ちっぽけな俺と、帰りの電車のちっぽけなできごと
ただでさえ憂鬱な帰りの電車の中、俺は見知らぬおっさんと肩を寄せ合って更に憂鬱な気分になっていた。
都会の電車は真ん中のスペースを広くするためかほとんどが壁際向かい合わせのロングシートで、特に連結部の座席は他の七人掛けと違い短く、三人座るのが精一杯だ。更に車両によっては何かの機材でも入っているのか、端っこの壁が窓枠の高さのところまで張り出している場合がある。
今俺が座っているのがまさにそんな座席だ。
私鉄、JR合わせて十以上の線が通るターミナル駅で、いつものように帰宅のため、その線に乗り換えた。そしていつも通り七両目の先頭付近から乗車した。
どうも隅っこが好きらしい俺は(というか日本人全般か?)、端っこの出っ張りに気付かずその左端の席についてしまった。その座席の逆の端、扉側の手すりの方にはすでに少女が座っていた。少し下心もあったのかもしれない。声をかけるわけでもそちらを見るわけでも無いけれど、女の子がすぐそばにいるというだけで何かドキドキしたりするでしょう?
それはさておき、俺はいつもどおり鞄から文庫本を取り出して、読み始める。長い通学時間の唯一の楽しみだ。乗り換え前に読んでいた頁を探し(しおりを挟むのはあまり好きではない)、現実世界からほんのひとときの離脱。
しかしその時に、左手側の張り出している壁がちょうど肩の高さぐらいまであって、腕は乗せられるけど全然楽じゃない位置になってしまい不快感を覚えた。
ここで素直に少し壁から離れて堂々と座る勇気ぐらいあればいいのだけれど(マナー的には悪いかもだけれど)、残念ながらそんなちっぽけな気概すらないのが俺だ。あまつさえ膝まで閉じて、少し大きめの鞄を縦に向けて左膝の上に置くほどだ。
そんなちょっとした癖のせいだろう。いや、他の人に危害が無いからむしろおかげというべきかもしれない。何にせよ、安息の時間は十秒ちょっとで脆くも崩れ去った。
この座席に座っている俺と少女の間、ただでさえ3人しか座れないうえに壁の出っ張りのせいで更に狭いその隙間に、頭頂の薄くなった白髪のおっさんが入ってきた。むしろ挟まってきた。
一瞬、なんて自分勝手なやつだと思ってしまったけど、普通に考えて3人掛けの椅子に3人目が座ることは何もおかしくない。どちらかというと、そんなことを思ってしまった自分の方が非常識なんだけれど、それを責められる人がいるだろうか。まあいるだろうけれど、それは置いておくとして。
さっきまでは見知らぬ少女と微妙な距離感でいたのが、今は無機質でぬくもりのない出っ張りと、脂ぎってくたびれたおっさんに挟まれて肋骨を痛めているのだ。しかもこのおっさんが少女の肩にも触れているかと思うとなんとも言えない憤りのような感情が生まれてくるのをどうやって止められようか。
かといってどうするわけでもなく、ただ苦痛に耐えながら車中を過ごすことしか俺にはできない。そういう性分で、そういう役割なんだろう。
特に目立たず、地味に善を行い、誰も気づかぬ功を成す。差し出がましいが、自分を表現するとそんな感じだ。自分がダメなやつだとは思わないし、無能でもないと思う。
ただ、誰の目にも留まろうとしない。
そういう性分なんだ。
さて、誰も求めていない自分語りはこのあたりでやめておいて、話の続きをしよう。
ちょうど終章から読み始めた小説の続きは、ものの五分ほどで終了してしまった。小説を鞄にしまおうとすると、鞄がおっさんの腕に引っかかり、おっさんが鬱陶しそうに腕をのける。舌打ちでもしたい気分だったけど、小心者の俺はそれに反して、すいませんという感じで軽く会釈のような動作をする。むしろ自分を殴ってやりたい気分だ。
目立つ人を見て、それが悪目立ちでも、たまにいいなと思ってしまうことがある。自分もあんなふうにできたら、どんな気分になるのだろう。周りのみんなの目が自分に集まるってどんな気分なんだろう。その空間の、その時間の主人公になるってどんな気分なんだろう。そんな風に、どうしようもなく羨ましく感じる時がある。
そんなもの、高望みだけど。
たぶん、それができる人にはすごく簡単なことなのだろう。ただ思ったとおりに気持ちを、声を出すだけでできてしまうのだろうから。
まあそんなこと羨んでも仕方ない。そういう星の下に生まれたのだから、そういう風に生きるしかないのだ。目立つ人は逆におとなしい人に憧れていたりするのかもしれないし。
そんなことより差し当たっての問題はおっさんだ。読みかけの小説は読み終わった小説に変貌してしまったし、携帯電話を出そうにも、右ポケットに入れているせいで、出そうとするとおっさんに当たってしまう。
あと十分程度の車中、俺はただ黙して座り続けるしか選択肢がなかった。
しばらくぼーっとしていると(特技。どんな騒がしい場所でもできる)、気付けばおっさんが立ち上がっていた。というよりおっさんが立ち上がった時に右肩がグイッとなって気付いた。やっと降りるのかと思いきや、唯一の所持品だった新聞紙を網棚に置いて、再び俺と少女の間に挟まった。たった今気づいたけれど、新聞紙だけしか持ってないのって普通なのかな?
