悪魔の棲む国―なんか思ってたのと違うわ―
10/17 一部修正加えました
とある大陸のとある場所。
上空には常に暗雲が立ち込め、1日とて光が差すことのない特殊な気候を持つ地域にその国はあった。
ニヴルム魔王国。
城を中心とした周辺一帯だけが不自然に隆起した崖の上、そこだけを領地とする比較的小さな国。
魔王国が所有する城はしかし、小さな国と言うには似つかわしくないほどの大きさと威容を誇っている。
城の外壁に施された彫刻の数々は、一般的な観点から言うといささか………悪趣味ではあるが、趣味の良し悪しを抜きにして考えれば見事というより他に無い緻密さだ。職人の腕の確かさ、ひいては国力の豊かさを感じさせられる。
特に門柱に据えられた怪物を模した彫刻などは今にも動き出しそうな躍動感さえある。
その城の外観は悪趣味な彫刻物や奇妙な天候などが相乗効果をもたらして、不気味さに拍車をかけている。
城は内部に人が住めるための居住区や軍の詰め所だけではなく図書館や官庁、教育機関まで内包しているためかなりの面積を有している。広さだけで見ても他の大国と呼ばれる国の王城に比肩するほどであった。
その居住区、王族とその側近のみ立ち入りを許可された区画の更に最奥。国王が眠る寝室から、静謐な空気を砕くような大声が上がった。
「ファアアアアアアアアアアアアアック!!!」
寝室の中を覗いてみると1人の男が全裸でベッドの上に立っており、ドアの傍にはメイドの格好をした女が2人、静かに佇んでいる。
この3人に共通するのは、大小の違いはあれど頭部に生えた2本の角。彼らは人間ではなく、悪魔と呼ばれる種族だ。
「今日もどんよりしたクソみてェな天気…良い朝だぜ。正にファッキンモーニングマイドリームだな!」
「失礼ながら、ただ今の時刻は午後2時…昼過ぎでございます」
「サタン様、バフォメット様が執務室でお待ちです」
「ああ?めんどくせえな、こと――」
「――断ればサタン様のベッドを微妙に湿らせるぞ、とのことです」
「………チッ、陰湿ながらも効果的な手を取ってくる爺だ」
整った顔を嫌そうに顰めながらもどこか楽しそうに笑う。
サタンと呼ばれた男が先程の大声の張本人であり――ニヴルム魔王国の国王であった。
彼はしゃーねーな、とわざとらしくため息を吐くと部屋の外へ出ようとし…
「サタン様、全裸で外へ出るのはおやめください」
「ファック…………忘れてたわ」
メイドに窘められて着替えに戻った。
◆ ◆ ◆
「ここが………ニヴルム魔王国ね」
私は地面がそのまま上にせり上がったような、特徴的な崖の前に立って空を見上げた。
――ニヴルム魔王国。
それは、悪魔と呼ばれる種族が創った国で、数多くの悪魔達が住まう場所。
悪魔の国の生活習慣は人間の国のものと共通する部分が多いが、全く異なる部分も当然のようにある。
その中でも最も有名なのが、価値観の相違だ。もっと詳しく言うなら、『人間が良いことだと思う行為が悪いことで、悪いことだと思う行為が良いことだと思っている』のだ。
(中略)
なので、観光する場合はそのことに十分注意して楽しんで欲しい――
私は観光のパンフレットを読み、再び崖を見上げる。
ここからじゃ街の様子は見えないけれど、1年中分厚い雲に覆われて気が滅入るような天気に、その一帯だけ隆起した奇妙な地形。そんなところが2つとあるわけない。ここがニヴルム魔王国で間違いないわね…
――天然の要塞でもある魔王国に入国するには2つの方法がある。
1つは坂になった道を通る方法、そしてもう1つは崖の中にある洞窟から入る方法だ。
特に洞窟の方は程よい暗闇に包まれ、入ると無数の蝙蝠が出迎えてくれたりとアトラクション満載だ。
入国方法に迷われた際は、是非とも洞窟からの入国を強くお勧めする。
※なお魔王国では現在、空挺客船での入国方法を検討しているとのこと。順調にいけば近年中には導入できるそうだ。こちらの手段もまた、旅の道中でみなさんの目を楽しませてくれることだろう。導入された際はぜひこちらも検討してみてはどうだろうか――
もう1度パンフレットの内容を読むと迷わず坂道の方を選択する。洞窟とか絶対に行きたくない。ありえない。なんで蝙蝠がオススメなのよ…
パンフレットの地図を片手に歩いていくと、崖に沿うようにして続く坂道が見えてきた。
坂道は幅が広く10メートルくらい、馬車がすれ違っても十分余裕がありそう。そして崖の端には頑丈な柵がずうっと延びていて、安全対策もばっちりらしい。
こういうところはきちんとしてるんだ、なんて意外に思いながら麓にある関所へと向かった。
◆ ◆ ◆
「おお!お待ちしておりましたぞ、サタン様。昨日はよく眠られましたかな?」
サタンが執務室に入るなり、中で待っていた悪魔が声を掛けてきた。
禍々しく捩れた角と山羊のような頭を持ち、豪奢なローブで体全体を覆っていた。ローブからちらりと覗く手は、皮と骨だけで出来ていそうなほど細く指の先には鋭い爪が生えていた。
この悪魔の名前はバフォメット。魔王国の宰相を務めている者だ。
「ファック。昨日じゃなくて今日だがな。朝までオンゲしてて今さっき起きたところだ」
『ザーク古戦場が熱くてさー、それからずるずるとやっちゃったんだよねー』と続けるサタン。
彼の言葉とは裏腹に、全く疲れを感じさせず目の下にクマがあるなんてこともない。悪魔が人間よりも強靭な肉体を持っている証がこのことからでも伺える。
「なんという怠惰な生活…素晴らしい!
