2.東の楽園からの返事
東からの返事が来たのは、それからまた少し経った後の事だった。
返事を持ってきたのは、迷と同じ蝶の妖精だったらしい。普通ならば、数多の蜘蛛たちの暮らすこの城を怖がるところだが、彼女は始終堂々とした態度だったという。それもこれも、東を護る女神の加護があるからなのだろう。
女神の使者である証は、彼女の身に着けている衣装にあるという。白いその衣服は、楽園仕立てであるらしい。女神から譲られたという白い花の簪も、彼女の身分を証明するものの一つであるのだとか。
手下蜘蛛たちによれば、その意味を知らない肉食妖精はいないのだという。手を出せば東の女神を敵に回すことになる。それは、とんでもない事だと幼い頃に何処かで教わるものなのだと。
「……それにしたって、その蝶、城主様を前にかなり堂々とした態度だったそうですね。迷はご覧になりました?」
「いいえ。その時はちょうど、もしかしたら卵が産まれるかもってところだったの。だから、城主様のお部屋で休ませて貰っていたの」
表情を曇らす彼女を前に、わたしもまた肩を落としてしまった。
迷の卵はまだ産まれていない。出来ていないという事はないと思うのだけれど、なかなか生まれないのだ。もしかしたら、異性との関係を断っているのが原因ではないかと噂する者もいる。
それでも、迷は聞かなかった事にしているらしい。その体を許すのは、千夜だけだからなのだろう。勿論、私でもない。千夜だけだ。
「でしたら、早く栄養を付けないといけませんね」
わたしがそう言うと、迷は静かに頷いた。
そのまま、冷たい床に横たわり、わたしは少しだけ寂しい気分に浸っていた。こうして、わたしが迷の為に服を脱ぐことは当たり前になっていても、迷の方がわたしのために服を脱ぐことは決してない。当たり前ではある。これは食事なのだから。
蜜食妖精相手に本気になるなというのが、蜜花たちの間で囁かれる教訓でもある。彼らは花の妖精たちの恋心を利用して食事をする。けれど、そのように興奮するのはわたしたちの方だけであって、そんなわたしたちの姿を目にしても、彼らの方は食欲しか掻き立てられないというのだから。
それに、仮にわたしたちの立場が対等であったとしても、千夜には敵わないだろう。そう思うと悔しいという気分すら覚えられなかった。
仰向けになってじっとしていると、迷はわたしの体に覆い被さり、そしてそっと訊ねてきた。
「ねえ、銀花、蜘蛛たちは他にどんな話をしていた?」
「え、えっと、確か──」
と言いかけたところで、言葉が裏返った。食事も始まったのだ。それなのに、迷は返答を待っている。気づいていないのか、揶揄っているのか、いずれにせよ、わたしは半ば混乱しながら必死に頭を働かせた。
「確か……確か……すごく綺麗な蝶だったって……」
何故か上機嫌な様子でそう言ったのは、いつもわたしのお世話をしてくれる蜘蛛の女性であった。彼女によれば、上品かつ豪華なその姿は、食べる気にもならないとのこと。
恐らく、女神の趣味なのだろう。迷やこの付近で時折この城の罠に捕まり、わたしたちの知らない間に食されている蝶たちとも違ったらしい。
「綺麗、ね」
迷は静かに呟くと、何故だか少し乱暴に蜜を吸い取った。嫉妬しているのだろうか。だとしても、その乱暴さすら、今のわたしには快感になってしまった。
その後、迷は二、三回、質問を投げかけてきたものの、わたしの方はろくに返答も出来ずじまいだった。心身が蜜を与える事に集中してしまっていたのだ。そんなわたしの有様を前に、迷も諦めた様子で食事を続けた。
やがて、食事が終わると、改めて迷はわたしに訊ねてきた。
「それで……他には何も言っていなかった?」
お腹を満たしてけろっとしている彼女を前に、私は息を整えながら答えた。
「確か……とても快い返事だったそうですね。南の魔女の事があったから皆、心配されていたみたいですが、女神様としてもここを一緒に守れるのならばそうしたいのだと」
「そう、それは良かった」
そう言って、ようやくホッとした表情を浮かべた迷に、わたしは思わず見惚れてしまった。綺麗な蝶というのは、迷だって同じはず。そんな事を蜘蛛の女性にちらりと零してみれば、綺麗さの種類が違うのだと言われてしまった。
「東におわすのは絢爛の魔女」という言葉の通り、その使いである蝶もまた絢爛だったという。確かに、迷は綺麗だけれど、絢爛という類ではない。妖艶だけれど、もっと繊細な印象がある。わたしが想像しているよりも、もっと派手だったのだろう。
「楽園って賑やかなところらしいですね」
ぽつりとわたしが言うと、迷は軽く首を傾げた。
「知らないの? あなたの故郷からそんなに離れていない場所のはずだけれど」
「そのはずなんですけれど、楽園の方へは行った事がないんです。故郷を去る時も反対側へ歩いていきましたから」
「そっか。花の妖精だものね。でも、女神の神殿の方からも蜜を吸いに色々来たでしょう?」
「そうだったかもしれませんが、まだ子供みたいなものでしたから」
今だったら、もっと色々なことを聞き出せただろうに。悔やんでも仕方ないことだが、悔やまずにはいられなかった。
「そっか。それなら、知識の量はアタシとさほど変わらないわね。アタシも楽園や女神の神殿のことは、あまり詳しくないから」
「迷はここへ来る前、何処で育ったんでしたっけ?」
「このお城の近くよ。あなたの故郷とお城の間くらいかしら。でもね、あまり正確に覚えていないの。蛹になって眠っていた期間もあるし、青虫時代は、とにかく美味しい葉っぱの事しか頭になかったから」
そう言って、迷は悪戯っぽく笑った。そして、続けた。
「でも、聞いたことはあるの。東の楽園はその名の通り、多くの花や蝶が安全に暮らせる理想の地なんだって。同じ故郷で生まれた子の中には、羽化したらそちらを目指してみると言っていた子もいたわ。もしかしたら、今はそっちに暮らしているのかも」
「そんなにいい場所なんですか」
「ええ、多分ね。お使いの蝶も堂々としていたのでしょう。そんな事ってあまりないわ。皆、いつ誰に食べられるかビクビクしているものなのに」
確かに、そうだ。そう思うと、やっぱり東の楽園はいい場所なのかもしれない。けれど、あまり憧れはしなかった。故郷を去る際に、何となく東ではなく北へと足を運んだのが運命の分かれ道だ。そして辿り着いたのがこの場所。千夜がいて、迷がいる。この場所こそが、私にとっての楽園なのだろう。だから、憧れもしないのだろう。
けれど、私は期待していた。女神と尊ばれる魔女の力が、千夜の助けになる事を。
「何にせよ、これで城主様の肩の荷も少しはおりますね」
「そうね……あとは」
と、迷は自分の腹部をそっと撫でた。
「この卵が早いところ生まれてくれるといいのだけれど」
そう言って、彼女は再び表情を曇らせた。




