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とある悪女の末路 〜婚約者に裏切られた私は死刑を待つ身となりました〜

作者: 千秋 颯

 私の一生はあまりに惨めなものだった。


「セラフィーヌ・ド・クラヴリー! 今この瞬間を以て、貴女との婚約を破棄する!」


 そう告げたのは私の婚約者であり、一国の王太子であるロイク様。

 彼の傍には愛らしい見目の少女が立っている。


 小動物のように丸い瞳や小さな体は私とはまるで正反対。

 そんな平民の少女、アンナ様は酷く顔を曇らせ、今にも泣き出しそうな程目を潤ませながら私を見ていた。


 ここは学園の正門を抜けた先にある広い庭。

 校外で最も人が行き来する場所。

 数え切れない程の生徒が行き交う公衆の面前で私は大きな肩書きを剥奪された。


 そんな私を庇う声も、同情する目も一つたりともなかった。


(……当然ね)


 私は自分の立場を理解している。

 だからこそこの状況を覆せるだけの切り札を自分が持っていない事もよくわかっていた。


 だって私は、決して誇れるような人間ではなかったから。


(けれど、私、頑張ったのよ。悪い事もしたけど、それでも私なりに頑張って来たのよ――殿下)


 そんな事は言えない。

 言わせてくれる空気でもなかったし、例え無理に口を開いても彼の心は微塵も動かない事を知っている。


 彼が私の事を嫌っていた事は知っている。

 彼が自分の傍に立つ少女を特別に感じている事も知っている。


(それでも私は……貴方の事を愛してた)


「承りましたわ、殿下」


 私は恭しく頭を下げた。



***



 婚約の解消が決まってからは怒涛の展開だった。

 私はあれよあれよという間に謂れのない罪状をいくつも突きつけられ、気が付けば処刑場の地下にある牢屋へ閉じ込められていた。


(傷心する時間くらいくれてもいいのに)


 泣く時間すら与えられなかった私は心の中で不満を漏らす。

 鉄格子を挟んだ先に立つ騎士に背を向け、冷たい床に横たわりながら時間を過ごした。




 そんな日々が一週間――と言っても、時計も窓もないから大凡の体感だが――そのくらいの時間が経った頃の事だ。

 騎士の交代の時間となり、いくつかの会話を交えてから見張りの騎士が入れ替わる。


 そんなやりとりを私は背中で聞いていたけれど、交代が済めばここに残るのは静寂のみだ。


 当たり前だ。見張りの交代の度に『こんにちは』『お疲れ様です』などと声を掛ける罪人がどこにいるというのだろう。

 騎士からしても同様だ。

 世間では大罪人として名を馳せている私に好意的に話し掛けるような見張りなど――


「……セラフィ?」


 ――いた。

 それも一応公爵家の血筋を引く私をいきなり愛称で呼べるような無礼な……いや無神経な……いや、肝の据わった人間が。


 家族にすら呼ばれた事のないような愛称。だがそれが自分を指す呼び名だという認識は私の中にあった。


 この肝の据わった人間がどんな人物であるのか、流石に気になってしまった私は鉄格子に背を向けていた体で寝返りを打ち、声のした方へ向く。


 そこに立っていたのは王宮の騎士の制服を身に纏った青年だ。

 剣を腰に携えた金髪の青年は翡翠色の瞳ですっかり罪人らしくなった見窄らしい私の姿を映す。

 美しい顔だと素直に思った。

 まつ毛は長く瞳は大きい。鼻は高く、薄い唇の型は整っている。

 色白である事もあり、中性的な顔立ちは冷たさと儚さを与える中で、凛とした眉と高い背丈だけが彼に男性らしい印象を与える。


 彼はこの一週間で随分と薄汚れた私を小難しそうな顔つきで観察する。


 訪れた沈黙は私にとって居心地が悪かった。

 そしてすぐに耐えきれなくなった私が何なのだと口を開いた時のことだった。

 彼はその涼しげな顔立ちに似合わぬ花を満開に咲かせた。


 喜び、無邪気さ、あどけなさ。

 その顔から連想するものはどれも本来彼が持つ顔立ちには似つかわしくない、子供に与えるような言葉だ。


「やっぱりセラフィだ! そうだよね!?」

「…………どちら様?」


 第一印象との乖離に頭が追いつかず、思わず呆けてしまうもなんとか言葉を絞り出す。

 すると目の前の青年はわかりやすく顔を曇らせた。


「そうだよなぁ……。最後に会ったの十年以上前だもんなぁ……覚えてるわけないか……」

「……あの」


 大きく肩を落とす騎士を前に動揺してしまう。

 まるで自分と顔見知りである……というか随分親しげな間柄かのように接する彼を私は怪訝に思った。


 けれど彼の頭が深く沈むにつれてふと、その見目に心当たりがあるような気がしてくる。

 金髪に翡翠色の瞳。

 その特徴を持つ人物が確かに遠い記憶の中にあった。

 その過去を深く掘り下げ、思い返す。


 昔に見た姿は朧げだが、髪と瞳の色くらいは覚えていた。

 過去に関わりを持った人物も、確かに目の前の彼と同じ特徴。

 けれど…………


「……いいえ、ランとは別人ね」

「っ! セラフィ!」


 過った愛称を呟いた瞬間、男は弾かれたように顔を上げ、鉄格子を掴んだ。

 あまりの勢いに怯み、私は慌てて起き上がった。


「そうだ、俺だ! ランベール・ド・ファリエールだよ!」

「…………嘘よ」


 嬉々とした表情で格子に顔を近づける男を見て私は現実を受け入れられない。

 私の記憶の中のラン――ランベールという少年は長い前髪に顔の半分を隠した根暗で気弱で、泣き虫な少年だった。


 笑顔を見せる直前に見せた自信に満ち、堂々とした佇まい――そしてこんな風に自己主張をするような男ではなかった。

 自分の後をついて回った無垢な少年との変わり様に私は大きな衝撃を受け、狼狽えた。


 ランベールは私の従兄弟に当たる少年だった。

 歳は同じで、両親同士も友好的な関係を築いていた関係で、幼い頃は何かと顔を合わせる事も多かった。

 公爵家の私と伯爵家の彼とでは身分に大きな溝があったが、幼い頃の私達はそんな事は気にせず大人達の目を盗んで庭を駆け回ったものだった。


 確か、私がランベールと最後に会った時、彼は強くなる為に騎士の学校へ行くと語っていた。

 そして今目の前に立っているのが――国で最も優秀な騎士らが集められた王宮騎士の制服を身に纏っているのが記憶の中の少年だというのならば。


 彼は強くなるという誓いを果たしたのだろう。


 ……そんな事実も、今の私の心にはさして響かなかったが。


「嘘じゃないって。ほら、俺の顔見てよ」

「……やめなさい。騎士が罪人を襲うなんて事あっていいわけないでしょう」

「襲うなんて人聞きの悪い――あ」


 私の指摘で漸く我に返ったのだろう。

 強い喜びのせいか、鉄格子を突き破らんばかりに顔を近づけていたランベールは自身の今の状態が褒められたものではない事に気付き、一歩後ろへ下がった。


「ごめん」

「……その話し方、やめてくれるかしら。貴方が王宮から認められた騎士だとして、私が罪人だとしても。今はまだ私と貴方の立場の差は歴然よ。そんな言葉遣いをされる筋合いはないわ」