是非とも来年度の『道悪』の教科書に載せましょう!」
「ヘヘッ、なんか照れるな…
で?なんか用があったんだろ、ファッキンジジイ?」
色々突っ込みどころがあるが、朝(正確には昼)の挨拶を済ませると彼はバフォメットに本題を促す。
バフォメットは朗らか(そうに見える)表情を一変して真面目(そうに見える)な顔になって話を始めた。
「そのことなんですが、実は人間の犯罪者が我が国に密入国したそうで…」
「クックック…そりゃなかなかのワルじゃねえか。そのクソ野郎は何をしたんだ?」
「それが…殺人や強盗などの重犯罪を繰り返していたそうです。国外へ逃亡したとの情報はあったのですが、まさかここに来ているとは…」
ヘラヘラと楽しそうに聞いていたサタンだったが、犯罪の内容を聞くなり血の気が引いたように顔を青褪めてオロオロしだした。
部屋の中を行ったり来たりウロウロして、独り言のように呟く。
「うそだろォ…さ、殺人って…そりゃワルを通り越してただの犯罪者じゃねえか。こわっ!」
「街の警備の強化と凶悪犯の顔写真を臣民に配布して注意を促そうと思っています。
そこでサタン様にその許可を頂戴しようとお待ちしていたのです」
ですのでこちらにサインを…とバフォメットが大量の紙束を虚空から取り出しているのを見て思わずうげっ!と声を上げるサタン。下半身が気持ち執務室の扉へ向かっている。
「………よし分かった。それは俺の影武者にやらせよう」
「サタン様、影武者とはそういう使い方をするために集めたのではありません」
「そうだったか?…じゃあ替え玉でもなんでもいいや。そいつに丸投げする!」
「なんという責任放棄…さすがはサタン様でございます!
ですが、こちらの案件はサタン様自身にお決め頂かないといけません」
入れ、と扉に向かって声をかけると、非常にゆっくりと扉を押し開けて1人の悪魔が入ってきた。
眼力の鋭そうな目を伏し目がちにして、身を縮めているせいで筋骨逞しい体が嘘のように小さくなっていた。部屋にいた2人の視線に気付くとビクッと体を小さく震わせ、更に小さくなろうとする。
本来はコワモテで通っている悪魔なのだが、今やその面影は全くなかった。
「この者は当時受け持ちだった警備兵の隊長です。
この者を含め、警備兵達は勤勉にも飲酒や居眠りをしていたそうで、チェックがゆるくなっていたところを通り抜けられたそうなのです。
たとえ真面目に勤務していたとしても凶悪犯を入国させた罪は重い…サタン様、この者への罰をお決めください」
ふむ、と相槌を打って改めて警備兵を見つめるサタン。
先程よりも強い視線を受け、警備兵は更に萎縮した。背丈で言えばこの部屋にいる者の中で一番大きいというのに、その姿は今にも消えてしまいそうなほど小さい。
ウーンと唸ってからよし決めたっ!と声を上げるサタン。警備兵はまたビクリと体を震わせる。
「罰としてお前達に1週間、朝日の下でのラジオ体操を命じる!」
自分で言っておきながらうへえ、と身震いさせるサタン。警備兵も普段は赤みがかった顔を真っ青なものへと変えて愕然としている。
彼らの反応から、この罰がどれほどの仕打ちであるか想像に難くない。
と言っても、日の光が弱点というわけではなく。
「そ、そんな健康的な生活…体中に蕁麻疹が出来てしまいそうです!
今一度ご再考を…!」
人間の常識で言うところの良いことと悪いことが逆転しているため、この国で優秀な者ほど健康的な生活を嫌悪する傾向にあるのだ。警備兵の隊長ともなれば、想像しただけで鳥肌が立つことだろう。
「うるせえファック!訴えるなら俺のいないところでやれファアアアアック!」
だが彼は無慈悲にも一方的に話を切り上げると、サタンは執務室の扉を蹴り開けるようにして出て行った。
――扉が閉まるのを見計らってガッツポーズをするサタン。自分の判決に自画自賛しているのか、溜まっていた書類仕事から上手く逃げおおせたからなのかは、彼のみぞ知ることだろう。
◆ ◆ ◆
「ぜーっ………はーっ………」
長い長い坂を登り切った私は既に息が切れていた。荷馬車を引けるように緩やかに設計された坂道なんだけど、そのせいでかなりの距離になっている。
休み休み登ったけどそれでも本当に疲れた…
空挺客船が導入されるまで待ったほうがよかったと、何度思ったことか…
「これは…広すぎでしょ…」
目の前に広がる光景を見て軽い眩暈を覚えそうになった。魔王国の領土は崖の上だけなんだけど、それは決して小さいわけではない。私たち人間の国でいうところの都市4つ分の広さを保有していると、ここへ来る前に調べていた。…いや、国としてはまだ小さい方なんだけどね。
でも、それほど大きな土地がせり出すように隆起しているのをこの目で見たら。そして不自然なくらいの自然の力を目の当たりにしてしまったら。人、1人の小ささが浮き彫りになったような気がして、まるで虚空に放り出されたような感覚が湧き上がってきた。
でも呆けてばかりもいられない。坂を登り切ったらすぐに街の中に入れるわけじゃないの。
さすがに都市4つ分の領土全てを街へと開発できるはずもなくて、辺りには田園風景が広がっている。
日の光が届かない特殊な場所で育つ植物が生い茂る先に、私の目的地でもある魔王国の都市が見えた。
つまりまだ移動する必要があるんだけど、ここから先は国が運営している馬車便があるから歩く必要はない。こっちにもそういうのがあってホントよかったわ…
運よく発進するところだった馬車便に乗れた私は、ガタゴトと馬車が生み出す振動に体を揺られながら人心地つく。
後は街に着くまで待つだけとなったところで、『そういえば』とさっきの出来事を思い出した。
「――それから職業は…シスターだな。ふわぁぁ…ここへは観光かなんかか?」
「いえ、私はここに道徳の素晴らしさを――」
「あー、めんどくせえから観光でいいな。観光っと…」
…なんなのよ、この悪魔。人の話も聞かずにめんどくさいとか言っちゃうし。ほ、本当に観光って書いてるし…
それだけじゃない。欠伸を隠そうともしないし、終始だらけきった態度で仕事してるのよ?
