嫌ってはいけない人間
その街には、「嫌ってはいけない人間」がいた。
見た目ではわからない。
名札もない。
証明書もない。
能力に違いもない。
話し方も、服装も、歩き方も、特別ではない。
ただ、いる。
そして、その人を嫌ってはいけない。
睨んだ。
避けた。
返事が冷たかった。
席を立った。
笑わなかった。
誘わなかった。
言葉を選ばなかった。
相手が泣いた。
相手が怒った。
それだけで、名前が載る。
昨日まで普通に暮らしていた人間が、翌朝には知らない誰かたちに裁かれる。
説明しても無駄だった。
そんなつもりはありませんでした。
それは言い訳ですね。
嫌っていません。
嫌った人はみんなそう言います。
ただの行き違いです。
傷ついた人がいるんですよ。
気をつけます。
今さら遅いです。
その街では、誰も本音を言わなくなった。
正確には、本音が顔に出ないように訓練するようになった。
鏡の前で笑顔を作る。
うなずく角度を練習する。
困った時の相槌を覚える。
断る時は、三回謝ってから理由を言う。
理由は短すぎてもいけない。
長すぎてもいけない。
短いと冷たい。
長いと嘘くさい。
ちょうどよい謝罪だけが許された。
だが、ちょうどよい謝罪とは何か。
誰も知らなかった。
ある日、職場で一人の新人が泣いた。
原因は、係長が資料のミスを指摘したことだった。
係長は怒鳴っていない。
机も叩いていない。
人格も否定していない。
ただ、赤字の数字が違います、と言っただけだった。
新人は黙ってうつむき、午後には早退した。
夜、投稿が出た。
職場で人間性を踏みにじられました。
存在を否定されました。
もう働くのが怖いです。
係長の名前は書かれていなかった。
だが、職場名と部署名と役職は書かれていた。
翌朝には、係長の顔写真が出回っていた。
誰が出したのかはわからない。
係長は言った。
「私は、数字が違うと言っただけです」
誰も返事をしなかった。
返事をすれば、巻き込まれるからだ。
その日の夕方、係長は謝罪文を出した。
謝罪文はさらに燃えた。
誠意がない。
言い訳している。
傷つけた自覚がない。
謝れば済むと思っている。
係長は三日後に出勤しなくなった。
新人の席も、空いたままだった。
だから、誰もわからなかった。
泣いた新人が「嫌ってはいけない人間」だったのか。
その投稿を書いたのが新人本人だったのか。
それとも、見ていた誰かだったのか。
ただ一つだけわかった。
次に誰が泣くのかを、誰も知らない。
その街では、優しさは選択ではなく、防具だった。
私はその頃から、人の顔を見られなくなった。
誰が「嫌ってはいけない人間」なのか、わからない。
そもそも、嫌ってはいけない人間とは何なのか。
誰が決めたのか。
どこに登録されているのか。
本人は知っているのか。
知らないのか。
それすら、誰も聞けなかった。
聞けば、疑っていることになる。
疑うことは、嫌っていることに近かった。
ある日、駅で人と肩がぶつかった。
私はすぐに謝った。
相手は黙ってこちらを見た。
怒っているのか。
泣きそうなのか。
何も思っていないのか。
わからなかった。
私はもう一度謝った。
相手は何も言わなかった。
私は三度目を言うべきか迷った。
謝りすぎると、かえって馬鹿にしているように見えるかもしれない。
謝らないと、反省していないように見えるかもしれない。
相手の表情を読み取ろうとした。
その瞬間、自分が相手の内心に踏み込もうとしていることに気づいた。
それもまた、危険だった。
私は黙った。
相手も黙っていた。
電車が来た。
私たちは別々の車両に乗った。
その夜、ネットを見た。
駅でぶつかられたのに、冷たい目で見られました。
という投稿はなかった。
私は安心した。
安心した自分が、嫌だった。
この街では、人を傷つけなかったことではなく、炎上しなかったことで安心するようになる。
誰もが優しくなった。
誰もが慎重になった。
誰もが言葉を選んだ。
そして誰もが、少しずつ人を避けるようになった。
嫌ってはいけない人間がいる。
それは、とても正しいことのように言われていた。
だが、その正しさの中で、誰もが互いを地雷のように見るようになった。
見えない。
わからない。
踏めば終わる。
だから近づかない。
それが、この街の優しさだった。