「セラフィ……」


 私が罪人であれ、いずれ裁かれるとしても、まだ罪状は明かされていない。

 公爵家に属する地位を剥奪されていないのであれば私はまだ高貴な身分であると言い張る事もできる……こんな状態ではそれすら自分自身を惨めにさせるだけだけれど。


 私の突き放す様な物言いが想定外だったのだろう。ランベールは困ったように眉を下げた。


 またしても静寂が訪れる。


 居心地の悪い空気に耐えきれず、私はランベールから背を向けた。


「……どうしてなんだ、セラフィ」


 その問いの真意に気付きながらも私は口を固く閉ざした。

 ランベールは一人で話を続ける。


「どうして君がここにいる? ここは殺人鬼や国家転覆を謀った者達……大罪人と呼ぶに相応しい者が集められた場所だ。君がいるべき場所じゃない」


 私は呼吸が浅くなるのを感じた。

 胸が締め付けられ、彼の言葉を聞き続ける事が苦しくなる。


「――君は、ここに来るような事をしていないだろ?」


(どうして)


 膝の上に作られた両の拳を強く握りしめる私の気も知らず、彼は平気でそんな事を言って退けた。

 国の決定に従い、罪人を見張る事を生業とする騎士が、平然と。


(どうして、この人なの)


 私は胸の苦しみの理由を知っている。

 世界で一番愛していた婚約者も、私の家族も、誰一人として言ってはくれなかった言葉。

 私を責め立て、拒絶する言葉を数え切れない程吐いたが、ただの一度だって言ってはくれなかった言葉。

 私が、諦めていた言葉。


 ――望んでいた言葉は最も容易く与えられてしまったのだ。


 それも長年離れ、思い入れも何も残っていないような……他人と変わらないような人から。


 自分が何より求めたものはこんなにも簡単に得られるものだったのかと拍子抜けする。

 そしてそんな簡単なものさえも求める事が許されなかった現実が一層私の胸を締め付けた。


 動揺を見せてはいけない。

 隙を見せればつけ込まれる。


 ――どうせ彼も本当は私の事など気にも留めていない。

 ――絆して、笑いものにしようと考えているだけだ。


 傷つく事を恐れる本心が彼を拒絶する。

 期待する事を避けようとする。


 私は深呼吸をした。

 そして虚勢を張れる程度に動悸が落ち着いた頃合いを見て口を開いた。


「私、貴方が思うような女ではないわよ」


 ランベールは何も言わない。

 今の姿勢では彼の顔色もわからない。


「昔の私は幾分か可愛げもあったかもしれないわね。けれどあの頃の私はもういない。……残ったのは、嫉妬に狂った醜い女だけよ」

「セラフィ」

「小さい頃から絵本が好きだった。絵本に出てくる王子様と、そんな王子様に無条件に愛されるお姫様。そんな二人に憧れたわ」


 何か言いたげに私の名を呼ぶ声を遮る。

 少しでも言葉を止めれば、必死に押し殺している感情が溢れ出してしまいそうだった。


「ロイク様との婚約が決まった時も、初めて彼に会って優しくされた時も、私、自分が世界で一番幸せなのだと確信した。あんなに素敵な殿方――それも、本物の王子様から愛でられる未来を約束されたのだから」