そりゃ、関所で働いているんだから愛想とかは求めてないけど、ここは国の玄関口でしょ?もっと毅然とした態度をとるとかあるでしょう。さすがにこの態度はないわ…
聞いたとおり、悪徳を美徳とする悪魔の国、ニヴルム魔王国ね。一度ガツンと言ってやらなきゃ…
…って思ったけど、目の前の悪魔は『なんで俺の当番に限って…』とか不機嫌オーラを隠そうともしてない。
な、何か事情があるのかな?今回だけは勘弁してあげようっと。
べっ、別にこの悪魔さんの顔が物凄く怖かったからとかじゃないんだから!私だって言う時は言える女なんだから!
「おう、もう行っていいぞ」
私がそんな葛藤を抱いているのをよそに、警備兵の悪魔は手続きを終えてしまった。
ええと、この国では挨拶代わりに角を褒めるんだったよね…
「ありがとう。立派なお角ですね」
「ええ…?
…ああ、だからここへ来たのか…」
角を褒めた途端、一歩引いて奇妙なものを見る目をされた。そしてその後、勝手に自己完結する。
な、なんなのよ…
回想終わり。
はあ…とため息を1つ吐く。
さっきのはちょっと…ほんのちょっっっっっとだけ、情けなかったかも。やっぱりさっきのはガツンと言うべきだったよね…でも凄く不機嫌そうで怖かったし…
だめね。もう落ち込むのはナシナシ!今回のを反省点にして次頑張ればいいのよ!
持ち前の前向きさで気を取り直した私は、そういえばと思い出す原因となった出来事について物思いにふける。…角の褒め方が違ったのかなー?
ウンウン思い悩んでいる間に街に到着したみたい。一旦考えを打ち切って馬車から降りた。
魔王国の街並みを見た第一印象は『思ったより明るいな』だった。
街に入るまではまだ昼過ぎだというのに夜みたいな暗い場所だったのが、街の中は幾つもの街灯が立ち並んでいて仄かな明るさを保っていた。
そして街を行き交う悪魔達。悪魔と言っても姿形は千差万別で、私の2倍くらいありそうな大きな悪魔もいれば、私の腰くらいしかない悪魔もいる。羽の生えた悪魔も、鋭そうな尻尾をもつ悪魔もいる。
共通しているのは頭に生えた1本、ないしは2本の角だけみたい。
こういう悪魔の特徴も事前に調べていたんだけど、実際に見るとその多様性に驚いてしまう。
その中には私たちがモンスターと分類する者の姿もチラホラと見える。他にも私たちのような人間の姿も少ないながらあった。
この国は知性がある者であれば、たとえモンスターであっても種族の差別なく受け入れているというのは有名な話だ。もちろん、国の住人を襲わないっていう条件はあるけどね。
しばらく歩いていると、私も知っている店があった。全大陸チェーンのコンビニ、ヒトリーマートだ。この国にもあるんだ…知らない土地で知ってる物を見ると嬉しくなるわね。
なんだか珍しくて見ていると、3人の悪魔が目に留まった。その悪魔はコンビニで買ったらしき袋を持って店の前でたむろしていた。
はあ…やっぱり悪徳を美徳とする国ね。こういう迷惑なことをする人がいると思ってたけど、早速見つけてしまうなんてね…
私はツカツカと彼らに向かって歩き出した。
たむろしている悪魔たちはみんな怖そうな顔をしていて足が止まりそうになるけど、私の心の中に眠る正義の心が恐怖を押さえつけてくれる。
「あなたたち、そんな所で居座っていたら他の人に迷惑でしょ!」
「ああ?」
「なんだぁ、こいつ?」
悪魔たちが私を鋭く睨みつけながら近づいてくる。
3人に取り囲まれ恐怖で怯みそうになるが、この程度では私の心に宿った正義の炎が絶えることはない。彼らの視線の圧力を押し返すつもりで私もキッと睨み返した。
「ゴミを路上に捨てて、大声で叫んで、あなたたちのようなガラの悪い人に居座られると他の人がこの店に入りにくくなるって言ってるの!
迷惑を被っているのはこの店に用がある人だけじゃないわ!そうやってうるさくされたら、近くに住む人たちも迷惑に思っているはずよ!」
怒気を混ぜて一気にまくし立てると、今度は彼らが怯む番だった。
思わぬ反撃にあって困惑してるみたい。さっきまでの怖い雰囲気はなくなり、お互いの顔を見合わせている。
「お互いがお互いのことを考えて行動する。そうするだけで私たちの生活はもっと素敵なものになるわ。
あなたたちにも、そんな周りを気遣う人になって欲しかったの。いきなり怒鳴ってごめんなさいね」
「いえ!僕たちの方こそすいませんでした!これからは他の人に迷惑にならないよう、仲良くしたいと思います!」
これ以上追撃するのはやめて、私の方も怒りを鎮めてふっと笑いかける。その瞬間、ピリピリと緊張した空気が弛緩し緩やかで暖かな空気が吹き込んでくるように感じた。
それは彼らも同じように感じたらしく私に謝った後、周りで見ていた人たちに頭を下げていた。
一部始終を見ていた周りの人たちから盛大な拍手が鳴り響く。
「おお、なんて素晴らしい人なんだ…!」
「1人で立ち向かって、正しいことを正しいと言える勇気。感動した。私も見習いたいものだな」
「俺もこれからは自分だけがいいんじゃなくて、みんなのことを考えて行動しよう」
私がした行動は、注意した3人だけじゃなく周りにいた人にまで影響を与え、良いことをしようという意識が伝播していく。
それは悪徳を美徳であると信じていた国が清く、正しく、美しい国へと羽化する前触れでもあった――
――よし、我ながら完璧なシナリオね。
私がここに来た目的とはちょっとだけ逸脱するかもだけど、良いことを良いことだと感じれないのは悲しい事だもんね。
私はツカツカと彼らに向かって歩き出した。
彼らに近づいていき…ちょっと軌道を変えてコンビニへ入った。ひんやりとした空調の冷気が私を拒絶しているように感じた。
いや、よく考えたら偶々、今日偶々ここで休んでいるのかもしれないし、すぐに移動するつもりだったのかもしれないしね。それに、たむろしてるだけで大声で騒いでるわけでもないし、ゴミもゴミ箱へ分別して捨ててたし。それくらいで怒るほうが寧ろよくないわけだから…
け、決して想像以上に悪魔さんたちの顔が怖かったわけでも3対1が怖かったわけじゃないんだから!ただ、牛みたいな生き物の頭の骨を被っていたりとか、牙が飛び出していたりとか、ナイフみたいに鋭そうな爪を持っていたりするのは卑怯よ!武器持ってるとか卑怯!
