チャプター1
寝起きは最悪だった。
耳障りな目覚ましの音が、半強制的に俺の意識を冴えさせた。
粘土の様な毛布の中で、身体中に倦怠感を感じながら、ベットから立ち上がった。
体調は、すこぶる不健全だ。
コーヒーテーブルのナイフと銃を鞄に詰めると、玄関で重い靴を履いた。
おっと、忘れるところだった。
俺は外履きのまんま、ベットの上に忘れていた財布を取りに戻った。
昨日の夜、金の勘定をしていたら、寝落ちしてしまったことを思い出した。
何ゆえ、一夜にして稼いだ全財産が入っているからな。
扉を開け、目障りな排煙立つ、集合住宅の廊下に出て行った。
化学繊維工場の間に立つ、この官営住宅は、肺炎を患うならうってつけの寝床だ。
煙か曇りか分からない空模様は、灰色の雨を降らし、朝日を削り取る様だ。
工場街では朝早くから、フォークリフトの可動音がこだましている。
牛の様な低音は、さしずめ鉄の牧場だな、と下らない感慨にふけりながら、俺はバス停を目指した。
黒煙を提げて、バスは到着した。
馬鹿に早い早朝の車内は、人っ子一人いなかった。
自動運転のコンピュータが、停留所を逐一報告していた。
旧制学校前で、俺は降り、運賃を支払った。
前に無賃乗車を試みたが、鋭い電撃棒の一発が、俺の脳天に直撃したため、以来真面目に払うこととしている。
強さを認めた相手には従うのだ、俺は。
狭い繁華街に突如として現れるそれは、いくら見ようと学校の校舎である。
日照権という概念が存在しないかの様に(無論勤めて守っている方がこの街には少ないと思うが)、周りは建築物に囲まれている。
落ちぶれても官営の公共施設である。
その落ちぶれた結果がこれだ。
形だけ生かしてもらっている、古臭い工芸品の様なものだ。
もし本気で勉学に励むのでれば、遠く離れた学園都市区に、奨学生として行くべきであろう。(24時間勉強漬けなんて俺にはまっぴら御免だが。)
無論、そんなボロ屋敷へは直行せず、周りは繁華街だ。
二丁先のアーケード街の、行きつけの軽食屋で腹ごしらえをしようと、俺は足を伸ばした。
扉を開けると、店内には爺と婆が2、3人、しゃがれた口で珈琲をすすっていた。
いつものカウンターに腰掛けると、熱々の珈琲を注文し、胃袋に流し込んだ。
加えて、アップルパイとスクランブルエッグ・ベーコンを頼んだ。
新聞を、爺は食い入る様に見るが、俺は見ない。
俺は人の手垢がついた情報など、信用しない。
自分の目で見て、聞いて、自分のレンズを通して見る湾曲した光、それが唯一信頼できる情報だ。
だからこそ、中途半端に知って、受け売りの意見を言うよりは、固く口を閉ざし、無知をさらけ出す。
それが俺の信条だ。
とは言っても、この意見も受け売りだが。
堕考を論じていると、いつの間にか目の前に、皿は運ばれて来た。
お手拭きで手を拭い、フォークを手に取り、スクランブルエッグを口に運んだ。
ふわふわの塩味の効いた半熟に、ケチャップの程よい酸味。
飯を食うときは、それだけに集中する。
これも俺の信条だ。
皿の飯を平らげ、食後のデザートで、ミルクたっぷりの珈琲をすすっていると、やはり来た。
俺がこの店の行きつけになった訳は、すべてこのウェイトレスにある。
実際あの尻を一目、見てしまえば、毎日通いたくなるのも無理のないことだろう。
ジーンズ越しからでも、いや、ジーンズ越しだからこそ、より魅力的に映る。
金もたんまりある事だ。
思い切って、外にでも誘ってみよう。
席を立ち、レジに向かうと、彼女が対応をした。
伝票を確認する彼女から、会話のきっかけを探していた。
ポニーテールの頭の、きらびやかなシュシュに、目を付けた。
「きれいな、髪飾りしてるじゃないか。」
装飾品を褒める、これで喜ばない女はいない!
「驚いたわ、お尻以外も見てたなんて。」
予想以上に冷たくあしらわれた。
しかもばれてた。
「そ、そんな事ないぜ。
なぁ、これから何か、用事でもあるのか。
遊びに行こうぜ、奢ってやるよ。」
「駄目よ。」
「そりゃどうして?」
「仕事があるの。」
そりゃそうだ。
さっき来たばっかだもんな。
「総計、950交冊。
早く払って。」
事務的で冷たい彼女の声が、俺の心をしんしんと冷やしてゆく。
だが、ここでやめるわけにはいかない。
呼吸を整え、もう一度アタックを試みた。
「じゃあ、終わったら電話入れるよ。
何時頃に、」
その言葉を遮る様に、冷え切った心にとどめを刺す様に、彼女は疑問を投げかけた。
「どうして私が、こんな所で週5でバイトしてるか知ってるの?」
「いんや、全然。」
「来月の彼氏のバースデープレゼントの為よ。」
あっ…
凍りついた心に右フックが炸裂し、粉々に砕け散った。
「はい、お釣り50交冊。」
彼女の声は冷ややかで事務的だった。
「ひゅー、元気だねぇ坊っちゃん。」
店の奥から爺の冷やかしと笑い声が響いた。
「うるぜェ!」
バシーン。
ドアを強く閉め、店を後にした。
2度と行ってやるか、あんな店。
道端の空き缶を糞味噌に蹴って、学校へ駆け出した。