12.奇妙な香り
彗の案内のもと、わたし達は仄暗い西の地をそっと歩み続けた。
闇雲にさまようよりも、ずっと安全だったのは間違いない。彗のお陰でわたし達は残党兵たちとの無意味な戦闘を避ける事が出来た。食虫花の魔女が潜んでいるという根城の場所も、きっと正確に把握しているのだろう。彗に従って進めば進むほど、甘ったるい香りはどんどん強くなっていった。それを肌で実感するのが、朝夕のひと時のこと。彗に席を外して貰い、迷の食事に付き合う僅かな時間のことだった。
「なんだか怖い」
身をゆだねるわたしをぎこちなく抱きながら、迷はそう言った。
「迷、何が怖いのです?」
不審に思ってそう訊ねると、迷は何故だかわたしから目を逸らし、何処か空を見つめだした。
こんな事はあまりなかった。あるとすれば、食欲がない時くらいだろうか。その時だって、こんな反応はなかった。
じっと見つめていると、迷も居たたまれなくなったのだろう。白状するように、彼女は目を逸らしたまま答えた。
「蜜を吸うのが怖いの」
それは、わたしの顔色を窺うような口調だった。
迷が怖がっている。それも、これまでにない事で。疑問に思いながら身を寄せようとするも、迷は怯えるように体を離してしまった。
「今夜は抜きにしようかしら」
「だ、駄目ですよ、迷。朝だってそんなに口にしていなかったじゃないですか。栄養をとらないと、戦えませんよ」
必死になってしまった理由の半分くらいは、すっかりその気になってしまっていたからだとも言える。
表情では誤魔化していても、肌の下では迷に抱かれたくて仕方なかった。
迷に捧げるために溜まった蜜が全身を疼かせているのだ。だけど、勿論、それだけではない。迷の事が心配だった。やつれているように見えてしまって。
「どうしても、食欲がないのですか? それとも、わたしの蜜では不満?」
訴えるように訊ねると、迷は慌てたようにわたしを見つめてきた。
「そんな事ない。……寧ろ、その逆なの」
そして、迷は周囲を見渡した。
「ねえ、銀花は感じる? 彗に従って進めば進むほど、周囲の甘い香りが濃くなっていく。この香りで多くの蜜食妖精が狂ってしまうのだと言っていたわね。アタシもそうなってしまうんじゃないかって怖くなる」
「……迷」
わたしにはその気持ちが分からない。蜜食妖精ではないから。ただただ心配することしかできなかった。そんなわたしに対して、迷は軽く笑ってみせた。
「大丈夫。ただの不安よ。もしくは、怯えてしまっているのかもしれないわね。食虫花の魔女ってやつは、アタシみたいな蝶も食べるのでしょうから」
そして、今度こそ迷は表情を変えた。見つめるわたしを見つめ返すと、覚悟を決めたように再び近寄ってきた。
「ごめんなさい。やっぱりいただくわ。この香りの持ち主に抗えるだけの力をたくわえておかないと」
黙って頷くと、迷はそのまま唇を重ねてきた。
心身の期待が満たされ、一気に理性が飛んでしまう。迷にしがみつきながら、わたしは密やかに花の妖精に生まれた喜びを噛みしめたのだった。
さて、このようなことがあった翌日以降も、彗の案内は続いた。
身を潜め、警戒しながら進んでいるからだろう。香りこそ強まれども、なかなか根城までは辿り着かなかった。
とはいえ、微塵も距離が縮まっていないなんてことはない。とうとう、その根城の姿を拝むことが出来る日はやってきた。
「わぁ……」
彗に案内され、草葉の陰からその姿を見上げた瞬間、わたしは思わず感嘆の声を漏らしてしまった。
それは物言わぬ植物が絡み合って築かれた見事な城だった。彗の話によれば、玉座たる場所は遥か上部にあり、そこに座る魔女の足元には美しくも恐ろしい魔性の泉が存在するという。この奇妙な香りは、その泉から発するものなのだとか。
「あの場所に、城主様が──」
迷が息を飲むその横で、彗は表情を曇らせた。
「乗り込むには相当の覚悟が必要だ。生きて魔女の姿を拝めるとも限らない。それでも、君たちは進むことが出来る?」
問いかけられ、わたしも、そして迷も、すんなりと頷いた。
迷う事なんてない。そのためだけにここまでやって来たのだから。彗もまた分かっていて問いかけたのだろう。わたし達の反応に頷き返すと、深呼吸をしてから鋭い眼差しで魔女の根城を睨みつけた。
「それなら……行こう」
彼女の号令に従い、わたし達は先へと進んだ。登ることも苦労するだろうその根城へと近づいていく。甘い香りに迷が惑わされないよう手を繋ぎながら、わたしは祈り続けていた。どうか、どうか、千夜がまだ無事でありますように、と。
だが、魔女の城の真下まで近づくよりも先に、異変は訪れた。甲高い怪獣のような声が響いたかと思うと、上空の光を遮る大きな影が現れたのだ。慌てて見上げると、そこには恐ろしく大きな怪物がいた。
「蝙蝠……!」
彗が声をあげる。
そう、それは、食虫花の手下と思しき蝙蝠の精霊だった。巨大な翼を広げ、こちらを見下ろしてニタニタ笑っている。言葉を発する代わりに威嚇するように叫んだかと思えば、怪しい音波を発した。
慌てて耳を塞ぐ隙に、蝙蝠は地上まで下りてくる。そして、あっという間にわたし達の行く手を阻むと、不気味に輝くその眼をこちらに向けてきた。