そういうのさえなければ私だってちゃんと、悪いものは悪いって言えるんだから!
何も買わずに出て行くのも気が引けたので、飲み物だけ買ってコンビニを出た。外にはまだあの悪魔たちがいたけど、そこまで時間が経ったわけでもないから今日は多めに見てあげようと思う。
気を取り直して街中を見て回りながら、目的地へと向かう。
すると、前から質の良さそうな服をだらしなく着た悪魔が歩いて来た。
その悪魔はここへ来てから見たコワモテの悪魔と違って、なんというか普通だ。角とチラチラと見える尻尾さえなければ、人間の国へ行っても違和感なく溶け込みそうだった。
まあ、その優れた容姿はある意味で人目を集めそうだけど。
彼はどこかで買ったパンか何かをパクパクと食べながら歩いている。
それだけなら行儀が悪いな、位で済んだんだけど、あろうことかその人は食べ物を食べ終わると包み紙を放り投げたではないかっ!
包み紙は放物線を描いてポトッと道路に落ちた。
………今度こそ、今度こそ私がちゃんと注意できる人だと証明できる!
…はっ!違う違う、今のは違う。私は世間の評判なんかに流されない確固とした自分を持っているんだから!
ほんとうよ?決して彼がそこまで怖い顔をしてなかったからじゃないのよ?
私はツカツカと彼に近寄ると彼に言いはなった。
「ちょっと待ちなさい!」
◆ ◆ ◆
「ちょっと待ちなさい!」
突然目の前に現れた人間にサタンは目をパチパチと瞬かせると、後ろを振り向いた。特にこれといった人物もいないと確認して、漸く自分に声を掛けたのだと思い至る。
声を掛けた人間を見やる。修道服を着ていて、紛れもなくシスターだろう。
彼女はいかにも怒ってますと言いたげに腰に手を当て、垂れ目気味な目と眉を上げて頬を膨らませていた。
「ああ?なんか用かぁ、クソアマ?」
「く、クソアマ!?
…ゴホン!あなた、ゴミをこんな道端に捨てたらダメでしょ!
ここはみんなが通る場所よ。みんなが快適に暮らせるために清潔にする必要があるの!」
彼女の言い分にやれやれと肩を竦めた。彼の反応に不満気に『なによぉ…』と漏らすが、それには返答を返さずある場所を顎でしゃくる。
彼の指し示す方向を見ると、今まさにダンボール箱が1つこちらに向かって移動しているところだった。いや、よく見ると箱の前面に持ち運びできる穴が空いていて、光に反射された瞳が輝いて見える。後方には同じような穴からふさふさとした尻尾を覗かせておりブンブンと勢いよく振っている。箱の下からは犬の足のようなものが6本垣間見えた。
その奇妙なダンボール箱は彼らに近づくと、先程ポイ捨てされた包み紙の上に陣取る。立ち止まったのはほんの僅かな時間のみで、すぐにどこかへ向かってトコトコ歩き出した。
そこにはさっきまで有ったはずの包み紙がなくなっていた。
「な、なによあれ…」
「知らないのか?あれはダンボール犬だ。ダンボールで体を覆う習性がある。中身は…まあ、犬みたいなもんだ」
「犬って…足が6本もある犬なんて聞いたこともないんですけど!?」
「細けェこたァいいんだよ。
でだ、そいつらは雑食でな。ゴミを主食にしているんだ。だからいくらポイ捨てしてもダンボール犬が食べてくれる。
俺達もさすがに汚ねェところで生活するのはゴメンだが、あいつらのお陰でそういうところを気にせずにポイ捨てできるって寸法だ。」
『綺麗なもんだろ?』と彼は手を広げて辺り一帯を示した。
それを受けて彼女も確かにと周りを見回す。
彼女はここへ来るまで、道端にゴミが散乱しているのが当たり前で荒れ放題な国だと思い込んでいた。
だが実際に見てみると、さっきの奇妙な生き物のお陰か地面にゴミが散乱しているということもない。それどころか寧ろ塵1つなく綺麗な街並みなのだ。
それに、ともう一度辺りを見る。コンビニにたむろしているような者もいるが、周りへの迷惑も少なそうだし、ここから見える範囲でも彼らは少数派だろう。彼女が想像していたような喧嘩や犯罪が絶えず、無秩序な国という印象は全くなく平和そのものだ。
あまりの想像との乖離に指摘されるまで気付かなかったほどだ。
『聞くのと見るのでは大きな違いがあるなあ』と思いを改めながらも、目の前の素行の悪そうな悪魔に言い負かされるのは気に食わない。『こういう輩は舐められると負けよ!』と対抗意識を燃やしながら反論を試みる。
「でも、それでポイ捨てがいいことにはならないでしょ!
