4.大切な花
迷が卵を産んだのは、それからまた何度か昼と夜が入れ替わった後の事だった。夜間のうちに、千夜に付き添われながら、美しい朝露のような卵を産み落としたのだという。
卵がどうなったのかは知らない。ただ、その話を真っ先に教えてくれた世話係の蜘蛛の女性によれば、命宿らぬ卵に何も未練などないと、他ならぬ迷の希望で千夜にそのまま捧げられたらしい。
たとえ何も孵らなくとも、蝶の妖精の卵は栄養があるらしい。千夜がそれを食したのかどうかは分からないが、手下蜘蛛の中には生みたての卵を羨ましがる者もいるのだとか。
ともあれ、これで肩の荷も下りただろう。さっそく呼ばれて迷に会いに行ってみれば、元気こそないけれど、その表情はかなり穏やかだった。
ちなみに、迷と引き合わされたのは、いつもの部屋ではなかった。しばらくは体を休めて欲しいという千夜の願いで、移動を控えているらしい。その為、わたしが向かったのは、千夜の寝室だった。
──ここが……ふたりの部屋。
糸のベッドにて、迷の隣に座らされ、わたしはしばらく放心していた。一刻も早く、迷に美味しい蜜を渡さなければと思うのだが、様々な感情がこみ上げてきてしまったのだ。
ここで毎晩のように、迷は千夜に愛されている。その事を思い、想像すると、何故だかそわそわしてしまう。
──そのベッドで、今からわたしは。
「……銀花」
名を呼ばれ、わたしは我に返った。
「迷……すみません、ぼーっとしてしまって」
「いいの。でも、具合が悪いのではない? もしそうなら、遠慮なく言って」
「いえ、違うんです。ただ……初めて城主様のお部屋に入らさせていただいたので、ちょっと緊張してしまって」
それは決して嘘ではない。まだ作りかけだとは思うのだが、いつもの部屋とは全然違う。千夜が体を休めるのだと思うと、傷一つ付けてはいけないという使命感も生まれる。
でも、本当はそれだけじゃないのだ。千夜と迷。二人の仲に割って入れないと分かっているはずなのに。弁えているはずなのに。いつも以上に、わたしは惨めな気持ちになってしまいそうだった。
いいや、これではいけない。わたしは気持ちをどうにか切り替えた。
そもそも、わたしにはわたしの役目がある。わたしは千夜から迷に送られた花なのだ。迷に抱かれて、愛でられることがわたしの役目。それは、わたしにしか出来ない事。
自分に言い聞かせてみれば、少しは気持ちが晴れてきた。そんなわたしの表情の変化を察したのだろうか。迷は少しホッとした様子で、わたしに囁いてきた。
「じゃあ、いつものように蜜を貰っても平気?」
「──平気ですよ」
答えると、すぐさま迷は口を付けてきた。きっと、喉が渇いていたのだろう。迷はいつもよりもさらに、縋りつくように、蜜を飲みはじめた。その荒々しい感覚に身を委ねて、しばらくじっとしていると、迷はふと我に返り、口を離した。
「はしたないわね、一心不乱に口をつけるなんて」
「いいんです。それだけの大仕事だったのでしょうし」
「──でも、よくない事だわ。アタシね、この一瞬だけ、あなたの様子を見ずに蜜の味に浸ってしまっていた。ゾッとしてしまうわね。下手したらあなたを枯らしてしまう行為なのに」
そして、迷はわたしから身を離すと、背を向けて寝転んでしまった。
迎えはまだ来ない。暫くの間はここで待っているように言われたが、まだまだかかるのだろう。ちょうど今頃、寝室の壁の向こうで、千夜は東から送られてきた使者と面会しているはずだった。その面会が終わらない限り、この場所からは出る事は出来ない。
最近はまた話し合いが進んでいるらしい。積極的に夕闇に対抗するための策を相談しているのだとか。
「無事に卵を生めて、本当によかった」
ふと、迷が言った。
「命宿さぬ卵のせいで、迷惑も心配もかけてしまったことは気がかりだけど、それでも、色々と事が動く前に済ませられてよかった」
「心配はともかく、迷惑だなんて城主様はきっと思っていませんよ」
「そうかもしれないわね。でも、だとしても、これ以上、遅れていたらって思うとひやひやしてしまうわ。だって、もうじき、このお城は賑やかになる予定だから」
「──東から蜻蛉たちが来るという話ですね?」
それは、つい最近、決まったばかりの事だった。東の女神が、この城に蜻蛉の使者を複数派遣するという。その長たる蜻蛉の男性の名もすでに聞いている。朝焼という名で、女神の忠実な僕であるらしい。彼が女神の指示に従い、数名の部下を引き連れてやってくるその理由は、勿論、西の地にある。
「今も眠り続ける夕闇を、可能ならば今のうちに……果たして、そんな事が本当に出来るのでしょうか」
「分からないわ。でも、試してみるという事なのでしょう」
「きな臭くなってきましたね。いざとなったら、ここを拠点に、西の地の残党兵とも戦うおつもりなのでしょうか」
「そうだと思うわ。彗も最近はそのつもりで準備しているようだから」
「……彗も、ですか」
最近、彼女の顔もあまり見ていない。噂によれば、千夜の目の届かぬ場所を中心に探り、情報を集めているらしいのだが、それが本当なのかどうか、わたしには分からないままだ。
いずれにせよ、彗はわたし達とはだいぶ違う役目を担っている。彗には武器が与えられている。けれど、わたし達は違う。千夜を救ったのはわたし達でもあるはずなのに、その千夜が、わたしに戦わせたがらないのだ。それが、わたしは少し怖かった。
「いざとなったら、わたしもまた戦えたらいいのですけれど……」
「銀花……」
と、ふと、迷に名を呼ばれた。振り返ると迷は起き上がり、わたしをぎゅっと抱きしめてきた。柔らかなその感触に包まれ、安心感が芽生える。蜜を吸うわけでもないその抱擁には、ただ純粋な安らぎのみがあった。
そんな感覚に絆されていると、迷はわたしに囁いてきた。
「あなたはもう、戦わなくていいのよ」
「……でも、わたし」
「お願い。もう戦わないで」
懇願するような迷の声に、わたしは困惑してしまった。
「迷?」
「あなたはアタシの花。城主様から贈られた大切な花。だから、危ない事はもうしないで欲しいの。安全な場所で、どうか静かに咲いていて。恐ろしい魔女の事は、同じ魔女たちに任せておきましょう。前は上手くいったけれど、次も上手くいくとは限らない。だから、ね?」
言い聞かせるような迷の言葉に、わたしは何も言えなくなってしまった。本心からの、願いなのだろう。彼女の表情からは、その気持ちが読み取れた。
「迷が……そうおっしゃるのなら……」
わたしは静かにそう答えた。
他ならぬ迷の頼みならば、そうしなければ。そんな思いは確かにある。
だが、どうしてだろう。わたしの言葉を聞いても、迷はちっとも安堵してくれなかった。そして、わたしもまた、心の中にわだかまりを抱えたままだった。