 ロイク様も初めは私にも優しく接してくれていた。

 私を何よりも優先し、私の望みを叶えようとしてくれていた。


 私はそれがとても嬉しかった。

 両親は私を未来の皇后にし、自分達の地位が上がる事だけしか考えていなかった。――私の事を微塵も愛してはいなかった。


 だから、例えロイク様の優しさが体裁を気にした形だけの愛だったとしても、私はそれがとても嬉しかったの。


 けれどそれも長くは続かなかった。


 妃教育――令嬢が受ける中で最も厳しい教育。

 妃になる為に必要な知識ばかりを無理に詰め込まれた箱入り娘には人と関わる為に必要な能力が些か足りていなかったのだ。


 誰からも認められず、愛されなかった女は偽りの愛情の虜になった。

 婚約者から与えられる優しさに依存し、彼に近づく異性を許容できなくなっていった。


 彼の側室の座を狙う令嬢、あろう事か正妻の座を狙う令嬢……様々な者がロイク様の周囲に現れた。

 そして私はそれを嫌味や皮肉、脅し混じりの遠回しの牽制などで追い払った。

 結果としてロイク様に近づこうとする女性は減った。


 勿論、そんな素行をすれば周囲からは悪名が上がるようになる。

 だが私の名声などどうでも良かった。

 私はロイク様にずっと添い遂げる存在となれさえすればそれで良かった。


 ……そんな私の日常が大きく狂い始めたのはアンナ様が現れてからだ。

 貴族ばかりのこの学園に特待生として通い始めた平民の少女。

 無垢で無知な装いでロイク様に近づく彼女を見て私はすぐに確信した。


 彼女は強かで、狡賢く……私と同じ性悪であると。


 異性の前では何も知らない顔をして、差し伸べられる手を待つ。

 自身の愛らしい容姿をよく理解した立ち回り。


 己の高いプライドを折れない私には他者には媚を売るなどという真似はできない。

 だが彼女のその振る舞いこそが彼女自身の立場を確固たるものとした。


 私の攻撃的な牽制と一見では受け身且つ弱腰に見えるアンリ様の立ち回りはあまりに相性が悪い。

 私が強い言葉で皮肉や拒絶を口にすれば彼女は傷ついたふりをしながらそれを誇張して言いふらす。


 たったそれだけの事でアンリ様は守られるべき存在として多くの殿方からの寵愛を受ける事になった。

 そしてそれはロイク様とて同じ。彼はアンリ様へ強く当たる私の行いを許さなかった。


 だが彼がアンリ様の肩を持ち、私を批判する度に私の嫉妬心は胸の内側から燃え上がる。

 それは自分自身で到底制御しきれない程大きな炎だった。


 私はアンリ様への態度を変えられず、ロイク様に対しては更なる執着を見せる事になる。

 この時の私はきっと、乙女などとは程遠い――見るに耐えない、醜い姿に映った事だろう。


 そして気付いた時には、身に覚えのない噂ばかりが私を取り巻いていた。


 アンリ様の持ち物を泥まみれにさせただとか、階段から突き落としただとか。

 しまいには殺害予告と未遂。そんな噂を周りは鵜呑みにした。


 噂の出所はわかっている。

 けれど私が躍起になってそれを止めようとすればする程、アンリ様への声を荒立てる私を見て人々は噂を信じるようになる。

 こうなった時点で私は詰んでいた。


 それでも私は期待していた。

 私がロイク様の婚約者であるという事実も、彼が私に優しく接してくれた日々も消える訳ではない。

 体裁や血筋のことを考えるならばそう簡単に婚約を解消する事もできない。

 それに愛してくれはせずとも、情くらいは抱いてくれているのではないか――私が見限られる事はないのではないのか。


 そんな、浅はかな希望。


 だが結局私を待っていたのは大勢の前で婚約破棄を言い渡される未来。

 そしてその数日後に謂れのない大罪で地下へ押し込められるという未来。

 この二つだけだった。


 浅はかで世間知らずな悪女は己の主張に耳を傾けてもらえる場も得られず、知らず知らずのうちに多くの罪を背負わされた。

 そして数日前に死刑が言い渡された。


 執行日はわからない。

 ただ、近い未来で私が死ぬ事だけは確定している。


 にもかかわらず妙に落ち着いているのは、私にとって世界の全てだったロイク様に見限られたからだろう。

 これまで積み重ねてきた淑女教育の努力は水の泡。仮に釈放されようと家族は私を拒絶するはずだ。


 居場所はない。望みもない。

 こんな世界に未練などもうなかった。


「私は物語のお姫様のようにはなれなかった。ティアラが似合うのは別の女性の方だったようね。……当然の事だけれど」

「そんな事はないだろ。相応しいと判断されたからこそ君は婚約者に選ばれていたんだ」

「仮に当時は少しばかり適性があったとして。それも結局自らの行いで壊してしまったわ。確かに、笑ってしまう程に身に覚えのない罪は多すぎるけれど……それでも、その中には事実だってちゃんとあるのよ」


 決して手は上げなかった。

 けれど口を使った暴力ならばいくらでもした。

 学園へ来られなくなった令嬢、家から出られなくなった令嬢もいた。

 けれど私はその事実から目を逸らし、ロイク様に取り入ろうとし続けた。


(なんて愚かだったのかしら)


 その先に待つのは破滅でしかなかったのに。

 ロイク様の愛が自分へ向けられる事などあり得なかったのに。


「沢山の令嬢を傷つけたし、地位を利用して脅迫だってしたわ。悪意を持って。確かにここに閉じ込められる程の事をした覚えはないけれど、それでも私は列記とした悪よ」

「ほら、やっぱり冤罪だ。さっきの君の話が事実なら、それはきっと誇れるような事ではないんだろう。……けど、少なくともここから出る権利くらい当然にあるはず――」

「必要ないわ」


 私の返答が予想外だったのだろう。ランベールは目を見張る。


「必要ないって……君、このままだと」

「処刑されるでしょうね。それで構わないわ」

「自棄になるなよ。俺も手を貸すから――」

「いらないと言っているでしょう!」


 自分でも驚く程、荒げた声が出る。

 地下牢へ響き渡る自分の声に驚き、冷静さを取り戻しながら私は溜息を吐いた。


「もう疲れたわ」


 私が口を閉ざせば、ランベールが何か不要な事を話し出しそうであった。

 それを避けるように私は続ける。

 ロイク様の偽りの優しさを知る私にとって、まるで私を大切に扱うような彼の気遣いはとても怖かったのだ。


「これでいいのよ。あのお方が私の死を望むのならば、私はそれに応えるわ。……どうせ、私の居場所なんてありはしないのだから」

「セラフィ」

「余計な事をしないで頂戴」


 まだ何か言いたげなランベールの発言を諦めさせるべく、私は吐き捨てる。

 お陰で彼は言い掛けた何かを伝える事を諦めた。


「……わかったよ。君が本当にそれを望むなら」

「理解してもらえたようでよかったわ」

「けど、一つだけ言わせて欲しい」

「嫌よ」

「セラフィ」


 こればっかりは譲れないというように、ランベールは私の拒絶の言葉に自分の声を重ねた。

 仕方なく私は口を閉ざす。


「もし君の気が変わったのなら、その時はすぐに俺に教えてくれ。いくらでも協力するから」

「……必要ないわ、そんなもの」

「それならそれでいいさ」


(そう。最後くらいロイク様の望みを叶えようって決めたのよ)


 私はそれ以上言葉を紡がなかった。

 自分の背後にいるランベールの存在を感じながら、気を張り詰める。


(だから――優しくなんて、しないで頂戴)