ダンボール犬?ていうののご飯なんだとしたら、どこかに纏めればいいじゃない!」
「………全くもって遺憾だが、そうしてる奴が多いんだ…」
彼女の反論に、『そこが問題なんだよ』と深いため息を吐くサタン。彼女の頭に疑問符が付いていることに気付くと、得心がいったように頷いて説明を始めた。
「お前ら人間の基準で悪いとされることが俺たち悪魔にとっては良いことで、その逆もまた然り…っていうのは有名だから知ってるだろ?」
彼女の目に理解の色が浮かんだことを確認して彼は話を続ける。
「だからこの国は治安が悪いと考える人間が多いんだが、実際はそうじゃねえ」
彼女もその通りだと頷く。この一面的な所しか見ていないわけだが、それでもここ以外は治安が悪いなんて極端なことは考え難い。恐らく人間の街と似たような感じで治安の悪い場所はほんの一部だろうと予想できる。
でも彼ら悪魔の思想を鑑みるとそれはおかしなことだ。彼女はそれが疑問だった。
サタンは彼女の抱いた疑問の内容が容易に想像でき、苦笑と共にまた深いため息を吐いた。そして、『そうだったら良かったんだけどな…』と愚痴を零して説明に戻る。
「お前ら人間も、良いことだと思っていても素直に行動できないところがあるだろ?
俺達もそれと同じだ。悪いことと思ってもそれを実行できる奴は少ねェ。
あいつらもいいセンいってるが…まだまだだな」
そう言ってコンビニでたむろしていた悪魔たちを指差す。指を差されたことに気付いた悪魔たちはイソイソと移動して去っていった。
その光景を見てまたハァ、とため息を吐く。
「じゃ…じゃあ、私たちが悪いことだと思ってもついついやってしまうように、あなたたちも良いことをやってしまうというの?」
「まあ…そういうことだ。
だからと言って良いことをしろと言われてはいそうですかと言うやつはいねェがな」
そうなると、下手すれば人間の国よりも治安がいいということになる。だとしたら――
驚愕の事実に頭が付いていけず、彼女は現実逃避をして放心してしまった。
そんな彼女に気付かず―気付いても変わらないのだが―彼は厳しい目を向ける。
「いいか、お前のやろうとしていることは習慣の矯正、意識の侵食だ。
お前は革命でも起こしに来たのか?そんなわけねェよな、今時どこの宗教でもそんな過激な活動をしてるところなんかねェぞ?
お前の独りよがりの甘い考えで俺たちの常識を変えようとするのはな――テロ行為よりも尚性質が悪い。
はっきり言って迷惑だ」
一方的に言い放ち、彼女の反応がないことを知ると彼は肩を竦めた。
そしてそのまま彼女を置き去りにしてどこかへ去っていったのだった。
◆ ◆ ◆
「なによ…なんなのよ!」
私は憤慨していた。思いだすのはさっき会った悪魔のことだ。放心してはいたが、言われたことはばっちり聞いていた。
…そりゃ、私がしていることは規模を大きくすれば革命に繋がるかもしれないわよ。でもそれは他でも同じでしょ!?何でも規模を大きくすれば似たようなものになるものじゃない!それをあんな悪し様に言って…!もうちょっと言い方ってものがあるでしょ!
修道服の袖で目をゴシゴシと擦り口をへの字に曲げる。
…ちょっと悔しかっただけで泣いてなんかないんだから!『メンタル弱い』って友達に言われてた頃の私じゃないんだから!
そんな時、大きな声が私の耳に入ってきた。
「舐めとったらいかんで!俺は昔、散々悪いことやってきてんねん!
殺人、強盗、恐喝、窃盗、詐欺、婦女暴行、密輸、誘拐、放火…以外はやってきとんねや!」
盛大にずっこけた。
悪いことって、あと何が残ってるっていうのよ!どうせその後、相手の襟首掴んで怒鳴ったらあばら骨が折れたとか言い出すんでしょ!?まったく、どういう流れで新喜劇なんて始めたのよ!
なんか、落ち込んでいたのが馬鹿らしくなってきたわ…
転んだままそんなことを考えていると、私に気付いた悪魔が心配して声を掛けてきた。
それにありがとうと答えて立ち上がる。その悪魔はハッと何かに気付くと『また良いことをしてしまった…!』と頭を抱えて苦悶し始めた。
まさか…本当にあの生意気な悪魔が言ってた通り、『悪いことと思いながら良いことをしてしまう』のが悪魔の中では一般的なの?
だとしたら――だとしたら、なんてお人好しな国なの!?
あまりにも想像とかけ離れた事実に頭をガツンと殴られたみたいに放心してしまった。
なんか思ってたのと違うわ…こう、様々な問題を、新しく来た私が体当たりで解決していってみんなと絆を深めていく――みたいな、小説のような熱い展開を期待していたのに…!
そうしてフラフラと覚束ない足取りで歩いていたせいで、誰かとぶつかってしまった。
「あ、ごめんなさ――」
「――ってえな」
私が謝ろうとするより先に声が飛んできて、肩に強い衝撃が走った。きゃっと思わず声が出て尻餅をつく。
突き飛ばした相手をむっとしながら見る。
相手は悪魔ではなく人間だった。ずっしりとした体に相手を威圧するような顔で凄くガラの悪そうな人だ。
でもそれは頭に『人間の中では』が付く程度で、今まで色んな悪魔を見てきた私は怖いという感覚がすっかり麻痺していた。
恐怖を感じることもなかった私は、代わりに『こういうアウトローな人がここに集まるんだろうな』とか『ここに来て初めて会った乱暴な相手が人間っていうのが、悲しくなるわね』とかぼんやりと考える。
「前見て歩けや、クソアマ!」
「――はあ?」
カッチーンときた。幾ら温厚な私でも今のにはカッチーンときた。
人を突き飛ばした挙句、クソアマ!?あの生意気な悪魔みたいな呼称をしなくてもいいじゃない!
革命だとか、テロだとか、迷惑だとか…なによ、正論だったらどんな言い方しても良いわけ!?
