ブギーマン
罪を犯しながら、法の裁きを免れた罪人達。
その罪人達を一人残らず裁いていく黒き死刑執行人。
どこに隠れ逃げようとも、罪を犯せば彼から逃げるすべはない。
最近のロンドンには、奇妙な噂がある。
法では裁けなかった者だけが、ある夜を境に姿を消す。
被害者は皆、ごく普通の市民だった。
会社員、看護師、教師、銀行員、主婦。
誰もが「善良な一般人」として暮らし、近所では笑顔を振りまき、
家族を愛し、平穏な日常を送っていた。
だが、その裏では。飲酒運転で少年を轢きながら証拠を隠滅した男。
虐待で幼い命を奪きながら、証拠不十分で釈放された母親。
巧妙な詐欺で老人たちの人生を壊しながら、法律の穴を突いて逃げ切った投資家。
暴行や脅迫を繰り返しながら、両親の金で証人を黙らせ続けた若者。
彼らは皆、「無罪」だった。いや、正確には裁かれなかった。
法廷は沈黙し、陪審員は証拠不足を告げ、
新聞は数日騒いだ後、事件は忘れられていく。
遺族だけが涙を流し、加害者だけが明日を生きる。
そんな世界だった。しかし、ある夜から、その均衡は崩れ始める。
最初の犠牲者が発見された。ロンドン東部、廃工場。
男の遺体は巨大な鉄製のハンマーによって、
床へ叩きつけられたように潰され死亡していた。
その男は二年前、ひき逃げ事件で不起訴となった人物だった。
続く二人目。三人目。五人目。被害者には共通点があった。
全員が、過去に重大な罪を犯しながら法の裁きを免れた者だったのである。
やがて新聞は、その存在に名前を付ける。
ブギーマン。
誰も顔を見た者はいない。目撃証言は一致しない。
「身長は三メートルを超えていた。」
「黒いローブをまとっていた。」
「ガスマスクを着けていた。」
「巨大なハンマーを軽々と振り回していた。」
ただ一つだけ、証言は完全に一致していた。
彼が現れると、周囲は異様な静寂に包まれること。
そして必ず夜に現れること。
ロンドン警視庁は連続猟奇殺人事件として捜査本部を設置した。
世間は恐怖した。同時にブギーマンに歓喜した。
「正義だ。」
「悪人が報いを受けている。」
「警察より頼りになる。」
SNSにはそんな言葉が溢れ、
ブギーマンを英雄視する者まで現れ始める。
しかし、それは正義なのか。
それとも、法を嘲笑う新たな怪物なのか。
誰にも答えは分からない。
その夜、ロンドンの石畳を雨が濡らしていた。
街灯の光が霧の中へ滲み、誰もいない路地裏に、
重い靴音だけが響く。
ゴン。
ゴン。
ゴン。
まるで棺桶を運ぶ葬列のような足音。
そして、ロンドンではまた一人、「法では裁かれなかった罪人」が、
静かに最期の夜を迎えようとしていた。
第一話 ブギーマン
物語の登場人物
主人公 ブギーマン。
新人刑事 アダム・ウェスト。
被害者女性 エミリー・ハート。
ロンドン警視庁・重大犯罪課 捜査記録
担当刑事:アダム・ウェスト巡査(着任三か月)
新人刑事アダム・ウェストは、事件資料が山積みになった
机の前で頭を抱えていた。年齢は二十四歳。
警察学校を優秀な成績で卒業したばかりの青年だった。
アダム 「ブギーマン……。」
事件ファイルの表紙には赤字でそう書かれている。
先輩刑事たちは、その名を冗談混じりに口にする。
「また裁きを逃げた悪党が死んだらしい。」
「ブギーマンのお仕事だ。」
誰も本気で追おうとはしなかった。
だがアダムだけは違う。
犯罪者であろうと、市民であろうと、
人を殺した者を放置することは刑事として許せなかった。
彼は事件現場の資料を一つずつ見直した。
足跡、壁の傷、被害者の交友関係、過去の裁判記録。
そして奇妙な事実に気付く。
ブギーマンは無差別殺人犯ではない。
標的は必ず、「法では裁かれなかった罪人」だけ。
しかも、その素性を誰よりも詳しく知っているかのように、
最も逃げ場のない瞬間を狙って現れる。まるで誰かが裁判官となり、
自ら死刑を執行しているかのようだった。
アダム 「ブギーマン、お前は一体、何者なんだ……。」
アダムはロンドン市内に貼られた事件地図を見つめる。
アダムは証拠を集め続けていたが、犯行の規則性だけは理解できても、
その正体には一歩も近づけなかった。
そんなある日の夕方。
署の受付に、一人の若い女性が震えながら現れる。
栗色の髪は雨で濡れ、顔色は青白い。
彼女の名はエミリー・ハート。
受付係に案内され、取調室へ通されると、
彼女は椅子に座るなり震える声で言った。
ハート 「……アダム刑事ですよね。」
