アフターワールド
別離を告げられた夜、僕は今までに経験したことのない恍惚感と打ち寄せる吐き気に襲われた。嗚咽をする度に温かい胃液が少しだけ舌を転がっていく。洗面台に手をかけること数時間、何か得体の知れない大きなものが、胃から食道を拡張しながらせりあがってくるのを感じた。これは体外に出してはいけないものだ、自分に強く念じながらも繰り返し喉を熱くするうちに、ついに僕の限界に達した。数秒、僕にはそれが10分にも20分にも感じられたのだが、息ができなくなったと思うと、気管をこそぐようにそれは吐き出された。
いびつに丸い、方々に突起をもった球体がふわふわと目の前に現れる。まだ僕は膝をついたまま見つめる。淡いサーモンピンクのそれは、まるで胎児がへその緒をもってこの世に生を受けるがごとく、紅い管を僕の体内につなげていた。臓器まで達しているであろうそれは、しかし異物感を感じさせず、ただ重力に逆らうように宙に浮いていた。僕は気持ち悪さより先に、疲れが全身に沁みて、気絶するようにその場に倒れた。
目が覚めると、見慣れた僕の部屋の光景が広がる。僕の好きなアイドルのポスターと、彼女が好きだったスズランの花がその存在感を大げさに主張した、狭いワンルーム。まだ気怠さが残ったその身体は、意識とは違う次元で稼働していた。ドアをあけ玄関を出て、信じられないくらいの速さで駆けはじめた。風景が巡るめく変わっていく。見慣れた街を過ぎ、隣町を抜けると、見たことのない光景が広がった。横目で数々の民家を眺めながら、僕は違和感を感じずにはいられない。海の見える公園や、初めて彼女と行った水族館や、まるで僕と彼女の走馬灯が、はるか後方へと過ぎ去っていく。
しばらく走るとやがて三方を高い壁に囲まれた袋小路へと達した。ちょうど正面にそびえる壁に張り付くように、彼女はいた怯えた僕の気持ちとは裏腹に、口元を少し吊り上げた彼女は、いつの間にかすくんだ足で立ち尽くしている僕へと近寄って来た。僕は何か叫ぼうとするが、言葉は声にならず、空気をわずかに震わせて、遠くへ飛んでいく。一歩ずつ、だけれども着実に、近づいてくる彼女はもう僕の知っている彼女ではない。その距離をだんだんと縮めていく。僕は恐怖、危機感、それと少しの喜びを味わいながら必死に手足を動かそうともがく。やがて手の届く範囲まで歩みを進めた彼女を、僕は追い払おうとする、がしかし何しろあらゆるパーツが僕の命令を聞かない。気持ちだけが来るな、来るなと抵抗を続けていると、僕の口から延びをの先にあるいびつな球体が急に速度を上げて彼女を撃とうとした。彼女は特に動じもしないまま、その物体を睨みつけると、まるで意志があるかのようにそれは軌道を変え、彼女の脇を通り過ぎ、ぐるぐると彼女の周りを飛行した。衛星のように回るそれはやがて彼女の引力に寄せられて体内へと沈み込んでいく。それにつれて管は螺旋を描きながら、新体操のリボンのように、吸い込まれていく。たゆんだ管も、ついにはピンと張りつめて僕の身体ごを巻き込んでいった。彼女が僕の目の前で回転していく。何が起こっているのかという驚きよりも、不思議と満たされていく幸福に思わず目を閉じた。するとやがて管は千切れ、くるくると空中で舞っていた僕は地面にたたきつけられた。強く打った顎をさすりながら目を開けるとそこには彼女も異形の物体もなかった。あるのは僕の好きなアイドルのポスターと彼女の好きだったスズランだけ。僕は痺れ両手で起き上がると、数回強く瞬きをしたのち、いつもの日常へと溶け込んでいった。