異端の英雄、波乱の船上 02
長い間、物語の世界に想いを馳せ、心の中で紡いできた物語たち。 今回、その想いを形にし、勇気を出して一歩を踏み出しました。 未熟ながらも、この物語が誰かの心に響き、共感の灯をともすことができれば、 それ以上の喜びはありません。 どうぞ、お読みいただければ幸いです。
若者のリーダー格の男の黒いサンダルが、屋根の上で眠る四季崎を容赦なく蹴り落とした。その衝撃で四季崎は屋根の端から甲板へと転げ落ち、背中から甲板に叩きつけられる。後頭部が「ゴトン」と鈍い音を立てて床に響いた。
「……っ!」
視界が一瞬白くかすみ、四季崎は無意識に歯を食いしばり、屋根の上から見下ろす集治の嘲る顔が、乱れた黒髪の隙間からぼんやりと映る。
それでも表情は崩さず、冷静に周囲を見渡す。昼下がりの陽射しが甲板に反射し、潮風が痛みを和らげるように頬を撫でていく。
「おい、貴様! この風運集治様の前で居眠りとは、いい度胸だな!」
風運は顎をしゃくり上げ、シャツの裾を勢いよく翻すと、屋根の上から飛び降りた。仲間たちが「ははっ!」と揃って嘲笑い、甲板に下品な笑い声がこだまする。船上の穏やかな空気は一転し、若者たちの悪意と高揚が潮風とともに甲板に渦巻いた。
四季崎はゆっくりと瞼を開け、後頭部を押さえた手のひらで髪を梳く。擦り切れたシャツの襟を整え、白いコートの皺を伸ばす。動作は洗練されており、まるで教育者の佇まいのようだった。
(……彼は風運家の御曹司か……騒ぎは避けれそうにないか……)
内心で呆れつつも、表情は穏やかさを崩さない。視線を真っ直ぐ風運に向けると、深緑の瞳が微かに光る。
「失礼だが、私は船長の許可を得て休憩中だ。用件があるなら簡潔に願おうか?」
片眉を軽く上げ、教師が生徒を諭すような口調で返す。
思いがけず冷静で余裕のある返答に、若者たちは一瞬言葉を失った。誰かが小さく「えっ……?」と呟き、潮風にその声がかき消される。
ざわつく空気の中、互いに顔を見合わせる者、目をそらしてそわそわしている者もいる。
「なんだよ、こいつ……全然ビビってねぇじゃん」
「調子狂うなぁ……」
小声で囁き合う声が次第に増え、先ほどまでの余裕や嘲りが、じわじわと焦りと戸惑いに変わっていく。
四季崎の落ち着き払った態度は、かえって若者たちの心をざわつかせ、彼らを居心地悪くさせていた。
(これで休憩に戻れるだろうか……あとどれほど時間が残っていたか?)
若者たちの間に戸惑いと気まずさが広がり、誰からともなく一歩、二歩と後ずさる気配が漂う。先ほどまでの威勢の良さはすっかり影を潜め、視線を泳がせたり、互いに小声で囁き合う者もいた。
しかし、その空気を断ち切るように、リーダー格の若者――風運 集治だけは引き下がらなかった。プライドを大きく傷つけられたと感じたのか、顔を真っ赤にして一歩前へ詰め寄り、声を荒げる。
「黙れ!俺はこの船の関係者だ!」
四季崎はわずかに眉をひそめるが、すぐに冷静な面持ちに戻る。相手の態度や言葉を吟味しながら、どう対処すべきか一瞬だけ思案する。
「すまないが、君のような若い船員がこの船に乗っていた覚えはないのだが……?」
風運は顔を赤らめ、声を荒げた。
「おい、俺を庶民と一緒にするな!この『成人の儀』の巡航に、風運家がどれほどの資金を投じていると思っている!」
拳を強く握りしめて苛立ちを隠せない風運に対し、四季崎は落ち着き払ったまま相手を見つめる。目を細め、どう言葉を選べばこの商会の息子が自分の立場を理解するか、冷静に思考を巡らせる。その間、視線は静かに宙をさまよっていた。
(そういえば、今回の『成人の儀』巡航には風運商会をはじめ、いくつもの大口の寄付があったはずだ――)
「……風運商会、だったな?」
「そうだ!やっと分かったか、このクソ船員が!」
風運は自分が認められたと勘違いし、胸を張ってさらに尊大な態度を見せたが、四季崎は、一拍置いてわずかに皮肉を滲ませて問いかけた。
「君が風運商会の御曹司で間違いないのだな?」
「だから、さっきから何度も言ってるだろうが!」
やりとりの中で全ての状況を整理し終えた四季崎は、内心で小さく頷く。これで風運を言いくるめる理屈は揃った――そう確信し、静かに、だが揺るぎない声で語り始めた。
「まず、論理的に考えれば君自身は『関係者』とは呼べない。仮に君の主張を認めたとしても、巡航に資金を出したのは風運商会であって、君個人ではない。」
「てめぇ!ふざけんじゃねぇぞ!何が違うってんだ!言ってみろや!」
風運が怒りに任せて詰め寄るが、四季崎は動じることなく、頭の中で必要な情報を整理しながら続けた。
「第一に、今回の巡航への寄付金は君が稼いだものではない。あくまで商会の共同財産だ。第二に、寄付の手続きや契約は君の両親、つまり商会の大人たちが行っている。君はその過程に直接関わっていない」
四季崎は一つ一つ指を折りながら、まるで講義のように淡々と語る。
四季崎は一呼吸置き、最後にこう締めくくった。
「以上を踏まえると、君の主張は感情的な思い込みに過ぎない。事実を冷静に見つめ直すことを勧める」
四季崎の冷静な指摘に、風運の拳が「ギシリ」と軋んだ。頬を紅潮させ、唇を噛みしめる様子は、幼子が意地を張るような無様さだった。
残った仲間たちは互いの袖を引っ張り合い、「や、やべぇ……」「こ、こいつマジでやべえ……」と震える声で囁きながら、蜘蛛の子を散らすように屋根から去り始めた。サンダルが甲板を擦る音が不規則に響き、潮風が彼らの逃げ去る足音を飲み込んでいく。
風運は一人取り残され、握り締めた拳から指の関節が白く変色していた。頬の紅潮が耳まで広がり、瞼が痙攣するようにぴくぴくと震える。
「てめぇ……!」
声帯が裂けそうな怒声が、帆柱にぶつかって反響する。
「テメェ!俺を侮辱するのも大概にしろ!この俺を、風運家の次期当主だぞ!何様のつもりだ!俺の言うことにいちいちケチをつけやがって……ふざけんじゃねぇ!絶対に許さねぇ!ぶっ殺してやる!!」
唾が飛び散るほど咆哮しながら、金髪が汗で額に貼り付く様は、もはや貴公子の面影など微塵もなかった。
四季崎は微かにため息を漏らし、コートの襟を整える。
(……まさかここまで怒り出すとは。休息が欲しかっただけなのに)
「ふっ」
思わず苦笑が漏れ、自分でも戸惑うように目を細めた。
「……別に怒らせるつもりはなかったのだが……また、やってしまったか」
その呟きには、教師が思いがけず問題児の逆鱗に触れてしまった時のような、困惑と諦め、そしてどこか自嘲めいた響きが混じっていた。
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