アダム 「はい。何があったんです?」
彼女は何度も後ろを振り返り、
誰もいないことを確認してから小さく息を吐いた。
ハート 「お願いです……私を守ってください。」
アダムの表情が引き締まる。
アダム 「誰かに脅されているんですか?」
彼女は首を横に振る。
ハート 「人じゃありません……。」
数秒の沈黙。
そして、彼女は恐怖に震える瞳で、
その名を口にした。
ハート 「ブギーマンです。」
室内の空気が凍りつく。
ハート 「昨日の夜、家の前に立っていたんです。
黒いローブを着て……ガスマスクをつけた、とても大きな男が。」
ハート 「何も言わず、ただ私を見ていました。
私が悲鳴を上げた瞬間、姿を消したんです。」
アダムは静かにメモを取る。
アダム 「心当たりはありますか?」
その質問に、エミリーの手が止まる。
長い沈黙のあと、彼女はゆっくりとうつむいた。
ハート 「……分かりません。」
彼女の瞳から涙がこぼれる。
アダムはしばらく黙っていた。
これまでの犠牲者たちも皆、過去に法では裁かれず罪を抱えていた。
もし彼女の話が本当なら、彼女自身にも法では裁かれなかった過去があるはず。
新人刑事として初めて担当する事件は、連続処刑犯の捜査ではなく、
一人の女性を過去を調べることから始まった。
アダム 「あなたの身辺警護を手配します。
私はもう少し事件資料を確認します。」
その日の夜。
別の刑事が車でハートを自宅まで送り届けることになった。
彼女を見送ったあとアダムは、他の刑事に彼女に関する
資料を集めてもらい、手探りで目を通した。
アダム 「父親は死亡、裁判では正当防衛と認められて……無罪に……。」
アダムは資料を閉じた。
アダム 「この過去の事件が原因で彼女はブギーマンに狙われている?」
アダムは頭を抱えた。
その頃はハートは車の中で自宅まで景色を眺めていた。
雨が降り始めたロンドンの住宅街。
ワイパーが一定のリズムで雨粒を払っている。
刑事 「もうすぐ着きますよ。」
運転席の刑事がそう言った、その瞬間だった。
ドンッ。
何かが車体の横を強く叩いた。刑事が驚いてブレーキを踏む。
助手席の窓の外には、街灯も届かない闇が広がっている。
そして、その闇の中から、一つの巨大な影がゆっくりと姿を現した。
その姿を見たハートの血の気が引いた。
ハート 「……ブギーマン。」
次の瞬間、鈍い衝撃音が夜の住宅街に響く。
刑事が「逃げろ!!」と叫ぶと、
ハートは車のドアを開けて素早く飛び出した。
雨に濡れた石畳を必死に駆け抜ける。
背後から、重い足音が一定の間隔で迫ってくる。
振り返る勇気はない。ただ逃げる。
やがて彼女は、建物と建物の間にある、
街灯のほとんど届かない細い路地へ飛び込んだ。
息を切らしながら壁にもたれ、震える手でスマホを取り出す。
画面には、アダム刑事の番号。震える指で通話ボタンを押す。
数回の呼び出し音の後、電話がつながる。
アダム 「ハートさん?」
彼女は声を押し殺しながら囁いた。
ハート 「刑事さん……お願い……。」
涙声で息をのみ込む。
ハート 「ブギーマンが……来たんです。」
遠くから、ゆっくりと石畳を踏みしめる重い足音が響く。
ゴン......。
ゴン……。
ハンマーの金属が壁に触れる鈍い音が、静かな路地に反響する。
ハート 「私、細い路地に逃げています……
お願いです……助けてください……。」
アダムは椅子から勢いよく立ち上がった。
アダム 「そのまま隠れていてください!!
絶対にスマホを切らないで!! 今すぐ向かいます!!」
アダムはコートをつかむと、降りしきる雨のロンドンの夜へ飛び出した。
ブギーマンより先に、彼女のもとへたどり着けるか。
その数分が、二人の運命を左右しようとしていた。
アダムは雨の中を猛スピードで車を走らせた。
やがて事故現場へ到着した彼は、思わずブレーキを踏み込む。
道路の中央には、原形を留めないほど潰れた車。
車体は巨大な力で押し潰されたかのようにひしゃげ、
窓ガラスはすべて砕け散っていた。
その傍らには、頭を潰され倒れている刑事の姿。
雨に打たれながら動かないその姿を見て、
アダムは息をのむ。
アダム 「……ブギーマン。」
一瞬だけ立ち尽くしかける。
しかし、耳元ではまだスマホが繋がっていた。
ハート 「刑事さん……!!」
小さく震えるハートの声。
その声が、彼を現実へ引き戻す。
アダム 「大丈夫です!!今近くまで来ています!!
