第9話 静かなる帰還
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帝都を発って丸一日。
陽が西へと傾き始めた頃、エルンスト公爵家の馬車列は本邸へと帰還の道を辿っていた。
騎士たちが周囲の警戒を怠ることはなかったが、その列にはどこか緩やかな余韻が漂っていた。
それは帝都での“祝福の儀”を終えたことによる安心と、あの光景を目の当たりにした者たちの心に残る、深い敬意と畏れだった。
馬車の中には、静けさが流れていた。
母セシリアは、眠るアルヴィスの髪をやさしく撫でている。
その腕の中にある顔は、神殿で光を放ったときの荘厳さとは打って変わって、あどけなく、穏やかで――どこか無防備だった。
父ジークフリートは、窓の外を流れる風景を静かに眺めながら、深く考えを巡らせていた。
「……帝都の空気、重かったわね」
セシリアがふと口を開いた。
「神殿でのあの光……。あれを見た者は、もうアルヴィスを“ただの子供”としては見ないでしょう」
ジークフリートは目を細めて頷いた。
「それでいい。認識されるということは、守る者が必要になるということでもある。
今の帝国で、最も安定し、最も静かな場所で――あの子の歩みを支えられるのは、我らの家しかない」
「あなたらしい言い回しね」
セシリアは微笑んだが、その瞳には母としての複雑な感情が揺れていた。
「……でも私は、少し怖いの。
あの子が、誰よりも強くなって、誰よりも遠くへ行ってしまうことが……」
ジークフリートは少し間を置き、妻に視線を向ける。
「遠くへ行く者には、戻る場所が必要だ。
帰る場所があると信じられる限り、人は決して孤独にはならない」
セシリアは何も言わず、そっとアルヴィスを抱き直した。
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その頃、エルンスト本邸では、帰還の準備に追われる人々の動きがあった。
使用人棟では執事長クラウスが、若い従者たちに的確な指示を飛ばしていた。
「南庭の整備を急げ。騎士団の馬がそのまま通るぞ。
坊ちゃまのお部屋には薔薇香を。強すぎてはいかん、あのお方は感覚が鋭いからな」
「了解です、クラウス様!」
メイド長クラリッサも、厨房とホールを行き来しながら手早く整えていた。
その目はどこか誇らしげで、長年仕えてきた者にしかわからない温かみがあった。
「“おかえりなさいませ”が言えるって……こういう時のためにある言葉なんだねぇ……」
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そして――中庭奥の小部屋。
まだよちよちとしか歩けない幼い少女が、窓際で落ち着きなく立ったり座ったりしていた。
ソフィア・エルンスト。
アルヴィスの妹。
言葉こそ拙いが、兄がもうすぐ戻ってくるということだけは、幼いながらにも理解していた。
付き添う乳母が、彼女の様子に思わず微笑む。
「お兄さまのこと、待ち遠しいのね」
ソフィアは胸元をきゅっと握り、小さな足でぴょこんと跳ねるような仕草を見せた。
彼女にとって、“兄”はまだ漠然とした存在かもしれない。
けれど、そこに確かな“好き”があることは疑いようもなかった。
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日が暮れかけた頃――ついに、エルンスト家の門が静かに開かれた。
騎士たちが先導し、一台の黒銀の馬車が中庭に滑り込む。
その動き一つで、屋敷中が音を立てたように動き始める。
「公爵ご帰還!」
衛兵の報告により、玄関前に並ぶ使用人たちが一斉に姿勢を正す。
そして、馬車の扉が開かれる。
先にジークフリートが姿を現し、続いてセシリアがアルヴィスを抱えてゆっくりと降り立った。
その瞬間、老執事ヘルマンの表情が、ぐっと引き締まった。
「――お帰りなさいませ、公爵閣下、奥様。そして……坊ちゃま」
続いて、全使用人が一斉に頭を下げた。
アルヴィスはまだ眠っていたが、ほんのわずかに眉を動かした。
次の瞬間、小さく魔素が揺らぎ、空気がやわらかに温まる。
それは、神殿で放たれたような威圧でも荘厳でもない、
“ただいま”という言葉に似た、微かな魔の気配だった。
クラリッサは目元をぬぐいながら微笑む。
「……よう帰られましたね、坊ちゃま……」
セシリアが穏やかにつぶやいた。
「ただいま、みんな」
その言葉が屋敷中に静かに響き、まるで魔法のように空気を緩ませた。
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その夜。応接間では、ジークフリートとセシリアが、クラウスと共に食後の茶を囲んでいた。
「帝都での反応は、やはり大きいようですね」
「“祝福”とは言え、あの光景は既に民の間では神話扱い。
政務評議会でも、象徴としての扱いをどう定めるか、動きが出始めているとか」
「我々が動く必要はない」
ジークフリートは淡々とした口調で断言した。
「動かずとも、我が家は揺れる。
それを最もよく知る者たちが、帝国の中枢にいることも――すでに計算の内だ」
クラウスは深く頷いた。
「帝国がこの安定を誇るのは、陛下や閣下のような方々が、余計な策を弄さぬことにございます」
セシリアは静かに紅茶を口に運び、ふと窓の外へ目をやった。
「でも……それでも私は、あの子を“帝国の象徴”ではなく、ただの我が子として守りたいの」
ジークフリートはその言葉を受け、柔らかな声で返す。
「――ならば、ここがその拠り所であり続ければいい。
この家が、あの子にとっての“揺るがぬ場所”であれば、何者になろうとも迷いはしない」
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その頃、アルヴィスは自室のベッドにいた。
ふかふかの毛布に包まれ、小さな身体を預けて眠る彼の隣には、
ソフィアがそっと置いた、縫い目の粗い布人形があった。
まだ会話を交わすことすらできない兄妹。
けれど、たしかにそこには“想い”が宿っていた。
眠るアルヴィスの指先が、夢の中でその人形にふれた。
小さな魔素の灯が、布人形の胸元にふわりと触れる。
それは“帰る場所”の輪郭を、彼の魂に刻むための光だった。
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夜が更けても、エルンスト家は静かだった。
だがその静けさの中には、何にも代えがたい“揺るがぬ絆”が息づいていた。
祝福の儀を終え、世界がアルヴィスを知った。
だが、この家は――彼を“息子”として迎えた。
それこそが、彼にとっての真なる“帰還”だった。
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