1.卵を産むために
──北の地におわすのは孤高の魔女。
そんな言葉を耳にした頃が、今や懐かしい。
ふと思い出してみても、かつてわたしが抱いていた蜘蛛の魔女のイメージと、現在わたしが抱いている千夜のイメージはだいぶ違う。
勿論、敬意は変わらない。千夜というその名を気安く口にすることは今もない。彼女はわたし達の主人であるのだから当然だ。それでも、かつてのように、凍てつく冬を思わせる眼差しを感じなくなったのは、気のせいではないだろう。
西の地に攫われた蜘蛛の魔女を奪還して、だいぶ月日が経った。あの時以降、千夜の表情はだいぶ柔らかなものになったような気がする。失ったものは多い。手下蜘蛛の多くはいまだに戻ってきていないし、糸の城はかつての規模の半分以下となってしまっている。それでも、千夜の表情に暗さはない。むしろ、以前よりも明るくなったとさえ思えた。
一波乱あったことで、迷との絆が深まったせいもあるかもしれない。あの日以来、迷の存在は千夜にとってさらに大きなものとなっているようだ。毎晩のように枕を共にしていたのは同じだが、あの頃以上に二人は愛し合っているらしい。この目で見たわけではない。けれど、わたしには分かってしまう。朝と晩、必ず迷の食事に付き合うからこそ分かるのだ。
「……迷、なんだか今日は……いつにも増して食欲旺盛ですね」
「つらい?」
「い、いえ、ただ──あっ」
迷のために健康を維持し、たまった蜜を捧げる事。これこそが、わたしの本来の役目ではある。迷に求められることは嬉しかったし、それを隠すことなんて出来るはずがない。ちょっと触れるだけで溢れてしまう蜜がその証拠だ。この味に、迷が心から満足していることが伝わると、それだけで光栄な気持ちになってしまう。
けれど、同時に感じるのが寂しさでもあった。同じことを、いや、ひょっとしたらこれ以上の事を、迷は千夜と毎晩しているのだと分かってしまうからだ。特にこの時期は尚更の事。今の時期、迷の体はいつもよりも熱い抱擁を求めてしまうらしい。
「卵を産むには、たくさん栄養が必要なの。もうちょっと辛抱して」
迷はそう言うと、容赦なく半裸のわたしに圧し掛かってきた。それもこれも迷の為であるならば仕方がない。
彼女の言う通り、もうじき迷は卵を産むことになる。といっても、命が宿っているわけではない。心とは無関係に、蜜食妖精たちの体が異性を求めてしまう、この時期。恋の訪れや、春の目覚めと呼ばれるその季節が来るからこそ、千夜はいつも以上に迷との関係を深めているらしい。
それは、異性との接触を絶たせている事への責任でもあるのかもしれない。ともかく千夜は、卵を作ろうとする迷の体を毎晩欠かさず解してやって、その負担を軽くしようとしているそうだ。
命を宿していようとなかろうと、卵を産むには体力がいる。つまり、わたしの役目もそれだけ重要だった。
「も……勿論……迷が……望むのでしたら」
迷にとってわたしは必要な存在である。それは間違いない。ただし、それは食べ物として、だ。この行為は飽く迄も食事。わたしにとって、幾ら迷との関係がそうでなかったとしても、迷にとっては美味しい蜜をいただくためのやり取りでしかない。
一度、そう考えてしまうと、なかなか虚しくなってしまう。──しまうのだが。
「気持ちよかった、銀花?」
迷にうっとりと囁かれ、わたしは我に返った。どうやら、すっかりその虜となってしまっていたらしい。そう、結局、わたしも年頃の花なのだ。花というものは悲しいものだ。迷の指一つであっさりと支配され、不満も寂しさも快楽によって吹っ飛ばされてしまうのだから。
「め、迷はどうでしたか……美味しかったですか?」
恥じらいを隠しながら尋ねると、迷はにっこりと笑った。
「美味しかったわ。とってもね」
そして、わたしの体からあっさり離れていった。どうやら今朝の食事はこれで終わりらしい。そのことに若干の名残惜しさを覚えていることに、わたしは気づいた。この季節。どうやら、貪欲になっているのは、わたしも同じらしい。
そそくさと着衣の乱れを直していると、迷はそんなわたしを見つめながら言った。
「これでそろそろ生まれてくれるといいのだけれど。城主様にもあまりご迷惑をおかけするわけにはいかないもの」
その言葉に、わたしはふと迷の顔を見つめた。なかなか生まれないという話は聞いていたが、どうやら自責の念にかられているらしい。
「城主様はきっと気にしていませんよ。こういうのは、焦っても仕方ありませんもの」
「……そうね。でも、なるべく早いうちに……って思ってしまうの。ただでさえ、城主様はお忙しいもの。それに、平穏な今なら、安心して生めるから」
確かに、迷が焦ってしまうのも、無理はないのかもしれない。
千夜が忙しそうなのは、ここへ拾われて以来ずっとではあったけれど、ここしばらくは働きっぱなしだ。城をここまで築いたのだって、大変な労力だっただろう。
だが、それだけではない。彼女はずっと西の地を探り続けていた。戻ってきた手下蜘蛛の何名かを西へ送り、食虫花──夕闇の様子を監視し続けているという。
幸いにも、あれから夕闇たちに動きはない。戦いの傷を癒しているのだろうか。夕闇のいた場所は花が閉じたままで、彼女を守る残党兵たちが周囲を警護しているという。
蝙蝠もまた同じく姿を見せない。死んだとは聞かないが、同じく傷を癒しているのだろう。ならば、その隙にと、千夜はこの場所の守護を強化し続けている。
そして、さらにどうするべきか考え続けているという。
「他の魔女たちと連絡を取り合っているそうですね」
わたしの言葉に迷は頷いた。
それを教えてくれたのは、手下蜘蛛の女性だった。一度この場から離れ、千夜の生還を聞いてすぐに戻ってきた、わたしの世話係でもある。
噂好きの彼女は、毎日何処からか情報を仕入れてくる。そのおかげで、千夜と直接会えない日が続いていたとしても、何が起こっているのか知る事が出来た。
「他のお方たちは、城主様に協力してくださるのでしょうか」
「分からないわ。ただ、南の樹皮の国の女王様のお返事は芳しくなかったそうよ。どうやら、かのお方の目的は飽く迄も愛する存在の命を護る事だけなのですって。だから、南に攻めてこないならば関係ないのですって」
「……そうですか」
とても残念な話だが、そういうものなのだろう。
「では、東はどうだったのですか?」
「さあね。その返事を今は待っているところなのですって」
迷は答えると、しばし沈黙した。わたしもまた思考に耽った。
東の地は花と虫の楽園がある。そこを支配する魔女は花蟷螂様といい、女神とまで言われ、崇められている。強大な力が東の地に暮らす大勢の妖精たちを護っているからだ。そんな東の魔女と協力することさえ出来れば──と、考えている時の事だった。
「……ねえ、銀花」
「どうしました、迷?」
問い返した直後、迷は突然、わたしの体に抱き着いてきた。着なおしたばかりの衣服が乱れ、それだけでなく、あっという間にその気にさせられてしまった。引いたはずの熱がぶり返し、戸惑うわたしに彼女は言った。
「ごめん、あともう少しだけ、お願い」
甘く懇願され、断れるはずがなかった。
「……少しだけ……ですよ」
言い終わらないうちに、押し倒され、食事の続きは始まった。




