第32話 祝福の帰路
帝都アウストリアの朝は、澄んだ空気に微かな鐘の音が溶けるように始まる。
貴族街の一角、エルンスト家の屋敷の前では、出立の準備が整えられていた。馬車は護衛付きで三台、うち一台はアルヴィスたちが乗る馬車。その周囲を固めるのは”静かなる盾”と呼ばれるエルンスト家直属の騎士たちだ。
銀の兜、黒と青の外套が朝光を反射し、まだ淡く眠気を残す街路に凜とした緊張感を漂わせていた。
アルヴィスは静かに馬車の傍らに立ち、何かを待つように振り返る。
そして、彼女は来た。
漆黒の皇族専用の馬車から降り立ったのは、金の髪に淡い蒼の瞳――リシェルティア・アグレイア。その姿に誰もが自然と膝を引き、視線を伏せるが、彼女の歩みはただ一人の少年へと向かっていた。
「……もう出発するのね、アルヴィス」
その声音は穏やかで、けれどわずかに寂しさを含んでいた。
アルヴィスはうなずいた。背筋を伸ばし、どこか大人びたその瞳で彼女を見る。
「ティアがいる帝都も、家族が待つ本邸も……僕にとって、どちらも大切なんだ。だから、ちゃんと帰るよ」
リシェルティアは少しだけ目を細め、笑った。それは皇女ではなく、一人の少女としての微笑。
「……気をつけて、アルヴィス」
その言葉に、アルヴィスはほんの一瞬だけ、柔らかく表情を崩した。
「君こそ」
風が、白銀の髪を揺らす。
その時、二人のあいだに流れたのは言葉ではなく、確かな“理解”だった。
もう、言葉はいらない。けれどそれでも、別れは寂しい。
馬車へと向かう直前、アルヴィスはふと振り返った。
リシェルティアが、少しだけ名残惜しそうに手を振る。
その手に気づくと、彼はわずかに間を置いて、小さく手を振り返した。
別れの手ではなく――繋がりを信じる手として。
それは、幼き二人の小さな約束のようでもあった。
やがて、騎士団の前列が動き出す。蹄の音が石畳を刻み、帰還の旅が始まった。
帝都の朝は静かに、けれど確かに彼らを送り出していた。
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帝都の喧騒が背後へと遠ざかるにつれ、道は緩やかな緑に包まれていく。街道の脇には揺れる草花、風に騎士の外套がなびき、馬蹄の音だけが等間隔に響いていた。
馬車の内部は静かだった。装飾の控えめな内装には、エルンスト家らしい質実な気品が漂う。座席に並ぶ三人――ジークフリート、セシリア、そしてアルヴィスは、それぞれの思案の中にいた。
「……静かね」
先に口を開いたのは、母セシリアだった。淡い蒼髪を結い上げ、旅装のまま柔らかな微笑を浮かべる。
「帝都の空気は重かったもの。今はようやく、呼吸がしやすくなった気がするわ」
「それは、帝都の人間に聞かせれば怒られそうな言い草だな」
ジークフリートが冗談めかして言うと、セシリアはふっと笑う。
アルヴィスは窓の外に視線を向けたまま、少しだけ口を開いた。
「……確かに。帝都では、何もかもが張り詰めていた気がします。目に見えないものまで、全部が測られていたような……そんな感じでした」
「そうだな。お前が目にしたものは、“大人たちの都合”だ。あの場に立ち、なお自分を見失わなかったこと――それが何よりの成果だな」
ジークフリートの声はいつも通り低く、威厳を保ちつつも、どこか穏やかだった。
セシリアが、そっと息をついた。
「リシェルティア様とは、ちゃんとお別れできたの?」
「……ええ。言葉は少しだけ。でも、それで十分でした」
アルヴィスの答えに、セシリアはゆっくりと頷いた。
「それならよかったわ。――貴女も、ほんの少し、大人になったのね」
アルヴィスは目を伏せたまま、何も答えなかった。けれど、唇の端がわずかに動いたことに、セシリアは気づいていた。
そうして再び静寂が戻る。