ともかく、安息の時間はまたも遠ざかってしまった。これは変な期待をせずに、家に帰るまでお預けと考えたほうがいいな。まあ家もあまり落ち着かないのだけど、今この時よりましなことは間違いない。
そんなこんなでひたすら耐えてはや十分、ようやく我が最寄り駅へと電車が停車した。やっと解放されると思いながら席を立つと、となりのおっさんも、そのとなりの少女も立ち上がった。俺の住むところは住宅街とかベッドタウンとか言うほど洒落た場所じゃないけど住居が多いし、交通の便が悪く、町内の住人は例外なくこの駅を利用するから、帰りの電車で降りる人が多いのはいつものことだけれど、それでも同じ座席の人間が一斉に立つのが少し滑稽だったと同時に、おっさんとシンクロしたことになんとも言えない寂寥感を覚えた。
おっさんは立ち上がってすぐ降車口に向かう。ちらと見上げた網棚には、不恰好に丸められた新聞紙。たぶん捨てて帰るつもりなのだろう。
一瞬、おっさんの頭をこの新聞紙でスパーンとはったおしたいなぁと思ったけど、そんなことをしても良いことはひとつもない。目立つし、おっさん怒るだろうし、時間の無駄だし。
はぁ、とため息をつきつつ、ホームのゴミ箱の位置を確認。最寄り駅で毎日利用してはいるけれど、帰りは下り階段のすぐそこに出るように乗車位置を選んでいるので、ホームのどこに何があるかは把握していなかった。
見てみると、階段から歩いてものの六歩ぐらいの場所に、カン・ビンを始めとした四種類のゴミ箱すべてが置かれていた。これぐらいなら、持って行って捨てておくか。まじまじと見ておいて、そのまま無視して放って帰るのも決まりが悪いし。
車掌の間延びしたアナウンスのあと、電車の扉が開き乗客が流れ出る。おっさんは出口に夢中のようだ。望みなし、と。
そう思って網棚に手を伸ばそうとした瞬間、目の前に白い細腕が現れ、網棚の上にあった新聞紙を掻っ攫っていった。何かと思って見ると、同じ座席に座っていた少女だ。どう見ても少女には似つかわしくないくたびれた新聞紙を持って、威風堂々と降車口へと向かっていった。
世の中には殊勝な人もいるもんだなぁと、自分のことを棚に上げて感心していると、
スパーーン!!
と、日本の不況も吹っ飛びそうなくらい景気のいい音が、ホームに鳴り響いた。
「ちょっと、どういうつもりなのよ!」
見れば、先程の少女がおっさんに詰め寄っていた。
驚いて振り返る人もいれば、関わりたくないと言わんばかりに歩調を速める人もいる。その中で、俺は密かに笑った。
だって、あまりに清々しかったから。
あまりに想像通りで、少し嬉しくなったから。
でも、落ち着いてもいられない。口論を続ける二人のもとに騒ぎを聞きつけた駅員が駆けつけてくるのも時間の問題だろう。
ここはひとつ、やってみるか。
ちっぽけな勇気すらない俺だけど、同じ境遇を経験して、涙目で頑張って声をはりあげている少女を見ていると、そのほんのちっぽけな勇気さえ湧いて出てくるってもんだ。
「はーいストーップ! そこまで!」
自分でも驚くぐらいスムーズに、思った通りの音量で声が出た。
「なんだお前は! この非常識なガキのツレか!」
「何よ! こいつがこれをポイ捨てするから! 私は!」
ふたりとも興奮して周りが見えていないようだ。
いくら目立つタイプの人間であろうと、こんな痴話げんかのような光景を、これだけの知らない人たちに見られて堂々と続けられるほどの神経を持っている人間には、そう出会えるものではない。おそらくはぐれメタルに遭遇する確率より低いだろう。
「はい喧嘩おしまい」
そう言って俺は少女の手から新聞紙をヒョイと取り上げて、ホームランバッターよろしく、おっさんに向けてつきだした。
「なっ、なんだっ!」
「はい、忘れ物」
おっさんは一瞬ポカンとして、何を言っているんだこいつはというような目で俺を見る。でも、少し落ち着いたのか、周りの状況、やじうまに囲まれていることに気がついて、少し萎縮する。
「あれ、違いました? もしかして不法投棄でしたか? だったら申し訳ありません」
そう言うと、おっさんは顔を真っ赤にして新聞紙をひったくり、「くそっ! ガキが偉そうに」とかブツブツ言いながら去っていった。とこしえの別れを切望する。
「あ、あの……」
振り返ると、少女がこちらを上目遣いで見ていた。電車の中では座っていたから気づかなかったけど、結構小柄だったんだな。うーむ、どストライクです。
「あ、ありがとうございました。その、私も引っ込みがつかなくなって」
「いいよいいよ」
俺はそう言って、すぐそこにある階段を駆けるように降りていく。
「あのっ、本当にありがとうございました!」
背が低い少女の声が少し上から聞こえてくる。それに向けて、俺は軽く後ろ手を振りながら階段を降りた。
こういう時に、メールアドレスでも聞く勇気があればいいのにな。