じっと動かずそのまま避難していてください!!」
アダムは拳を強く握り締めると、事故現場を駆け抜け、
暗く入り組んだ路地へ全力で走り出した。
雨音の向こうでは、重く響く足音がゆっくりと近づいている。
スマホの位置情報が細い路地の奥を示していた。
彼は拳銃を抜き、慎重に暗闇へ足を踏み入れる。
石畳に靴音だけが響く。
スマホの位置を確認する。
画面の光だけが彼女との唯一の繋がりだった。
アダム 「もう少しだ……。」
その時、位置情報が突然消えた。通信が途絶える。
アダム 「……圏外?」
静寂、風が吹き抜ける。
アダムはスマホのライトを照らしながら、
一歩ずつ進んだ。壁を手探りで進む。
暗闇が濃くなる。
その瞬間だった。
ゴン……。
背後で何か重いものが石畳に触れる音がした。
全身の毛が逆立つ、ゆっくりと振り向く。
そこに立っていた。
黒いローブ。
無機質なガスマスク。
街灯のわずかな光を鈍く反射する巨大なハンマー。
そして、圧倒的な体格を持つ大男。
ブギーマン。
アダムは息を呑む。
だが、ブギーマンはアダムを一瞥することすらなかった。
まるでそこに誰もいないかのように、彼の横を静かに通り過ぎる。
重い足音だけを響かせながら。
その視線は、路地のさらに奥へ向けられていた。
奴の狙いはただ一人。ハートだけだった。
アダムは振り返り、震える手で拳銃を構える。
照準をその背中へ合わせ、声を張り上げた。
アダム 「ロンドン警視庁だ!!」
狭い路地に怒号が反響する。
アダム 「そこで止まれ、ブギーマン!!」
だが、ブギーマンの歩みは止まらない。
まるで銃口も、警告も、
この世のあらゆる脅威が存在しないかのように。
重く、ゆっくりと、ただハートを探し続けていた。
アダム 「止まれ!!」
アダムは銃を構え、叫ぶ。
アダム 「聞こえないのか!! それ以上進むな!!」
ブギーマンの歩みが止まる。
数秒の沈黙。
そして、ゆっくりと振り返った。ガスマスク越しに感情は読めない。
ただ無言のまま、一歩、また一歩。アダムに近づいてくる。
アダム 「近づくな!!撃つぞ!!」
警告は届かない。
ブギーマンは巨大なハンマーを静かに持ち上げる。
肩より高く。さらに高く。
そして──
ゴンッ!!
空気を裂く一撃がアダムの胸に振り下ろされた。
アダムはとっさに身をひねったものの、凄まじい衝撃が体全体に走る。
身体は紙切れのように吹き飛び、石畳を何度も跳ね、
レンガの壁へ叩きつけられた。肺から空気が一気に押し出される。
アダム 「……ぐはっ!!」
事前に着ていた防弾ベストと、
着地の瞬間に受け身を取ったことで致命傷は免れた。
しかし代償は大きかった。
肋骨は何本も砕け、胸郭は悲鳴を上げる。
呼吸をするだけで激痛が走り、左腕は思うように動かない。
それでもアダムは歯を食いしばり、震える手で拳銃を握り直した。
視界の先では、ブギーマンが再び背を向け、
何事もなかったかのように暗い路地の奥へ歩き始めていた。
その先には、まだどこかで息を潜め、助けを待つハートがいる。
アダムは壁に手をつきながら、血の混じる息を吐く。
アダム 「……まだだ。俺が倒れるのは……彼女を見つけてからだ。」
アダムは砕けた胸の痛みに耐えながら、
怪物の背中を追って再び一歩を踏み出した。
歯を食いしばり、震える腕で拳銃を構え直し、
ブギーマンの背中へ向けて引き金を引く。
バンッ!!
バンッ!!
バンッ!!
