11.西の地を統べる者
──西の地におわすのは、明哲の魔女。
まだ故郷にいた頃、わたしはそんな言葉を聞いたことがあった。女王蟻様と呼ばれた魔女の事で、この度知り合う事となった彗の故郷の女王である。
明哲。その意味を正しく理解できていると胸を張っては言えないけれど、千夜に匹敵するほどの尊敬される魔女だったのだろう。
残党兵たちの事しか知らなければ想像しがたいことであったかもしれないが、彗の事を知れば知るほどそうではなくなる。きっと、ここもかつてはいい場所だったに違いないのだと。
そう、少し前までの北の地のように。
「──そうか。私の同胞が北の魔女を」
わたしと迷の話を聞いて、彗は酷く落ち込んだ様子でそう言った。
「すまなかった。君たちの安全な場所を、私の姉妹とも言うべき彼女らに破壊されてしまうなんて」
「彗が謝ることじゃないわ」
迷はそう言ったが、彗の表情は優れないままだった。
わたしはそんな彗に、そっと訊ねてみた。
「ねえ、彗。ここでは何があったの? 見たところ、あなたはあの残党兵たちとは違うようだけれど」
「そうだね……」
と、彗は頭を抱えながら答えた。
「私は……何も変わっていないつもりだ。地下王城の中で、せっせと働いていた時と同じ。けれど、あの日、全てが変わってしまったんだ……」
それは、迷がまだ蛹化すらしていない頃の話である。
いつもと変わらぬ日々を過ごすはずだった地下の王国で、騒ぎがあった。西の地の上空を怪しい蝙蝠が現れたという。嫌な音を出して羽ばたくその怪物が飛び去った後、外にいた王国民の一部が突如として王国に牙を剥いた。
彼女たちが何故、そんな事をしたのかは分からない。蝙蝠の仕業と彗は睨んでいるものの、何があったのかまでは分からず、抗うことも出来なかった。彼女たちはただただ狂気に満ちた様子で女王を拘束すると、新たな主人のもとへと連れて行ってしまったらしい。
「新たな主人……」
わたしの言葉に、彗は頷きつつ答えた。
「この西の地の片隅でひっそりと生まれ育ったらしい恐ろしい魔女だ。花の妖精の一種らしくて、妖艶な香りのする蜜を隠し持っている。けれど、その香りに釣られて近寄った蜜食妖精たちはすぐさま囚われて、少しずつ命を奪われていく。そのために彼女は食虫花とも呼ばれている」
彗は険しい顔で語った。
「あろうことか彼女たちは、そんな魔女に私たちの女王を捧げてしまった。陛下はまだ生きていらっしゃるようだけれど、どうなっているのかは分からない。あまり状況はよくないだろう。あの魔女──食虫花は、いつの間にか女王陛下の力を我が物のように使い始めている。恐怖のためもあるだろう。今や、王国民の殆どが彼女を新しい女王だと認識するほどに、支配が当たり前になってきている。でも、私はどうしても認められない」
女王蟻の力を我が物に。それこそが、食虫花とやらの目的なのだろうか。だとしたら、千夜もまた同じ目に遭っているのかもしれない。
食虫花。ここで言う虫とは、恐らく蜜食妖精や肉食妖精といった種族を指すのだろう。そう思うと、とても嫌な名前だ。まだ無事であると信じたいところだけれど、手遅れになりかねないだろう。
「その魔女は何処にいるの?」
迷の問いに、彗は静かに指をさした。さらに西へと進んだ先。鬱蒼と茂る草花の影のせいでその先は全く見えなかった。
「近づいていけば分かるよ。嗅いだ事もないような甘ったるい蜜の香りがしてくるはずだ。気を付けた方がいい。あの香りは魔性なんだ。これまでだって数多の蜜食妖精たちが気を狂わされて、姿を消してしまった。君のような蝶の妖精なんかは、絶好の獲物だろう」
彗の言葉に、わたしの方がぎょっとしてしまった。それでも、迷は全く動じていなかった。悲しそうな顔のまま、彼女は彗の差した方向を見つめるばかりだった。
「……そう。だとしたら、とても怖い。城主様は今、どうしているのだろう」
その胸にあるのは、千夜の心配だけらしい。
わたしはそんな迷の心を察しながら、その手を軽く握りしめ、さり気なくいつもの蜜を滲ませた。せめてこの香り、この味が彼女の癒しになってくれることを祈って。
「君たちの主人──蜘蛛様がどうされているのか、私には分からない」
彗は言った。
「だが、同胞たちが攫ったのであれば、女王陛下の時と同じ目的なのだろう。同じ魔女を捕まえ、その力を支配して、何がしたいのかは分からない。だが、何であろうとよからぬ事であるのは間違いない。生半可な気持ちで近づけば、後悔することになるはずだよ」
それは、忠告に違いなかった。
さり気なく視線を送られ、わたしは息を飲みつつ彗に訴えた。
「それでもわたしは城主様を見捨てられない。彼女の作った糸の城は、わたしにとって大切な居場所でもあったの。だから、そう簡単には諦められないもの」
本当はそれだけではない。わたしには分かっていた。隣にいる迷こそ、千夜の存在を今もずっと求めているのだという事を。
それは、迷に恋焦がれるわたしにとって非常に切なく、悲しいこと。けれど、わたしは千夜の代わりにはなれない。
千夜が二度と戻ってこないと分かれば、迷は自暴自棄になってしまうだろう。それが嫌だった。
「なるほどね」
彗は相槌を打つ。半ば呆れているようだった。
「それで君は、花の妖精には似つかわしくない棍棒なんかを振り回して戦っているわけだ。蝶の弓使いといい、無謀にも程があると言いたいところだけれど……私はそんな君たちに助けられてしまったわけだ」
或いは、呆れているのは自分に対してだったのだろうか。
彗は苦笑を浮かべながらわたし達に言った。
「事情はよく分かった。もしもこのまま食虫花のもとへ向かうならば、どうか私も同行させてくれないか」
「……え?」
思わず戸惑ってしまったわたしを前に、彗は静かに頭を下げた。
「足手まといにはならないはずだよ。地の利は会った方がいいだろう。助けてくれた礼として手伝いたいんだ。そして、一矢報いたいんだよ。誇り高い我らが地下王国を壊してしまったあの魔女に……!」
彗の表情が、わたしの胸を締め付けてきた。
もしかしたら彗は、この王国が二度と戻らないと諦めてしまっているのかもしれない。それでも、だとしても、何もせぬまま指をくわえて見ているだけではいられない。
そう言う事なのだろう。
「分かった」
わたしよりも先に、迷が口を開いた。
「そういう事なら、ぜひとも力を貸してほしい。どうか、アタシたちと一緒に戦って」
迷の言葉に、彗は一瞬だけ目を輝かせた。だがすぐに表情を変えると、わたし達の前で膝をつき、丁寧にお辞儀をしてみせた。




