10.女神を信奉する者たち
蟻たちはさぞ驚いたことだろう。自分たちに歯向かってくる花の妖精がいるなんて。
暴れ回るわたしの姿を恐れ、道を開けてしまう蟻も珍しくなかった。
しかし、当然ながらわたしの行く手を阻もうとしてくる戦士はいる。そんな彼女らの攻撃をなるべく避けながら、わたしは迷の運ばれている駕籠を目指してひたすら進んでいった。
気づけば体中傷だらけだった。わたしの足を止めようとする蟻たちの攻撃が、青白い肌を傷つけ、千夜の作った白い衣服を血に染めていく。
それでも、不思議と痛みは感じなかった。必死だったのだろう。迷を取り返したくて。
このままわたしが諦めてしまえば、迷は二度と戻らない。女神に騙された事も知らず、恐ろしい目に遭ってしまう。
そう考えると、怯んでなんかいられなかったのだ。
そしてようやくわたしは駕籠まで追いついた。
体の傷がどうなっているのかなんて気にもならない。とにかくわたしの頭にあったことは、駕籠の担ぎ手の歩みを止める事だった。
「そのまま逃げろ!」
何処からか蟻の怒声が聞こえてくる。けれど、間に合わない。彗から受け継いだわたしの刃は、すでに担ぎ手の一人の体を突き刺していた。
途端に悲鳴があがり、駕籠のバランスが大きく崩れる。そして放り出されるように出てきたのは、迷だった。
周囲の出来事についていけず混乱している様子の彼女を目にするなり、わたしはたまらなくなってその胸に飛び込んでいった。
「銀……花……? ど、どうして?」
「迷、ああ、迷! すぐにわたしと来てください」
「で、でも」
「いいから早く!」
戸惑う迷をどうにか立たせ、その手を引いて逃げ出そうとするも、すでに逃げ場は封じられていた。
周囲にいるのはわたしの襲撃に怯まず、闘志をむき出しにしている者ばかり。
鋭いその眼差しに、ほんの少しだけ自分が花の身であることを思い出してしまった。
でも、駄目だ。今だけは忘れて立ち向かわないと。
身構えるわたしの前へ、蟻たちの隊長なのだろう、一人の戦士が立ちはだかった。彼女はわたしを見つめ、非常に落ち着いた声で言った。
「仲間を傷つけた事は許せんが、今なら容赦してやってもいい。その蝶を置いて、とっととこの場から去れ」
その要求に応じられるはずもない。
だが、戦おうとするわたしを、迷は背後から庇うように抱きしめてきた。
「お願い、銀花。このひとたちの言う事を聞いて」
「駄目です。駄目なんです!」
わたしは必死になって迷に訴えた。
「迷、どうか落ち着いて聞いてください。女神は城主様の味方なんかじゃなかった。わたし達を騙していたんです。迷を生贄に捧げて、城主様を拘束するつもりだった。夕闇を倒すという名目で、あの城を乗っ取ろうとしていたんです」
「……何ですって?」
迷の手に力が籠る。俄かには信じて貰えないだろう。
けれど、次なる説得を考えていると、彼女はわたしをぎゅっと抱きしめてきた。
「迷?」
問いかけるわたしには応じず、迷はじっと蟻たちを睨んでいた。
「この子の言う事は本当なの?」
その問いに、蟻の隊長は澄まし顔で答えた。
「全ては楽園のためだ」
剣を構え、彼女は言った。
「かの夕闇という魔女は、只者ではない。女神様はそれを分かっていらっしゃるから、常に最善の手段を考えていらっしゃる。西の地の女王蟻を救う事はもはや絶望的だ。その上、蜘蛛の魔女まで再び奴の手に落ちれば、今度こそ楽園は存続の危機を迎えるだろう。よいか、蜘蛛の魔女の愛玩奴隷ども。我らが女神様はお前たちの主人を護ろうとしているのだよ。多少、その自由は奪う事になるだろうが、これもまた仕方のない事。だから、主人を助けたければ従うのだ」
迷いのない言葉に、わたしは絶句してしまった。
周囲の蟻たちも同じ。女神を信じて疑わないのだろう。そんな彼女らの様子を見て、迷は身震いした。
「……そう、あなた達のことが、よく分かったわ」
そして、迷は背中の翅を大きく広げたのだった。
「逃がすな!」
慌てたように号令が下るも、もう遅かった。気づけばわたしは空を飛んでいた。迷に抱き着きながら、わたしはどんどん小さくなっていく蟻たちを見た。
地上で慌てふためき、どうにか迷を落とせないかと石を投げる者もいる。弓を持っている者が、攻撃をしようとするも、当たらなかった。
そのまま蟻たちの包囲をふわりと飛び越すと、共に着地し、わたし達はその場から逃げ出した。どちらが城の方角かなんて考える余裕すらなかった。
とにかく、とにかく遠くへ。蟻たちの追跡を振り切り、隠れられる場所へ。振り返りもせずに、会話もせずに、わたし達は森の奥深くへと逃れていった。
しばらく逃げ続け、ようやく見つけた朽ち木の洞の中へと飛び込み、わたし達は抱きしめ合った。
息を殺して、周囲を窺い、そうして安全だと分かってからは、身を重ね合いながら息を整えることに集中した。
そのまま沈黙が流れてしばらく、先に口を開いたのは、迷だった。
「ありがとう、銀花」
わたしの頬にそっと手を当て、迷は不安そうな表情のままそう言った。
「あなたがいなかったら、アタシは今頃……」
その顔を見て、わたしはようやく肩の力を抜くことが出来た。
迷を取り戻せた。奪われずに済んだ。
その喜びがわたしに涙を流させる。縋りつきながらすすり泣くわたしを、迷は困惑した様子で慰めてくれた。その温もりを感じるたびに、安堵の涙はさらに溢れてきた。