 彼に感情を揺さぶられないように、私は揺れる自身の心から目を逸らすのだった。




「セラフィ」


 翌日、彼は同じ時間にやって来た。

 ……香ばしい匂いを漂わせる串焼きを何本か持って。


「あっちに行って頂戴」


 こんなものを目の前に見せつけられれば嫌でも空腹を自覚させられる。

 地下牢の食事はあってないようなもので、いつだって空腹感は消せないのだ。


「やだなぁ、何も嫌がらせに来たわけじゃないって。ほら」


 私が背を向け、ランベールと串焼きが視界の外へ追い出そうとするより先、彼は串焼きの入った袋を鉄格子の隙間から傾けた。

 思わず生唾を呑む。


「街の屋台で買ったんだ」


 屋台に出ているものなど食べた事はない。

 王太子の婚約者であった私は万が一に備え、決められた者が作った食事以外には手を付けるなという教育を受けていた。

 だから私は馬車で街を横切る時も、時折見かける庶民的な軽食に興味を引かれながらもそれを間近でみる機会などはなかった。


 だがそれも今となっては必要のない規則だ。

 ただ問題なのは、これを受け取る事で私がランベールに心を開いたと勘違いされる事だった。

 少しでも隙を見せればきっと昨日みたいに図々しく距離を詰めて来る事だろう。


 死刑執行の時を待つ私にとって、誰かに優しくされる事で死を受け入れるという決意が揺らぐ事は避けたかった。


「必要ないわ。そんな怪しいものに手を出すわけが――」


 あくまで毅然とした態度で、全く後ろ髪など引かれていないような態度で私は早口に答える。

 だがその途中、公爵令嬢にあるまじき音が私のお腹から響き渡った。


 何が起きたのかをすぐに理解した私は鋭く息を呑む。

 一方のランベールは目を見開き、きょとんとしてみせた。

 その視線が私を居た堪れなくさせる。


「…………っ」


 私は俯き、ランベールから視線を逸らす事で羞恥心に耐える。

 だが二度目があれば私は我を忘れて動揺してしまう自信があった。


 そうなるよりも先に私は差し出された串焼きを受け取る。

 串焼きを受け取るや否や鉄格子から背を向けた私の後方で吹き出される笑いの気配があった。

 それを無視して私は串焼きを食む。


 濃い味付けのソースと硬くなった肉を口の中でゆっくりと噛み締めて呑み込む。

 安っぽい味だ。だが人生で初めて食した屋台の料理は新鮮で、悪くない味だと感じた。


「気に入った?」


 ランベールの声に返事はしない。

 私は無言で串焼きを食べ続けた。


 鉄格子の前に立ったままのランベールは嫌な態度を取る私を気にした様子もなく、懲りずに私へ話し掛ける。


「お祭りの時期になるともっと色々出るよ。歩きながら食べられるデザートとかも」

「デザート?」

「……君、相変わらず甘いのに目がないね?」


 歩きながら食べるという行いにあまりピンと来なかった私はデザートという言葉を聞いた瞬間に彼の話に食いついてしまう。

 私がデザートの話に興味を示した事がおかしかったのか、ランベールはまた吹き出す。


「今日は見つけられなかったんだけど、お祭りの時期ならそんな事もないと思うよ。定番の料理なら見飽きる程並んでいるからね」

「……屋台なんて、あまりまじまじと見た事がないわ。定番なんて言われても」

「だろうね。けど多分君も気にいると思う」


 ランベールが何故わざわざ私に串焼きを買い与え、こんな話をしているのか。

 その意図を私は悟りつつあった。


「まぁ、次の祭りまで私は生きていないでしょうけれども」

「……そうかい」


 だからこそ先手を打つ。

 貴方がどれだけ餌をぶら下げようとも、私の気は変わらないと伝えるのだ。


「どうもありがとう」

「どういたしまして」


 どんな下心があれ、彼が私の舌を満足させ、腹を満たすものをくれたことは変わらない。

 それに礼を述べればまた小さく吹き出す声があった。




 翌日も、そのまた翌日もランベールは懲りずに私へ話し掛けた。

 ある日は髪飾りを持って、ある日は花を持って、またある日は私好みの本を見繕って。

 こうも毎日尽くされれば彼の気持ちが嫌でもわかるようになる。


 彼は私を陥れようだとか、笑いものにしようとして私を訪ねている訳ではない。

 再会の日に私へ向けた言葉も思いも、全て本心から来るもの――私の事を思ってのものだと確信した。


(馬鹿な男)


 再会までに掛かった時間は私達が生きた歳の半分を超える。

 にも拘わらず、幼き日の初恋を引きずり続ける男。


 あの頃の純粋で無知で、怖いもの知らずだった少女はもうどこにもいないというのに。

 大罪人に尽くしている事がバレれば自分だってどんな目に遭わされるかわからないのに。


 贈られた本を読んでいるフリをしながら私は鉄格子の外に腰を下ろすランベールの顔を盗み見る。

 だがその視線にはすぐに気付かれてしまい、彼が顔を上げて私を見返す。


「その本好きなんだよね、俺」

「悪くはないわよ」

「でしょ?」


 素直に良いと言えない私の性格を理解しているのか、ランベールは得意げになって笑う。


「その話の舞台さ、実際にある場所なんだよ」

「そう」

「作者の故郷らしい。まあよくある田舎の小さな村って感じではあるけど、家々の間を通る水路は趣があるらしい」

「よくある田舎と言われても、私にはよくわからないわよ。絵画と、小耳に挟んだ程度の話の印象しかないもの」

「そっか。高貴なご身分の令嬢にはあまり縁もないか」

「ええ。死刑囚にもね」

「君、そうやって自分を下げるような言い方するのやめなよ」


 予想外に真剣な声色が返され、私は内心慌てながら視線を本へと戻し、彼に背を向けた。

 彼が不快な思いをしたのかもしれないと思うと、何故だか急に恐れを抱いたのだ。


 緊張のせいでページは一切進まない。

 私は本に視線を落としたまま、ランベールに注意を傾けていた。


「君がそうやって自分に対して卑下したり強い言葉を使うのは、その言葉を他者の口から聞く方がずっと苦しい事を知っているからだ。だから、自分はわかっていると主張し、相手の口から聞きたくない言葉が出る事を避けようとしている」


 彼がいつもの穏やかな声に戻しても尚、私の手は動かない。

 彼の言葉が図星であり、驚いてしまったのだ。


「セラフィ」


 ランベールが私の名前を呼ぶ。


「こっちを見て、セラフィ」


 私がそれを無視すれば再び声を掛けられる。

 今度は更に甘い声で。

 初めは意地でも振り向かないつもりだった。


 けれどこれ以上名を呼ばれれば居た堪れない気持ちばかり募ってしまうだろうし、何より全く集中できていない状態では本を読むふりもいつか見破られてしまいそうだった。


 これ以上醜態を重ねない為にも私は考えを改める。

 表面上だけでも無関心を装えるだけの余裕をかき集め、無表情を顔に貼り付けてから私は顔を上げる。


「こっちに来てくれないかな。君に触れたいよ」


 鉄格子の先でランベールが寂しそうに笑う。

 その顔につられて思わず頷きそうになるが、私はすぐに我に返った。


「嫌よ」

「頑なだなぁ」


 彼に触れて、その優しさを今以上に感じてしまえば自分の心がどう揺れ動くか、想像もできない。

 今更生への執着や他者への期待などというものが産まれようものなら、私は死刑という判決を下された自分の立場を呪い、嘆きながら一生を終えなければならなくなる。

 今以上の胸の痛みを抱えるなど、ごめんだった。


(……そう。今更お国の考えが変わる事なんてない)


 再開した日、ランベールは言った。

 背負わされた罪が冤罪ならば地下牢から出る権利は当然にあると。

 その為に自分は手を貸すと。


 だが現実はそう簡単ではない。

 一度下された判決を覆す事は、裁判に不備があったと認める事。

 今回は未来の国王――王太子であるロイク様が深く絡んでいる事例でもあり、私の死刑を取り消すという事は私を悪女と看做したロイク様の判断が間違っていた事、それによって国民の命を過ちで奪う可能性があった事を公にするような事だ。

