10.亡国の民との出会い
千夜の治めていた北の地は、糸がすっかり崩れ落ちてしまっていた。
その変貌を目の当たりにした妖精たちも、何が起こったのかを察したのだろう。蜘蛛を恐れることなく、誰も彼もが姿を見せていた。
しかし、そんな状況下であろうとやっぱり恐ろしいのは蜘蛛たちだ。朔が言っていた通り、ここの蜘蛛たちは一斉に自由になってしまった。だからだろう。わたし達を見知っているはずの妖精までも、迷を食べてしまおうと襲い掛かってきたのだ。千夜がいなければ、わたしも迷もただの妖精。分かっていたことだけれど、非常に恐ろしい状況だった。
けれど、迷は冷静だった。こうなる事などよく分かっていたのだろう。お手製の弓と細い枝からなる矢を武器に、襲い掛かってくる蜘蛛たちに反撃し、その隙にわたしの手を引っ張って逃亡を図った。
勿論、わたしの方もただのお荷物ではない。身を守るための木の棒はなかなか役に立ったし、使えば使うほどコツも分かっていく。相手を殺さずとも、怯ませて隙を作るだけの事は出来たし、先を急ぐにはそれで十分だった。
そうしているうちに、わたし達はひたすら日の沈む方角を進んでいき、いつしか千夜の糸が一切ない世界──すなわち西の地へと足を踏み入れていた。
ここは神秘の地とも呼ばれている。女王蟻の王国がなくなって以来、どのような世界が広がっているのかさえも、千夜は把握しきれていなかったという。それはつまり、誰が千夜を攫ったのかということも曖昧であるということ。けれど、進まないわけにはいかなかった。闇雲であろうと進まねば、可能性すら掴めないのだから。
「もう、随分と歩いたわね」
西の地の片隅──草花で出来た天然の隠れ家の内部にて、迷はそう囁いてきた。
時刻は夜。疲れ切った心身を癒すべく、互いに身を寄せ合っている最中だった。疲れているせいだろう。蜜の出は悪い。それでも、清らかな水を飲み、土に親しみ、日中は存分に日光を浴びておいたはずだから、迷に捧げるだけの蜜は確保できるはず。そう思ってじっとしていたものの、迷も分かっていたのだろう、いつもと違って、控え目に口を付けるばかりだった。
「噂には聞いていたけれど、ここは不気味な空気が流れている。王国の戦士ならばともかく、アタシやあなたは場違いでしかない」
「迷は……怖いのですか?」
蜜を吸われる恍惚さの中で訊ねると、迷は静かに答えた。
「怖いわ。でも、ここが特別ってわけじゃない。妖精の世界は何処だって怖い。怖いけれど、死の迫るその瞬間までは怖さを忘れ、生きるための悦楽を求めるのがアタシたちだもの。でもね、ここはちょっと妙だわ」
「妙って?」
「静かすぎる気がするの。誰も彼もが息を潜めている。城主様を恐れていた北の地の妖精たちともまた違う。まるで……アタシたち以外の妖精がいなくなってしまっているかのような」
言われてみれば、確かに。
心からそう納得したのは、翌日の事だった。
迷とふたりで西の地を移動する間、わたし達は何にも襲われずにいられた。それはいい事のはずなのだけれど、それにしても奇妙だ。他の地であれば、草葉の陰で花の妖精が誰かにこっそり抱かれているものだし、はたまた物陰に潜む肉食妖精たちによる恐ろしい宴が開かれているもの。けれど、西の地はそうでない。迷を狙う捕食者がいない事は勿論、その他の妖精の姿も何処にもなかった。
確かにここは異様だ。進めば進むほど、不気味さを実感していったその時だった。わたし達の行く手に、ようやく妖精たちの姿が現れた。
とっさに迷に手を引かれ、物陰に身を隠す。覗き込んでみれば、それは千夜を攫ったのと同じ格好をした四名の残党兵と、彼女らと恐らく同じ亡国の民と思しき妖精の娘だった。
「言ったはずだ。脱走は死に値すると」
長と思しき一人がそう言うと、残りの三名が一斉に得物を手にした。鋭く磨かれた石の刃だ。切り裂くつもりなのだろう。対する妖精の娘もまた同じ武器を構える。どう見ても多勢に無勢。それでも、その娘は震えてすらいなかった。
「忘れたのか。私たちの主は誰なのかを。少なくとも私は、あの魔女の言いなりになるために生まれてきたわけじゃない。悔しくないのか。女王陛下を奪われて、尊厳を踏みにじられるような事をされて──」
何やら訴えかけるも、残党兵たちには全く通用していない様子だった。
「お前に警告したのはこれが三度目だ。残念ながら、ここまでのようだな」
長がそう言うと、他の者たちも一斉に動いた。
じっとしていられるのも、ここまでだった。気づけばわたしは迷の手をするりと抜けて、木の棒を片手に彼女らの間に割って入っていた。
「何者だ……!」
驚く残党兵たちが状況を把握するより先に、わたしはすぐ傍にいた残党兵の一人を殴りつけた。不意を突かれたためだろう。この一撃で、彼女はすっかり気を失ってしまった。
幸いなことに、わたしの作り出した混乱からいち早く脱したのは、助けたかった妖精の娘で、彼女もまた目の前にいた残党兵の一人を襲い、倒してしまった。そして、隣に立っていたもう一人が我に返る前に、そのまま流れるように切り付けてしまった。
風のように素早いその攻撃。残されたのは長と思しき一人のみ。
「こ、こいつ……!」
その恐ろしい眼差しがわたしへと向けられた直後、枝の矢が飛んできた。迷だった。たった一本。されど一本。当たり所が悪かったと見えて、残党兵の長は、そのまま倒れて動かなくなってしまった。
「銀花、怪我はない?」
迷はそう言って、物陰から飛び出してきた。そのまま、ぎゅっと抱擁されるわたしをまじまじと見つめ、妖精の娘は静かに武器をしまった。
黒衣に、すらりとした体。残党兵たちと同じような特徴を持っているものの、期待した通り、わたし達への敵意は全く感じない。
「君たちは……ここの妖精ではなさそうだね」
その言葉に、迷が落ち着いた様子で頷いた。
「アタシたちは北にある蜘蛛様の地からやって来たの」
「……蜘蛛様」
「あなたを襲っていた人たちに攫われてしまった魔女なの。知らない?」
わたしの問いに、妖精の娘は腕組みをし始めた。
しばし考え込んでから、彼女は答えた。
「さあね。だが、心当たりはある」
「本当に? 一体どこに……」
思わず食いつくわたしを、彼女は静かに制した。
「助けてくれた礼に教えてもいいが、可能ならばまず、君たちの事をもっと知りたい。見たところ、君たちは蜘蛛ではないように見える。何があったのか、何をしようとしているのか、この私──彗に教えてくれないか?」
そう言って、彼女──彗は武器をしまったその手をそっと伸ばしてきた。