………もーっ!思い出したら腹が立ってきた!
よく考えたらほとんど八つ当たりみたいなものだったけど、頭に血が上った私はそんなこと気にする暇もなく反論していた。
「なによ、あんたこそ突き飛ばす必要なかったでしょ!?
ここに来て初めて会った乱暴な相手が私と同じ人間だったなんて信じられない!あんたも悪魔のみんなみたいに慎みを持ちなさいよ!同族として恥ずかしいわ!」
遠巻きに『ディスってんじゃねーぞ!』と悪魔たちが言ってたけど、今の私には聞こえなかった。
相手の男も私の反論に怒りを見せて顔を赤くさせる。
「舐めた口利いてんじゃねーぞ、このクソアマ!」
またクソアマって言った!むきーっ!
もはや私の中で『言ってはいけない言葉ワースト1』になっている言葉を言われて更に怒りを募らせた。
相手も沸々と怒りが湧き上がってきているようで言葉を重ねる。
「俺はなあ!これまでに数々の犯罪を犯してきてるんだ!
殺人、強盗、恐喝、窃盗、詐欺、婦女暴行、密輸、誘拐、放火…罪状を挙げだしたらキリがねえ!」
「………それ、オチが何一つないじゃない!ここは『それ以外をやってきた』って言うところでしょうが!」
こういう分かってないところも同じ人類として恥ずかしい!もう見てられないわ!
あまりの痛ましさに目を逸らす。その時逸らした先にいた悪魔が目に入った。
さっきよりも更に距離を取って見ている悪魔たち、その内の1人がこちらに向かって何かを見せようとしている。
それは犯罪者の手配書みたいだった。そこに写っている顔写真は、目の前の男とそっくり。さらにその悪魔は私に向かって声を掛ける。
えっと、なになに?『そいつ本物の犯罪者』…?
………………え?
彼の言っていることを理解したと同時に、目の前の男が懐に隠していたナイフをギラリと抜き放った。
◆ ◆ ◆
サタンは街を歩きながら先程のことを思い返していた。
国王である自分にあれだけ啖呵を切れる者はそういない。初めて来た上に、こんな街中で国王と会うとは想像もしていなかっただろう。
そうだとしても彼の印象には強く残っていた。
「しっかし、何しに来たんだろうな、あのクソアマ」
当の本人が聞いたら『またクソアマって言った!』と叫びかねない台詞を呟きながら物思いにふける。
『聖職者が魔王国に来訪するような理由があっただろうか』というのが彼を思考の渦に囚われている原因だ。
勘違いされやすいのだが、聖職者と悪魔が対立しているというのは前時代的な考えだ。国家間どうしでは不干渉という冷めた立場を取っているが、個人レベルでいうと仲良くしている者もいる。聖職者だから、悪魔だからといって憎しみ合う者はいないといってもいいぐらいだった。
では彼を悩ませているのは何かというと、彼女をどう待遇するかである。個人で来たのならいいが、教会の意向に従って来たのならそれなりに扱ってやらないといけない。
そういった仕事を影武者(もしくは替え玉?)や宰相に丸投げしていたせいで、その辺りが判然としないのだ。
「………止めだ。考えてもキリがねーわ」
迷宮入りしそうになる思考をすっぱりと放棄する。国家間のあれやこれやは、実権を握ろうとか黒いこと考えてる宰相の爺に任せたらいい。
『黒幕を気取りたいなら、こういうめんどくさいのもなんとかするべき』という勝手な理論を彼は持っていた。これが人間の国であれば愚王の謗りを受けていたが、魔王国では賞賛される考えなのだ。
めんどくさいことを考えるのをやめてふと街の様子を見てみると、ある一角に目が行った。
コンクリートブロックでコの字の塀を作っただけの空間だ。今は何もないが、そこにはよくゴミ袋が捨てられていることもある…要はゴミ捨て場だった。
彼はそのゴミ捨て場を見てまたため息を吐く。ダンボール犬がいるのだから堂々とポイ捨てすればいいのに、わざわざ専用の場所まで作って1箇所に集めようとする。この場所こそ、魔王国の国民の不甲斐なさを表しているといってもいいだろう。
彼はそこに不甲斐ない国民性を見た気がしてため息を吐いたのだ。
「何も、犯罪をしろとまでは言ってねェんだけどな…」
彼の言う通り、ニヴルム魔王国は悪いことを良いこととして捉えてはいるが、決して犯罪を推奨しているわけではない。もちろん、人間が定めている犯罪とほぼ変わらない。犯罪者は犯罪者として普通に捕らえる。そこは人間の国と変わらない。
だがそれ以外の範囲でなら悪いことは褒められる行為だというのにしない。分かっていて出来ず、逆に良いことをしてしまう始末だ。
彼は仮にも一国を束ねる身だ。そんな悪魔たちがどうしようもなく情けなかった。
『勇気とか意気地がねェんだよ』とひとりごちて、再びあのシスターを思い出す。
『若干ヘッポコ感はあったがなかなか度胸のある人間だ』と思う。不甲斐ない悪魔たちを見てきた彼にとって、度胸のある者は好意的に捉えるようになっていた。
『もし観光以外の、長期間滞在するような目的があって来たのなら内容はどうであれ、楽しいことになりそうだ』と自然と口元が釣りあがる。
と、あることに気付きふと足を止める。
「度胸は認めるが…あの性格だ、真面目に悪いことしているやつに突っかかってるかもな…」
実際は男の悪魔は基本的にコワモテ揃いなので彼女に突っかかっていく度胸はないのだが、彼はまだそのことを知らない。彼のような人間よりの顔は悪魔の中で珍しい部類に入るというのを失念していた。
少ない情報から推測するしかない彼は、彼女が誰かに喧嘩を吹っかけた場合を考え嘆息する。
いくらめんどくさいからと言っても放っておくわけにも、後で誰かに丸投げ…なんて悠長なことを言うわけにもいかない。
『なんで俺が』と思わなくもなかったが、『しゃーねーな』と呟くと踵を返した。
◆ ◆ ◆
魔王国の警備兵が、密入国した犯罪者を取り囲んでいる。間抜けにも人質に取られた人間のせいで近寄ろうにも近づけず、男を刺激しないように一定の距離を空けて警戒していた。
………まあ、間抜けな人質っていうのが私なんですけどね!