 そんな事をすれば王太子の立場が揺らぐだけではなく、国王や国へ対する不信感も大きく募る。


 例え私が冤罪である証拠が完璧に揃ったとしても、国民の混乱を招くというリスクを考えれば国が私の死刑を取り消す事はきっとない。

 それよりも、揉み消す方がよっぽど楽で安全なのだ。


 公爵令嬢という点を除いてしまえば私はただの少女。国が重宝するような能力もなく、リスクを冒してまで救わなければと思わせるような影響力もない。


 つまり、一度死刑を宣告されて時点で私の死は二度と揺るがないのだ。

 ……だから、今更何かを期待したり望んだりするなど馬鹿げているし、絶対にしたくはなかった。


(愛する人を一途に思いながら散る。もうそれでいいの)


 鉄格子の先から伸ばされた手は私に触れられず、空を切る。

 ランベールは困ったようにはにかんだのだった。




 とある日。恐らく明け方の事だ。乱暴な言葉で起こされる。

 鉄格子の先に立つのはランベールではない、別の騎士だ。

 彼は鼻で笑い、私を詰り、そして最後に私の処刑が明朝に決まったと告げた。


 心の準備は出来ていたはずだった。

 だがあまりに急な宣告に血の気が引いていく感覚を覚える。

 騎士の前で取り乱さなかった事だけは自分を褒めてやりたい。


 私は無表情を貫いて、わかりましたとだけ返した。

 怯える私を期待していたのだろう。へらへらと笑っていた騎士が気を悪くしたように顔を歪めたのは滑稽だった。




 死刑執行を言い渡された朝は動揺と恐怖で具合を悪くする程だったが、それも時間が経つにつれて落ち着いていく。

 元々覚悟していたからという事もあるだろう。騎士らが昼休憩の為に見張りの交代を行う頃にはある程度気持ちに整理も付いていた。


(……本は、最後まで読んでおきたいわね)


 小さな心残りはランベールから贈られた本がクライマックスへ差し掛かった辺りまでしか読めていない事だ。

 しかし罪人である私が何者かから娯楽品を与えられている事が他の騎士にバレる訳にはいかない。


 ランベールが来たら彼の見張りの時間に何とか全て読み切ろうと私は心に決めるのだった。


 そして見張りの交代の時間になり、鉄格子の先にランベールが現れる。

 彼の他に人の姿はない。


 ランベールの唇は緩く弧を描いていたが、その瞳は隠しきれない感情が滲み出ている。

 私はそれに気付かないふりをして、本に手を掛けた。


 そして静かに読書に勤しむ。


 ランベールは鉄格子の前に胡座を掻き、私の姿をじっと見つめていた。

 けれど、暫くは何も言わない。

 そんな彼が口を開いたのは、私が本を二十ページ程読み進めた頃だ。


「気持ちは変わらない?」

「何の?」

「冤罪を受け入れる事への」

「……そうね」


 会話が途切れる。

 ランベールは続けて何か言おうとしたが、上手く言葉にならなかったのか、彼が息を吸う音だけが私の耳に届いた。

 重い沈黙がある。


「……昔話をしてもいい?」

「勝手にすればいいわ」


 相変わらず可愛げのない返事をした自覚はあった。

 だが彼はそれに「ありがとう」と素直な言葉を返した。


「君は俺にとって特別だったんだ。君に出会った日から、ずっと……ずっと」


 くすりと思い出し笑いをする気配があった。


「俺の家は兄さんがすごく優秀で、俺はいつも比べられては怒られてた」

「ええ。ファリエール現当主でしょう。昔からずっと変わらず、聡明な方だわ」

「ああ。当主になってからも相変わらず器用に仕事を熟してるらしいね」


 ランベールはファリエール家の次男。そして家督を継ぐ事が約束されていた長男は社交界で常に噂の的となる程優秀な男だった。

 ランベールが不出来だった訳ではない。寧ろ同年代から見れば充分過ぎるほど教養を積んでいた。


 だが兄と比べられる事で自信を失ったランベールは他人の視線を恐れるようになり、外へ出る事ができなくなった。


「外に出られなくなった俺を外へ引っ張り出してくれたのは、君だった」


 家族と共にファリエール邸へ訪れた時、自室に引き篭もり、塞ぎ込んでいたランベールを外へ誘い出した――半ば無理矢理引き摺り出したのは私だ。

 この頃から読書が好きだった私は物語の中で平民の少年少女が自分とは違う遊びをしている事にとても感心を寄せていて、大人の目を盗んではよく本の真似事をしたものだ。

 そしてこの頃の天真爛漫だった私は、ランベールを外へ引っ張り出した時も同じような遊びをしてみせた。


 そして、一人で遊ぶよりも二人で遊ぶ事が楽しい事を知った。


「あの頃の俺は弱虫だったし、君の提案はどれも貴族として生まれた子供には似合わないような事ばかりだった。おまけに大人にバレた時はすごく怖かったけど……でも不思議と後悔した事も、君を恨んだ事もなかったんだ」


 芝生の上に寝転んで昼寝をしたり、シェフの料理をつまみ食いしたり、こっそり家を抜け出したりした。

 勿論、バレたら大目玉だ。

 私達何度も両親に怒られ、厳しい言葉を投げられる事になった。

 けれど、私に振り回され続けてきたはずの彼の声音はどこまでも明るくて穏やかだった。


「君が初めて外へ引っ張り出してくれた日……久しぶりに見た太陽と、その光を目一杯浴びる庭の植物達は、息を呑む程美しかった」


 ――まるで、大切な思い出を語っているとでも言いたげな声。


「君が外がこんなにも綺麗なんだって……新しい世界を俺に見せてくれた。だから俺は塞ぎ込まずここまで生きてこられた。……でもね、セラフィ」


 名前を呼ばれ、思わず視線を彼へ向けてしまう。

 翡翠色の瞳は真っ直ぐと私の姿を映していた。

 どこまでも澄んだ、美しい瞳。

 それをランベールは柔く細める。


「そんなものと比べ物にならない程美しかったものが俺の目を引いたんだ」


 彼が何を言いたいのか、私はもう悟っている。


「昔も今も、いつだって俺の心を大きく揺さぶるのは君だけだ」


 それでも彼の言葉を遮らないのは拒絶する事に罪悪を感じるからか。

 それとも無意識のうちに彼の口から聞く事を望んでしまっているからなのか。


 ……私にはわからなかった。


「君が外に出る理由を見つけられないのなら、俺が代わりに見つける。そして今度は俺が君を導くよ」


 ランベールは鉄格子の隙間から私へと手を伸ばす。


「一緒に来てくれ」


 彼の手を取る事。それはこれからの生を手に入れる事と引き換えに自分の身分も、生まれ育った国も捨てるという事。


 もし万が一にも、全ての見張りや追手の視線を掻い潜り逃げ延びる事が出来たとして、これまでのような裕福な暮らしはできないだろう。

 安全の確保だって、これまでのように多くの騎士が行ってくれる訳でない。自分で自分の身を守らならなくてはならなくなるだろう。


 ……そんな事が、本当に可能なのだろうか。

 あまりに現実的ではない未来。

 そこで自分が生きている景色を想像する事ができない。


 それどころか、目の前の青年を巻き込んだ結果、失う命が自分一つで済まないかもしれない。

 この手を取らなければよかったと後悔する日が来るとしたら、私は――


(……貴方のせいよ)


