き金を引けば、貴方は死ぬわ。」
銃を向けられたことは、過去に何度かあったが、殺傷能力の無い、衝撃銃だった。
初めて突きつけられた、まがい物で無いその銃口は、暗く、長い闇が永遠に続くような、死の匂いを漂わせていた。
本物の死が、目の前に近づくと、自分でも考えたことが無いくらいの、恐怖に脅かされた。
歯はガタつき、脈は荒立ち、足の震えが止まらないくらいの寒さが、毛穴一本の隅々まで、身体中にべったりと張り付いた様な恐怖だった。
嫌だ。
死にたく無い。
不安定な足は自重を支えきれず、地面に尻餅をついた。
歯の震えが止まらない、俺に向かって彼女は言った。
「それじゃあ、お近づきのしるしに、珈琲でも飲みに行きましょ、カナメ君。」
夕焼けに染まるその笑顔は、今まで見たどの表情よりも、恐ろしく、そして輝いていた。