「あー、あー、マイクテス…えー、犯人に告ぐ。お前は完全に包囲されている。えーっと…大人しく投降しなさい。
…え?…ああ、ついでに人質も解放しなさい」
ついで!?人質がついで!?民を守る兵士なら、もっとしゃきっとしなさいよ!
…と思ったけど、この国ではそういうのが推奨されてるのよね…
はあ…と嘆息していると、真後ろから怒鳴り声が上がった。
「うるせえ!こいつはな、史上最悪とまで呼ばれたこの俺様をコケにしやがったんだ!
俺様を怒らせるとどうなるか、テメェらが証人だ!よォく見ておけ!!」
男の啖呵に居合わせた住人はおろか、警備兵までも『こわっ』と1歩退いた。
なにビビってるのよ、警備兵。さすがにそれは情けないでしょ…あんたらの顔の方がよっぽど怖いわ。
悪魔たちの情けない姿にすっかり気をよくした男は、同じ人間同士で親近感でも沸いたのか人質である私に話しかけてきた。
「へへっ、警備兵共も俺にビビってやがる。悪魔と言っても高が知れてるな。これじゃあ人間の兵士共の方がよっぽど有能だったぜ。お前もそう思うだろぉ?」
「そうね!その通りね!」
もうほとんどヤケだ。
ここの警備兵、ほんと頼りにならない。欠伸を隠そうともしないし、『俺、今日4時間しか寝てないわー』とか『俺なんて2時間だし』とかくっちゃべってるし…
おい、そこ!聞こえてるぞ!どこの学生だ、お前らは!?もっと真面目に…そっか、あいつらの真面目がコレなのか…ほんっと頼りにならないわ…
彼らの雑談が私に聞こえるってことは、つまり私にナイフを突きつけている後ろの男にも聞こえるってことで。なんかプルプルしだしたわけで。
…ちょっと、私が危険なわけなんだけど。
「………俺様を前に舐めた態度取りやがって…
おうテメェら!おふざけはここまでだ!俺様を怒らせた罰として、手始めにこいつを始末する!その後はお前達だと知れ!」
「ファック、それは困るなァ」
男の怒鳴り声に言葉を返したのは少し前に聞いたことあるような、できれば私の精神衛生上、もう2度と聞きたくないような、生意気そうな声だった。
人の波が引くように割れて、声の主が姿を見せる。
それは私の予想通り、できれば外れて欲しかったが予想通り、あの生意気な悪魔だった。
周りの人間からサタン様とか呼ばれている。名前なんて知りたくもなかった…
名前も知りたくなかった例のあの人は警備兵に事情を求めていた。そして今私の後ろにいる男が手配書に載っている凶悪犯だと知る。
「えっ!?うっそ、あいつがそうなのか!?
………こわっ」
「お前もかっ!」
彼もさっきの悪魔たちのように1歩退いた。
もう、こんな状況なのに咄嗟に突っ込みを入れてしまったわよ!なんなの、こいつら!?もう…ほんと…なんなの!?
呆れてものも言えないとはこのことよ!…今さっき喋ってたけどね!
「ハッハァー!悪魔たちは揃いも揃って臆病と見える!もはや今更何人来ようとも同じだ!
テメェらはそこでこのクソアマが殺されるのを指を咥えて見ていやがれ!」
身分の高そうな悪魔も他と同じように怖がる素振りを見て、更に気を大きくさせた男はナイフを高々と掲げる。
どうしよう、殺される!?
…これで死んだりしたら、真っ先にサタンとかいう生意気な悪魔を呪ってやる…!
「ハッハァー!殺人ショーの始まりだァ!」
「――だからそれは困るんだよ」
覚悟もままならない内に私の命運が尽きようとした瞬間。
グイッと強く引っ張られる感覚が体を襲って――気付いた時にはサタンとかいう奴の足元で尻餅をついていた。
◆ ◆ ◆
急に手の中にあった感覚が消滅して困惑する男。彼が顔を上げると、そこにはサタンとその足元で尻餅をついているシスターがいた。
「いったいどうやって…今何をしたァ!」
「何って…時間を止めてその間にコイツを連れて来たんだが?」
理解できない出来事を前に、湧き上がった恐怖を押さえつけるために怒鳴り声を上げて気を紛らわそうとする男。
そんな彼にサタンは事も無げに説明する。『なっ、簡単だろ?』というオマケつきで。
周りの悪魔たちはさすがだと驚きというより感心したような顔をして、酷く驚いているのは人間の2人だけだった。
「ひ、人質を奪い返されたからって、どうだっていうんだ!
お前ら悪魔の気の小ささはとっくに知れてるんだ!殺されたくなかったら道を開けろォ!」
ナイフを振り回して威嚇する男。だが警備兵たちは、いや全ての悪魔がお互いの顔を見合わせるだけで一切動こうとしない。
『道を開けろだって。どうする?』とか『いやーそれはないでしょー』などと言葉を交わすのみだ。
動こうとしないだけで、彼を捕らえようとする者もいないわけだが。
「なんだ?この俺様が怖いんじゃなかったのかよ!?