 私は伸ばされた手を視界から追い出した。

 どうしようもない胸の苦しさが、私自身も理解が追いついていないような本心が叫んでいる気配から目を逸らす。


(貴方のせいで、揺らいでしまった)



***



 背の低い建物と自然に囲まれた長閑な村で並んで歩く。

 穏やかな風に撫でられてくすぐったいとはにかむ。

 離れた場所からは水路を辿る水のせせらぎが聞こえ、温かな日差しに目を細め、好きな本の話をする。


 毎日の食事は質素で、貴族が口にする料理とは全く異なるだろう。

 けれど、味を感じる暇のなかったあの頃の食事よりもずっと美味しく感じる料理をゆっくりと味わう。

 何の会話も生まれないかつての食事風景とは違って、会話も弾み、自然と笑いが生まれる。そんな時間。


 ……そんなものが、本当に存在したのなら。

 そんな未来が確約されていたのなら、私はきっと彼の言葉に甘えてしまっていただろう。


 それほどまでに私の気持ちはこの短期間で大きく変えられてしまっていたから。



***



 私は本を閉じる。

 背を向けていた鉄格子を見るように、横になっていた体で寝返りを打つ。そこには騎士の後ろ姿があった。


 ランベールではない。


 彼は少し前に今の騎士と交代の時間を迎え、去っていったから。


(……熱心な見張りじゃなくてよかった。おかげで最後まで読み切れたわ)


 私は読み切った本を閉じ、物陰に隠す。

 見張りの騎士は鉄格子に凭れたまま船を漕いでいた。

 私が読書という娯楽に浸っていた事も、彼は気付いていないだろう。

 

 ……私は結局、彼の手を取らなかった。


 ランベールはそれ以上何も言わなかった。

 伸ばした手が空しか触れない結末に彼が何を思ったのか。それはわからない。

 彼の顔を見る勇気はその時の私になかった。


 その後、彼は交代の時間を迎えるまで何も言わなかった。


 明日刑が執行されるということは、彼がここへやって来ることも、私が彼に会うことももうないということだ。

 小さな罪悪と後悔が胸の奥で燻っていた。


 私は本を隠した方を見つめる。

 彼が私に送った本は悪く言えばよくあるおとぎ話だ。


 小さな村で、人々から蔑まれて来た少女が飢えを凌ぐ為に身を削って働く。

 心も体もボロボロになった少女の前に、村へと迷い込んだ少年が現れる。

 二人は一時を共に過ごし、絆を築く。


 一つのパンを分け合い、冬の真水で体を洗い、擦り切れた服で寒さに耐える。

 不自由で苦しい生活。

 けれど共に過ごす毎日は二人に細やかな喜びを植えつけた。


 そして別れの日、少年は必ず救いに来ると少女に一つの約束を言い残して村を出る。


 数年後、命の危機に晒された少女の前に大きく成長した青年が白馬に乗って姿を現す。

 彼は実は国の王子で、少女を妻として迎えに来たのだった。


 そして二人は城で何不自由なく、幸せに暮らす事になる。


 どこかのおとぎ話を継ぎ接ぎしたような話。

 よく言えば――私が最も好きな話の類。


 現実の私も、物語の最後の少女と同じように何でも持っていた。


 地位も権威もお金も……そして、王子様も。


(なのに、おとぎ話にいつも出て来るお姫様にはなれなかった)


 現実は創作の世界のようにはいかないのが常だ。

 そしてそれに絶望したからこそ、自らの死を受け入れた。


 ……そのはずだったのに。


(変なの)


 両目が熱を帯びるのを感じる。

 視界が揺らぎ、涙の気配を感じた私は慌てて目をかたく瞑った。


(今はこのお姫様よりも、苦労人の女の子の方が羨ましく思うわ)


 どれだけ過酷な環境でも、心を寄り添える人がそばにいる。

 それだけで、苦難の中には確かな幸せが生まれるのだと、その物語は私に教えてくれた。


 自分を想い、愛してくれる人。

 そんな存在が、あるだけで。


「……本当に、どこまでも愚かな女」


 愛されないと分かりながらも一人の男に執着し。

 悔やむとわかっていながら取れなかった手を今更惜しむ。


 本の中の少女が羨ましくて堪らない。

 妬ましい。寂しい。苦しい。

 どうして私だけ何もかも上手くいかないのか。


(私だって、幸せになりたかった。私だって――)