だがそれは、気まずさではなく、心地よい沈黙だった。
窓の外を鳥の影が横切る。陽は高く、穏やかな風が道を撫でていた。
「……ジーク、道中の予定は?」
「三刻後に峠の宿場で休憩だ。そこまでは平穏ならいいが……」
その時だった。
馬車の揺れが、僅かに変化する。進行が遅れ、外で騎士たちの声が上がる。
「……前方に何か?」
ジークフリートが扉を叩くと、すぐに騎士の報告が入った。
「報告します! 前方にて民間の馬車が魔物に襲われているとの報告。商隊と思われますが、詳細は確認中!」
車内の空気がわずかに張り詰めた。
誰もが黙して次の行動を測る、その一瞬――
アルヴィスが静かに、しかし確かな意志で告げた。
「私が、行きます」
その声は静かで、澄んでいた。
ジークフリートは無言のまま、深くアルヴィスを見つめ――静かに頷いた。
「わかった……行け。判断は任せる。だが、戻ってこい。必ずだ」
「はい、父上」
馬車の扉が開かれ、風が吹き込む。
昔なら、心の奥でためらいがあったかもしれない。
今はただ、澄んだ意志だけがそこにあった。
そして少年は、再び前へと進む。
祝福されし者としてではなく、ひとりの意志を持つ者として。
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馬車から降り立った瞬間、空気の温度が変わった。
草原と林の境に広がる街道――その先、視線の先に見えたのは、横倒しになった荷車と、それを庇うように震える商隊の護衛たち。
魔物は三体。どれも大型の獣種だ。
暗紫色の毛並みと獰猛な爪、異様に膨れた肩筋が特徴の《瘴気狼》。
凶暴さでは知られているが、冷静に対処すれば恐れる敵ではない。
「陣形を――!」
先行していたエルンスト家の騎士が指示を飛ばしかけた、まさにその時。
「……動かなくていい」
少年の声が、その場の空気を止めた。
静かに、だが確実に全員の耳に届く音質で、アルヴィスは告げた。
「ここは、私がやる。あの程度なら、私一人で十分だ」
最年少の少年が、そう言って前に出る。
騎士たちが一瞬戸惑いかけるが、すぐにジークフリートの声が後方から響いた。
「命令だ。全隊、アルヴィスの指示に従え。補佐に回れ」
誰一人、異を唱える者はいなかった。
アルヴィスは、深く息を吸った。
恐怖は、もう一切なかった。
あの夜、ティアを守ったとき――すでに決まっていた。
どんな場でも、自らの意志で歩むと。
今の彼に、恐れも迷いもない。
視界の端で、魔物の気配が踊る。
その動きを冷静に見極めながら、アルヴィスは呟いた。
「〈風聞〉」
風がうねり、空間が透けるように感知の波が広がる。
魔物の脚の軌道、筋肉の緊張、襲い来る角度――すべてが、脳裏に流れ込んでくる。
「〈氷杭〉」
地面が鳴動し、瞬時に鋭利な氷の杭が突き上がった。
先頭の一体が脚を貫かれ、咆哮と共にその場に崩れかける。
「〈雷迅〉」
ほぼ同時に、側面から飛びかかってきた二体目へと雷光が駆けた。
疾雷の一閃が体を撃ち抜き、魔物はその勢いのまま地へと叩きつけられる。
残る一体が、民間の荷車へと跳躍した。
だが、アルヴィスの詠唱はすでに終わっていた。
「〈光障壁〉」
淡く輝く半球状の結界が、商人たちを包むように展開される。
魔物の牙が触れた瞬間、眩い光が弾け、激しい反動がその身を跳ね返した。
アルヴィスは一歩、足を前に出す。
敵の動きは、すでに封じられていた。
「終わりだ」
指先が静かに下ろされる。
「〈火槍〉」
一点に絞った魔素が収束し、炎の槍が一直線に奔った。
氷杭で動きを封じられた魔物の胸を貫き、燃え上がる熱が体内を駆け抜ける。
咆哮と共に魔物が崩れ落ちる。黒煙が残る空へと、静かに昇っていった。
──終わった。
戦場は、静寂に包まれる。