ホラそこの悪魔共!さっさと道を開けろ!」
彼がどれだけ叫んでも、悪魔たちは全く動こうとしない。
つまり、誰も捕らえようとしない。
喚き散らす男にサタンはやれやれと肩を竦め、聞き分けの悪い子供に言い聞かせるように説明する。
「何か勘違いをしているようだから教えてやる。
俺たち悪魔が怖いのは、お前ら人間の凶暴性だ。同族同士で、時には血を分けた家族ですら殺しあい滅ぼしあうその狂気性だ。
特にお前のように、人を殺すことになんの躊躇いもない気の狂った考えが、俺たちは何よりも怖い…
…といっても別に、お前個人が怖いわけでも何でもねェんだよ」
彼の言葉に合わせて周りの悪魔たちも一斉に頷く。
彼らは彼らで、ここぞとばかりに真面目に空気を読まず悪ふざけをしていたらしい。
『2つも良いことしちゃった』と若干誇らしげな態度に、人間2人は立場の違いなど関係なく――イラッとした。
「ま、そういうことだ。
…おい、さっさとあいつを捕らえろ」
「えー…?自分っすか?なんかあいつ怖いんでちょっと…おい、お前いけよ」
「ええっ!?ムリムリ!俺だって怖いし。
ここは隊長、お願いしゃーっす!」
「心配するな、俺がちゃんと見ていてやる!もう何も怖くないぞ!
だからゆけ!」
この国で優秀とされる者達もまた、緊張感の欠片もなくワイワイと騒いでいる。優秀であればあるほどふざける傾向にあるようだ。
もう1人の人間である彼女が、『碌でもない連中だ』と改めて思った瞬間だった――
もう一方の人間である男は、窮地に立たされていると理解してキョロキョロと周りを見回している。だがどれだけ威嚇しても悪魔たちは全く動じない。いや、『こわっ』と言いながら身を仰け反らせてはいるのだが、男を取り囲む輪は途切れるどころか広がりもしない。
「………さっさとやれ。
それとも、お前らもラジオ体操したいのか?」
「!!!めめめ、滅相もない!今すぐ取りかからせていただきます!」
サタンの一言にキビキビと行動を開始する警備兵たち。
悪魔と人間では、その身体能力に悲しいまでの差がある。彼らが本腰を入れると男は抵抗むなしく一瞬で取り押さえられ、どこかへ連れて行かれてしまった。
「さてと、めんどくせえがついでだ。おいお前、シスターが何の用事でここへ来た?観光か?」
「なんであんたらは観光にしたがるのよ…
私はここの教育機関に、人間の国の常識を教えるように要請されてきたのよ。
最近、悪魔も国外へ出るようになったらしいんでしょ?それで、習慣の違いでイザコザが起きないようにって、国外へ出る前に勉強することになったらしいのよ」
『確かにそんなこと聞いたような…』と国王にあるまじき感想を漏らすサタン。
彼の理解を得ると、彼女は一転してモジモジと潮らしい態度を取る。
「その、さっきは助かったわ…あ、ありがと。あんたもやるときはやるじゃない。
えっ…と、太くて強そうな角を持ってるだけはあるわね…でいいのかしら?」
彼女としては仲直りの印に、『悪魔は角を褒められると嬉しい』という情報を実践してみたのだが――
サタンは2歩分ズザッと体を引いて、あまつさえ身を守るように腕を組んで、言った。
「し、シスターの癖に、ビッチなんだな。
生憎だが、俺は人間の女に興味はないぞ…?」
「な、なんでそうなるのよ!関所の人と似たような反応して!悪魔は角を褒めると嬉しいって聞いたからそうしただけなのに!」
歩み寄ろうとする彼女に対し、サタンのあんまりな態度に憤慨する。
彼女はちゃんと聞いていたのだ。魔王国の出身である悪魔に、悪魔の常識というものを。
「――クッ…クククッ…お前、してやられたな。
いいか?角を褒めるていうのはな、1発ヤろうぜって意味なんだ。
つまり太くて強そうな角を持ってるっていうのは、太くて(意味深)強そう(意味深)なナニ(直球)を持ってるって言ってるのと同じなんだぜ?
…まァ、同族の女に言われたら嬉しくもなるわな。
クハハッ!どこのどいつか知らんが、なかなか厭らしいことをする優秀な悪魔もいたもんだ!」
『1度会ってみてェな』と楽しそうに笑うサタン。
彼女は口をあんぐりと開いてしばらく唖然とした後、『あンのクソ悪魔あああああああ!』と絶叫しだした。
彼女の怒りの形相に、周りにいた悪魔たちはまたも『こわっ!』と身を仰け反らせる。その反応が妙に気に障って、彼女の額にビキビキと青筋が浮かんだ。
『こいつらの反応はいちいちイライラすんのよ…』とは彼女の言葉だ。
「さて、俺もそろそろ城へ戻るとするか。
あァ、どうせなら城の教育機関まで案内してやるよ、ファッキンビッチ?」
悪魔の代表である者にあるまじき優しさを見せているがその実、面白い玩具を見つけたくらいにしか思っていない。
楽しそうに笑顔を浮かべる彼の表情に、彼女は不覚にも見惚れそうになるが首をブンブンと振って気を取り直す。
「ちょっ!その呼び方はやめなさいよ!
案内なんていらないわ!地図だってあるもん!」
「おいおい、そりゃ観光客用のパンフレットじゃねえか。城の内部なんて書いてねェよ」
サタンの思惑などお見通しと地図を突き出すが、悲しいかな観光用のパンフレットには一般開放された区画しか記載されておらず、その地図で目当ての場所を探そうとするにはこの国の城は広すぎた。
『い、いいもん。城に着いたら聞けばいいだけだもん』と、尚も強情を張るが、若干涙目である。相手が彼でなければ、あるいは彼がもっとマシな性格だったら、と思うこと頻りであった。
「なにグダグダ言ってんだ。置いてくぞ、ファッキンビッチ」
「だからその呼び方はやめなさいよーっ!」
これ以上、屈辱的な呼び名を大声で言いふらされては堪らない。
本気で嫌がってもいるわけだが、良い言い訳ができたと彼女が思ったのも事実だ。地図がアテにならないと知り、藁にも縋りたい気持ちで一杯だった。
いつの間にかかなりの距離を移動していたサタンの元へと慌てて駆けていく。
彼女がこの国の国王のことを知るのはもう少し先の話であった――