銃弾がブギーマンの背中に命中する。
しかし。ブギーマンの歩みは止まらない。
まるで何事もなかったかのように進み続ける。
やがて彼は振り返り、倒れたアダムへゆっくりと近づく。
巨大な影が覆いかぶさる。ハンマーが再び持ち上げられる。
終わりだ――
アダムは覚悟を決めた。
その時だった。
ハート 「やめてっ!!」
路地の奥からエミリーが飛び出した。
涙を流しながら叫ぶ。
ハート 「私は逃げない!!だから、その刑事さんを殺さないで!!」
ブギーマンはハンマーを止め、
ゆっくりと向きを変え、ハートへ歩み寄る。
彼女は震えながらも、じっとその場を動かない。
ブギーマンがゆっくりとハートに近づき、巨大なハンマーを高く掲げる。
アダム 「逃げろォ!!」
アダムは叫んだ、
しかしそんな声も虚しくハンマーが振り下ろされる。
その刹那――。
ゴォォォォォン……。
真夜中を告げる教会の鐘が鳴り響いた。
日付が変わる。
ブギーマンのハンマーは、
エミリーの頭上わずか数センチで静止した。
一瞬の沈黙。
やがてブギーマンはゆっくりとハンマーを下ろす。
何も言わず、二人に背を向ける。
黒いコートが夜風に揺れ、
ガスマスクの男は霧のような闇の中へと歩き去っていく。
数秒後には、その巨体さえ夜の景色へ溶け込み、完全に姿を消していた。
気が付くと雨は止んでいた。
鐘の余韻だけが、静まり返ったロンドンの路地に長く響き続けていた。
ハートのスマホで警視庁と病院に応援を呼び、
しばらくの間二人は暗い路地の片隅で座り込んでいた。
ハート 「もうすぐ応援がくるそうです。病院の方が先みたいです。」
アダム 「それはありがたい。今なんとか生きている状態なので。」
長い沈黙のなかアダムが切り出した。
アダム 「ハートさん本当のことを話してくれませんか。あなたの口から。」
ハート 「なんのことでしょう?」
アダム 「あなたブギーマンに狙われた、本当の理由を。」
ハートは唇を噛み締め、震える声で語り始めた。
ハート 「……五年前のことです。父は毎日、
お酒を飲んでは私に暴力を振るっていました。」
ハート 「殴られて、蹴られて……
逃げても追いかけられて……。誰にも相談できませんでした。」
彼女は拳を強く握る。
ハート 「その日も、父は私を階段まで追い詰めてきました。
顔を殴ろうとしてきたので……私は、とっさに押し返したんです。」
声が震え、涙が頬を伝う。
ハート 「父はバランスを崩して、そのまま階段から落ち、
頭を強く打って……亡くなりました。」
アダムは黙って彼女の言葉を聞く。
ハート 「警察の捜査では、私は正当防衛に近い状況だったと判断されました。
そして裁判では……無罪でした。」
ハートは苦しそうに目を閉じる。
ハート 「でも……。私は今でも、あの日のことを夢に見ます。
父を殺そうなんて思っていませんでした。
ただ父から逃げたかっただけなんです……。」
彼女は震える両手を見つめた。
ハート 「私、この町を離れようと思います。
ずっと前から考えていたんですけど、今日の事で覚悟を決めました。」
アダム 「この町を離れても、ブギーマンはまたあなたの前に
現れるかもしれませんよ。」
ハート 「その覚悟はあります。もう逃げません。過去の自分からも。」
ハート 「ずっと児童福祉の仕事のお誘いがあったんです。
これからは自分と同じ境遇の子供たちを一人でも多く救うことが、
過去の自分への罪滅ぼしだと思って生きていきたいんです。」
アダム 「そうですか。分かりました。何かあったらすぐ連絡してください。
それがブギーマンじゃないこと祈ってます。」
二人は思わず笑った。さっきまでの恐ろしい出来事が嘘かのように。
数か月後・・・・
あれからハートの前にブギーマンが現れることなかった。
アダムに話していた通りハートは生まれ育った町を離れ、
片田舎の小さな児童福祉の会社に移り、
今は楽しく働きながら子供たちと一緒に過ごしているという。
アダムの胸の骨折も思ったりよりひどくなく、
予定より早く退院することができた。
アダム 「過去の罪滅ぼしか・・・・。」
先輩 「どうしたアダム?ハートさんの件はうまくいったんだろう?」
アダム 「ええ、彼女から連絡があって、
仕事もプライベートも全く問題ないそうです。」
先輩 「しかしお前よく生きてたな。
胸骨のほとんどが折れてたんだろ?誰に襲われたんだよ?」
アダム 「ブギーマンですよ。先輩。」
先輩 「はあ?ブギーマン?そんな奴いるわけねえだろ。
なんだよ今回の件はそのブギーマンに襲われたって話、本気で言ってるのか?」
アダム 「本気も何も事実です。この目で確かめたんですから。
先輩も過去の浮気、早く奥さんに白状したほうがいいですよ。
法で裁かれなかった罪はブギーマンが見逃さないので。」
先輩 「おい!!冗談よしてくれよ!!俺の過去の浮気がばれたら、
ブギーマンより先に嫁に殺されちまうよ。」
他愛のない話で笑いあい、二人はすぐに仕事に戻った。
そうまだ事件は解決していな。
ブギーマンを見つけ捕まえるまでこの事件は終わらないのだから。
そして今夜もまた、誰にも気づかれることなく、
新たな"裁き"を始めたブギーマンは、
ロンドンの深い闇へ静かに姿を消していった。