騎士たちは動かず、ただその光景を見つめていた。
民間人たちが震えた声で「助かった……」と呟く。安堵と、そして驚きの混じった空気。
アルヴィスは、ゆっくりと息を吐いた。
感情の起伏はなかった。けれど確かに、自分の中にあるものが変わっていた。
「もう……私は怖くない」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく。
騎士たちの中で、レオナールがひとつだけ小さく頷いた。
「……あれが、“未来”を背負うということか」
だがその声も、少年の耳には届かなかった。
ただまっすぐに、彼は歩き続ける。
光と影が交錯する道を、祝福されし者として――いや、ただ一人の、強く在ろうとする少年として。
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西の空が朱に染まり始めるころ、エルンスト公爵領の本邸が見えてきた。
石畳の道に馬蹄が軽やかに打ち鳴らされ、旅の終わりを告げるように風が舞う。
街道を登りきった先、丘の上にそびえるのは、
重厚かつ威厳ある本邸――銀と青を基調とした石造りの館。
高く掲げられたエルンストの家紋旗が、夕焼けを背にゆっくりと揺れていた。
「……帰ってきたのね」
馬車の中、セシリアが小さく呟くように言った。
アルヴィスは窓の外を見ながら、深く息を吸った。
懐かしい匂いが、風とともに流れ込んでくる。緊張と孤独に覆われた帝都の日々とは違う、確かな“温もり”の記憶。
馬車がゆるやかに減速し、本邸の前庭に滑り込むように停まった。すでに騎士団が門前に整列し、エルンスト家の帰還を迎える準備を整えていた。
そして――
「アル兄っ!」
小さな声が響いた。
その声と同時に、門の影から走り出てきたのは、淡い金髪に白いリボンを結んだ小さな少女。
ソフィア・エルンスト――アルヴィスの妹が、弾かれたように駆け寄ってくる。
「おかえりっ、おかえりなさいっ、アル兄……!」
瞳を潤ませながら、まっすぐに飛び込んでくるその姿に、アルヴィスは目を瞬いた。
「……ソフィ?」
止まる間もなく、小さな身体がその胸にぶつかってくる。
ぎゅっと腕にしがみつき、離れようとしない。
「ずっと待ってたの……! 今日は早く起きて、アル兄の夢見て、ずっと――」
言葉が涙に溶ける。
アルヴィスは、しばし動けなかった。
帝都では見せなかった“無防備な愛情”。
それは、誰の評価でもなく、何の任務でもない――
ただ、自分という存在をまっすぐに想ってくれる、家族の愛そのものだった。
「……ただいま、ソフィ」
ようやく絞るように返した声は、少しだけ震えていた。
「……アル兄っ」
ソフィアは何度も名前を呼び、ようやく腕の力を緩めた。
すぐ後ろでは、老メイドのクラリッサが手を合わせるようにして立っていた。
「お坊ちゃま……お嬢様が、どれほどお帰りをお待ちしていたか。毎朝、今日は帰ってくるかとお尋ねになって……ふふ、本当に、大変でございましたよ」
その声には、長年仕えてきた者だけが持つ温かみと安堵が滲んでいた。
アルヴィスは少し照れたように眉をひそめながら、そっと妹の頭を撫でた。
「そうだったのか……ありがとう、クラリッサ」
クラリッサは深々と頭を下げた。
「いえ、こちらこそ。ご無事で何よりでございます」
その言葉に、アルヴィスが小さく頷いたちょうどその時だった。
隣で馬車から降りたばかりのジークフリートが、視線を門から本邸へと移す。
「……やはり、屋敷の空気は落ち着くな」
声に抑揚はない。だがその一言には、
無事に家族そろって帰還したことへの安堵と、長旅を終えた実感が静かににじんでいた。
アルヴィスはその言葉に小さく笑みを返し、胸の奥に湧いた想いを押しとどめながら、家族とともに館の中へと足を踏み入れた。