 見張りに気付かれないよう声を押し殺す。

 気付かれればきっと心無い嘲笑を浴びせられる。

 そうすれば僅かに残ったプライドすら粉々に砕け、私の心は壊れてしまうと思った。


「…………生きて、いたいわ」


 それでも堪え切れない思いが、口から零れ落ちる。

 お姫様じゃなくてもいい。

 ただ愛されたい。

 物語の中で描かれる人並みの幸せを噛み締めて、生きていたい。


 強く閉じた瞳から涙が溢れた。


 ……その時だ。


 背後から男の呻き声が聞こえる。

 程なくして続くのは人が倒れ落ちる音。


 何が起きたのかと思わず身を固めたのも束の間。


「――セラフィッ!」


 聞こえたのは聞き覚えのある声だった。

 地下での生活で毎日聞いたその声は私の耳によく馴染んでいた。


 思わず体を起こし、振り返ってしまう。

 走って来たのだろう。息を乱しながら、ランベールは立っていた。


 彼は私の顔を――私の頬を伝う雫に気付いて目を見開く。

 そこで漸く私は己の惨めな姿を彼に見せてしまった事に気付き、顔を背ける。

 ……どれだけ誤魔化そうが、強がろうが、もう隠し通せるわけがないとわかっていながらも、虚勢を張る癖はなかなか抜けなかった。


「セラフィ」


 カチャカチャと金属が擦れる音がする。

 そしていとも容易く、鉄格子の扉が開いた。


「ごめん。やっぱり無理だ」


 鍵束を手にしたランベールは足早に私との距離を詰める。

 そして私を繋いでいた鎖を手早く解き、鍵束を放り捨てる。


「君の意見や想いを尊重すべきなのか、少しだけ悩んだ。……けど、やっぱり俺には無理だ。君を諦める事はできない」


 顔を背ける私の頬を彼が撫でる。

 指先で雫を掬い取りながら、彼は正面を向くようにと優しい力で私を促した。


「君の望みを聞き入れない俺を怒ってくれていい。憎んでくれたっていい。それでもいいから……一緒に来て欲しい」


 優しい眼差しが私へ向けられる。

 私の瞳はまるで堤防が決壊してしまったかのように涙が溢れて止まらない。

 そんな醜い私をただただ愛おしいとでもいうように目を細める彼の表情は大きな安堵を私に与えた。


「追手の事なら気にしなくていい。俺、こう見えて相当強いから、絶対に逃げられる。君を泣かせるような事はしないって誓うよ」


 ランベールの視線が一度、自身の腰に据えられた剣へ向けられる。

 彼は得意げに片目を閉じてみせた。


「君や俺の事なんて何にも知らない人ばかりの村に逃げよう。田舎での生活は少し不便だろうけど、草原や木に囲まれるってのは案外心地よかったりするよ。散歩をしたり、近所の人に挨拶や世間話をしたり、一緒に今日食べるご飯の相談したり、一緒に作ったりしようよ」


 歌うような、楽しげに弾む声。

 彼が自身の思い描く未来に想いを馳せ、それを心から望んでいる事が嫌というほど伝わって来る。


「それでたまに旅行しよう。どこか遠くの国のお祭りに行ってさ、食べ歩いたり、パレードを見ようよ。君は多分そういうの慣れてないだろうけど、俺がちゃんと先導するからさ」


 少し頬を染めて、恥ずかしげにはにかむ。

 どこか幼子のようなあどけなさを滲ませた微笑みだった。


「君のこれまでの暮らしに比べたらだいぶ不便かもしれないけど、それでも君が未来で『生きててよかった』って思えるように手を尽くす。絶対そう思わせてみせるから。……だからさ、セラフィ」