帝都の光と影を超えて――
少年は、自らの意思で、“還るべき場所”へと帰ってきたのだった。
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夜の帳が静かに降りた。
エルンスト本邸の中庭には蝋燭の光が柔らかく灯り、窓硝子には月が薄く映っている。宴も歓談もなく、ただ“平穏”という名の祝福が館全体を包んでいた。
アルヴィスは自室のバルコニーに佇んでいた。
肩にかかる上掛けはソフィアが運んできたものだ。星々が煌めく天頂を見上げながら、彼はゆっくりと深呼吸をする。
帝都での出来事が、いくつもの記憶の断片となって胸に沈んでいた。
夜会で感じた隔たり。リシェルティアの瞳に映る信頼。
そして――誰かを守るために、自ら選んで立った一歩。
星を見上げながら、アルヴィスは胸の奥に問う。
(……あの夜、私は確かに一つの選択をした)
誰かに守られるのではなく、自分の意志で立ち、誰かを守る側に――
そう生きると、改めてあの時、決めたのだ。
特別な力を持ち、“未来”を託される者として、数えられる日々の中で。
それでも私は、私として歩きたいと願った。
「……私はもう、ただ守られるだけじゃいられない。それが、私の答えだ」
その言葉を誰かに届けることはない。
ただ、自分自身の奥底に、そっと置いておくように。
風が吹く。胸元を静かに撫で、星明かりが彼の白銀の髪に差した。
そのとき、バルコニーの扉が小さく軋んだ音を立てて開いた。
「アル兄……?」
薄い夜着姿のソフィアが、小さなランプを手に立っていた。
まるで夢の途中のような足取りで、こちらへとにじり寄ってくる。
「どうしたの、ソフィ。もう眠る時間だよ」
「……でも、アル兄、ずっと起きてるから。だから……いっしょに寝てもいい?」
その問いに、アルヴィスはわずかに目を見開いた。
やがて、笑みが浮かぶ。ほんのりと、優しい影を湛えた微笑。
「……今日は、特別だ」
手を伸ばすと、ソフィアは嬉しそうにその手を取った。
小さな手の温もり。まだ幼くても、この手を守りたいと思う自分がいた。
その想いこそが、今の“歩み”なのだと感じていた。
「おやすみなさい、アル兄」
「おやすみ、ソフィ」
彼女を寝室へ連れて行く足音が、絨毯の上で静かに響いた。
星の海はなおも広がり続ける。
その光のどこかに、彼の進むべき道があるのだろう。
けれど今は――
小さな手のぬくもりを感じながら、ただ静かに、今日という夜を越えていく。
こうして、祝福の魔導公は幼き季を終え、静かに夜を越えていった。
夜明けは、まだ遠いが――その歩みは、確かに始まっていた。
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【※読者の皆様へ、大切なお知らせ】
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
第1部【幼年期編】はこれにて完結!
祝福の子としての誕生や魔法の才覚、リシェルティアとの正式な婚約など、
書きたかったことは書けたと思います。
ちょうどキリのいいここで、皆様に大切なお願いがあります。
ほんの少しでも、アルヴィスの物語を楽しんでくださった方は、
本作を『フォロー』して、★をつけて応援していただけないでしょうか?
皆様の評価が、作者のモチベーションにつながります。
今後も頑張って面白い物語を作っていくので、ご協力どうかよろしくお願いいたします。
次話は、時を2年飛ばしてアルヴィスが7歳になってからの物語となります。
本格的な次期当主としての教育や剣術の修練、リシェルティアとのデートなど様々な内容となっているので楽しみにお待ちください!!