 彼の顔が迫る。

 それを目で追う事しかできなかった私の額に、ランベールはそっと口付けをした。


「一緒に生きて」


 沢山の死を望まれる声を受けて、私はここにいる。

 その中で彼だけが私の生を渇望していた。


 『生きて』そのたった一言が私の全身に巡り、心を大きく揺れ動かした。


 私の負けだった。

 これ以上、自分の気持ちを偽る事はできなかった。


「……い」


 唇が震える。

 掠れた惨めったらしい声だった。

 それを何とか絞り出す。


「生きたい…………っ」


 翡翠色の瞳が大きく揺らぐ。

 それが細められた瞬間、彼の右目から一粒の雫が溢れるのを私は見た。


 だがそれが現実から幻かを反発するよりも先、彼は私を強く抱き寄せる。


「うん。……ありがとう、セラフィ」

「どうして……貴方が礼を言うの」

「嬉しいからに決まってるだろ」


 腕の中で啜り泣きながら、ランベールの温度を感じる。

 記憶の中の何倍も大きな胸はとても温かかった。


「失望しても知らないわよ」

「しないよ。絶対」

「私、貴方が思ってるような人間じゃないわ、絶対」

「生憎だけど、俺は君が聖人だとは思ってないよ。俺からすれば、今も昔も君はあまり変わってない。少し捻くれてて、頭が硬くて……」

「ちょっと」

「素直になれなくて、でも心は純粋で、本当は誰よりも優しくて、誠実で。だから不器用で、そんな歪な自分を誰よりも愛してあげられない」


 大丈夫だと安心させるようにランベールが私の頭を撫でる。


「そんな不器用で優しい君だから、俺は好きになったんだ」


 彼の腕の力や髪を撫でる指先。

 その節々から大切なものに触れているような仕草を感じる。

 それが酷く心地よかった。


「殿下の事を忘れろとか、俺と同じ気持ちになって欲しいとか、そういう事を言うつもりはないよ。無理をする必要も気を遣う必要もない。……まぁ」


 耳元から聞こえていた声がほんの少し遠ざかる。

 ランベールは私の顔を覗き込むと、更に顔を近づけた。


 先程の口付けを思い出して思わず意識してしまう。

 だが両目を閉じた私を襲ったのは、コツンと固い何かが額に当たる感触だった。


 驚いて目を開ける。

 すると翡翠の瞳が悪戯っぽく細められた。


「俺は俺で努力はさせてもらうけどね?」


 一体何の、というのは愚問すぎる。

 彼のアプローチはあまりに直情的で、あまりにわかりやすかった。




 ランベールは私を軽々と横抱きにすると地上へ繋がる階段を駆け上がる。

 人一人抱えているとは思えない程に軽やかな動きを見せる彼に舌を巻いたのも束の間。

 外へ飛び出した瞬間、行先を塞ぐように十数人の騎士が立っていた。

 彼らは皆剣を構えている。


「やっぱり簡単には行かないか」

「……隊長」


 騎士の一人がランベールを呼ぶ。

 その呼び名に思わず彼の顔を二度見するが、彼は説明は何一つせず片目を閉じるだけだ。


「ごめんね。本当ならお姫様抱っこのまま逃げたかったんだけど、君を危険な目に遭わせる訳にはいかないからね」

「……っ!」


 少し待ってて、と付け足してからランベールは私の額に口付けする。

 そして不意打ちに驚いた相手の気持ちなど気にも留めずに私を地面に下ろした。


「どういうおつもりですか」


 騎士の一人が問う。


「見ての通りだ」

「いくら貴方でも、こんな事をすれば罰は免れませんよ!」


 私と接していた時とは違う、冷たく淡々とした口ぶり。

 私は彼の背中しか見る事ができなかったが、彼が冷たく固い顔つきなのだろう事はその空気感からわかる。


「直に応援も来ます。流石の貴方でもここに配置された騎士全員を相手に無事で済むはずが――」

「問題ないな。そうなる前に――片を付ければいいだけだ」


 騎士がランベールに投降を促そうとした。

 だがその瞬間。

 ランベールの姿が消える。


「ガ……ッ」


 ――かと思えば、話していた騎士が崩れ落ちた。

 彼は目にも留まらぬ速さで騎士達の背後に回り込んだのだ。


 彼の強さは圧倒的だった。

 剣を抜きながら足技だけで三人を地に伏せさせる。

 剣を抜けば相手の剣を必ず受け、時に武器を遠くへ弾き飛ばし、体術を組み込んだり、柄による打撃だけで残りの騎士たち全員の意識を奪ってしまった。


 月光を浴び、鋭く光る翡翠の瞳がゆっくりと私へ向けられる。


「さぁ、先を急ごう」


 けれどそれが私の姿を映した瞬間、彼はこれまで私に向けてきた朗らかな笑みを浮かべたのだった。


 ランベールは事前に逃走経路を考えていたのだろう。

 その後私達が騎士に遭遇する事はなかった。

 彼に抱き上げられたまま辿り着いたのは一頭の馬が待つ裏口だ。


「馬を停めておいたんだ。……白馬じゃないところには目を瞑ってくれる?」

「仕方ないわね」


 本当は今更理想の王子様像だとかはどうでも良くなっていた。

 けれど、こんな切迫した状況でくだらない心配をするランベールが少しおかしくて、軽口を返してしまう。


 彼はけらけらと笑いながら馬に跨ると私に手を差し出した。


「おいで。……今度は取ってくれよ」

「……仕方ないわね」

「またそれか」


 私は今度こそその手を取る。

 しっかりと握り返される感覚があった。


 この手は絶対に私を放しはしないのだろうと、そう確信するような力強さ。

 それは私を軽々と馬の上に引き上げた。


「少しくらい素直に頷いてくれてもいいんだけどなぁ」

「こういう私を選んだのは貴方でしょう」

「冗談だよ。どんな返しをされたって可愛いさ」

「こんな時に歯が浮くような言葉を吐くのはやめて…………待って頂戴」

「……どうしたの?」

「近づかないで。わ、私……」


 前に座る私へランベールが顔を擦り寄せる。

 そんな油断だらけの彼に私は喝を入れようとしたが、そこで漸く重大且つ深刻な問題に気が付いてしまう。


「………………お風呂、入っていないわ」


 予想外の発言だったのか、ランベールが言葉を失い、その場には沈黙が流れる。

 だがそれもほんの僅かな間。


 次の瞬間、ランベールは堪えきれない笑いを吹き出し、大きな声を上げた。

 ……そのせいで追手がやって来て、私達は馬の上で大騒ぎになりながら国から逃れる事になった。



***



「あーあ」


 地面に仰向けになりながら騎士の一人が溜息を溢す。

 つい先程まで伸びていた彼が意識を取り戻した頃。上司は大罪人と共に姿を消していた。


「何なんだあの人。強すぎだろ……」

「マジでそれな。全員軽傷のまま気絶させるって。手加減されてあの強さかよ」


 同意したのは彼の左隣でうつ伏せに伸びていた別の騎士。

 彼は小さな呻き声と共に寝返りを打ちながらしみじみと呟いた。


「てか、おったまげたよなぁ。あんな隊長、初めて見たぜ」


 彼が思い出すのは、ランベールが死刑囚セラフィーヌ・ド・クラヴリーに見せた顔や掛ける声から滲み出る甘く優しい空気。

 それは日頃の彼を知る人物からすれば、彼の印象とは対極とも言えるような姿だったのだ。


「よっぽど本気だったって事か?」

「はぁ〜……よりによってあの大悪女かぁ」


 無数に散らばる星を何となしに眺めながら騎士の一人は溜息混じりに呟いた。


「あの、『氷の騎士隊長様(・・・・・・・)』がねぇ……」



***



 さわさわと揺れる木々の気配。水の流れる音。

 暖かな風が頬を撫でる感覚。

 麗らかな天気。


 澄んだ空気を胸一杯に吸い込んでから、私はゆっくりと目を開ける。


 背丈の低い建物が点々と並ぶ地。

 側の畑では老夫婦が作物の世話をしている。

 どこからか子供達のはしゃぐ声と、嗜める女性の声が聞こえる。


 なんとも長閑で、和やかな昼の空気。

 それを全身で感じながら、私は一つの小屋の前に立っている。


 ……あれから五年の年月が経った。

 今でもふとした時に、生きる事に絶望していた頃の私を思い出す。


 苦い思い出達と、最悪な記憶。

 けれどそれを思い出しても尚、私の口が緩やかに弧を描くのは――


「セラフィ」


 声がした方を向く。

 水路沿いの道を辿って、ランベール――ランが歩いて来る。

 私に手を振り、喜びを隠そうともしない笑顔を浮かべて。


 彼が向けてくれる、素直な好意と愛情が、どうしようとなく温かくて、切なくて、嬉しい。


「……セラフィ?」


 私に近づいたランが驚いたように息を呑む。

 そして私の目尻を指先でそっと撫でた。


 溢れる雫が彼の指を静かに濡らす。


「調子でも悪い? ごめん、帰るの遅くなってしまって」

「ううん。そうじゃないの」


 触れられた手に、自分の手を重ねる。

 彼の肌の感触を感じて、私は笑みを深めた。


「ただ……幸せで」


 知らなかった。

 人は心が満たされると涙を流してしまう生き物である事を。


「ありがとう、ラン。私……生きててよかった(・・・・・・・・)


 あの時貴方が生きる為の希望を植え続けてくれたから。

 手を差し伸べてくれたから。

 諦めずに駆け付けてくれたから。

 生きてくれと言ってくれたから。


 だから私は今、こんなにも幸せに満たされている。


「……泣かせるような事はしないなんて、約束するんじゃなかったな」

「私、あの日からすごく涙脆くなった気がする」

「嘘つきでも嫌いにならないでよ」

「まさか」


 変な心配をする彼が面白くて、くすくすと笑ってしまう。

 すると、困ったように頬を掻いていたランがふと、挑発的な面持ちになった。


「……ティアラはまだ欲しい?」


 初め、その問いの意図がよく分からず瞬きを繰り返す。

 だが少々考えを巡らせてから私は過去の自分の発言を思い出した。


 ――『ティアラが似合うのは別の女性の方だった』。


 婚約者への恋心を燻らせていた私が溢した言葉。

 おとぎ話のお姫様に憧れた私が溢した言葉。


 そんな、何気ない言葉まで覚えているのかともはや呆れながら、私は小さく吹き出した。


「いいえ?」


 私はランの腕を引き寄せ、彼の胸の中へ体を埋める。

 彼の体を抱き締め、大切な人の存在を噛み締める。




 かつての私は、お姫様になりたかった。


 誰かから愛されたかった。

 認められたかった。

 ……幸せになりたかった。


 ――けれど、もうそんなものを追いかける必要はない。


 だって、私は……


「――貴方がいてくれるだけで世界一幸せだわ」

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