1.名前がついた日
──向こう見ずってこういう事か。
それを、よくやく思い知ったのは、美しい銀色の糸で出来た城でのこと。冷たいその床に放り投げられて、受け身すら取れずに痛い思いをした時のことだった。
体をぐるぐる巻きに拘束する細い糸はとても痛くて、冷たい床にぶつかった頬っぺたも痛くて、思わず泣いてしまいそうだった。
そんな惨めなわたしをさらに痛めつけるかのように髪をぐっと掴んで起き上がらせるのは、乱暴者という言葉の似合う肉食妖精の一種だ。
見るもぞっとするその顔つき。
ただし、肉食とはいっても、彼らの好物はわたしのような種族ではない。
そこだけは幸いと思えるものの、心から安堵するにはまだ早かった。
どう考えても好待遇とは言えないこの状況。
これからわたしはどうなってしまうのか。
その判断を下すことになる女性──この糸の城の美しき城主は、離れた位置にある玉座より、冷たい眼差しをこちらに向けていた。
今より数日前の事、わたしは住み慣れた故郷を後にすると心に決めた。
色とりどりの草花が生えるその場所には、わたしと同じ始祖をもつ花の妖精たちが多数暮らしていた。
母も、その母も、そのまま母も、その場所で生まれ、血を反映させていったという楽園。
同じ母から誕生した兄弟姉妹たちに囲まれて、和気あいあいと暮らしていた。
けれど、いつの頃からだろうか。
成長と共に体が大人へとなっていくと、わたしは──わたし達は、互いに秘密を抱えるようになっていった。
誰に教えられるわけでもなく、母がどうして弟妹を生むことになるのか、姉たちがどうして次々に新たな母になっていくのか、その前触れが何なのかを悟るようになったのだ。
そして、ちょうどその頃合い、わたしの体は初めて蜜を生むようになった。
花の妖精は、年頃になると蜜を生む。
その蜜はわたし達のためのものではない。
蜜を求めてやって来るのは他種族の妖精たちで、それぞれ魅力的な姿をしていた。
総じて蜜食妖精と呼ばれる彼らは甘い香りに誘われてやって来る。
そして、彼らとの秘め事を経て、わたし達は大人になってしまう。
蜜を生むようになったわたしの元にも、当然ながら蜜食妖精はやってきた。
美しい蝶の翅をもっていた彼女に身を委ね、燃えるような恋を知ったあの日の事は、今でも忘れられない。
そのような甘美の時に身も心も委ね続け、気づいたらわたしの胎には、新たな命が宿っていた。
あのまま、あの場所にいれば、未来は違っていたのだろうか。
髪を引っ張られながら、ぼんやりと考えていると、わたしを捕らえた手下の一人が得意げに城主へと語り始めた。
「この度の拾い物ですが、なかなかの上物のようです。ここへ連れてくるまでにも、蜜食妖精の連中が物欲しそうに見つめておりました。この者の蜜ならば、きっと素晴らしい獲物が手に入ることでしょう」
品のない耳障りな笑い声を聞いているうちに、わたしはふと道中で聞かされたことを思い出した。
どうやら彼らはわたしを屠るつもりらしい。解体して蜜を搾り取り、獲物を狂わせる餌を作るつもりのようだ。
彼らの主食は花の妖精ではない。蜜食妖精たちの血肉だ。その為、常に罠を張り、栄養満点の妖精たちを捕らえ、食べて暮らしているらしい。
かつてまぐわった蜜食妖精の事を思うと野蛮なものだと寒気がしてしまうが、他人の心配をしている場合ではない。
このままだと殺されてしまう。
黙っていれば、わたしの未来はないだろう。
「あ、あの、ちょっといいですか!」
口を封じられていないのをこれ幸いと、わたしは城主に話しかけた。
「この人たち、わたしを殺すつもりみたいなのですが、何も殺さなくたっていいんじゃないかって思うのですけれど」
「この小娘、勝手にペラペラと」
髪を引っ張っていた手下が脅してきた。だが、城主が止めに入る。
「良い、言わせてやれ」
やや冷たさを感じるその一言で、手下たちが一斉に口を閉ざした。
より緊張感の増した状況下で、わたしはごくりと息を飲みつつ、なけなしの勇気を振り絞りながら話し続けた。
「罠のために蜜が必要なのでしたら、いつでも分けて差し上げます。お日さまの光と、栄養のある土、それに綺麗な雨水さえあれば、わたしは生きていけます。生きている限り、蜜はいくらでも差し上げられます。ただ、もしもわたしを殺してしまったら、そうはいきません。蜜は搾り取ったきり。たった一回だけですよ」
「だが、その分、濃度の高い餌を作れる」
ギロリとわたしを睨みながら、手下の一人がそう言った。
「花なんて、毎日のようにポコポコ生まれておるし、いつでも攫える。お前ひとりをわざわざ生かしておく必要なんざない」
「それはどうかしら!」
こうなったら自棄と言わんばかりに、わたしは声を張り上げた。引くことはすなわち死である。はったりだろうと負けてはならなかった。
「わたしの蜜は特別なの。唯一無二の、わたしだけの蜜よ。故郷では、それはもう数多の蜜食妖精たちを虜にしてきたの。美しい身なりの妖精たちが口々にわたしの気を引こうと努めたのよ。まるで一国の姫でも扱うかのようにね」
「は、蜜食妖精どもの世辞など高が知れておるわ。城主様、さっそく我らにお任せを。すみやかに、この口うるさい花を物言わぬ餌に変えてくれましょう」
手下の一人がそう言って、糸を手に舌なめずりをした。
だが、気の早いその行動を、城主がぴしゃりと呼び止める。
「待て」
そして、わたしへと視線を向けてきた。
「まだ名前を聞いていなかったな」
ひんやりとした空気に包まれ、わたしの心は居たたまれなさで一杯になった。
「名前は……ありません」
よもや、アリマセンという名前だと思ってはくれまいかと期待したが、城主は顎を手で支え、思案に耽った。
まずいかもしれない。
眩暈すら生じる中、わたしの脳裏に浮かぶのは、故郷にて、親しかった弟から向けられたあの言葉だった。
──そういうのは勇気とは言わない。向こう見ずだよ。
耳が痛かったのは、その当時から同じだった。
あのまま故郷に居座ればよかったのだろうか。だが、後悔しても、もう遅い。泣いても笑っても、わたしはここにいる。ここで縛られている。だから、自分の未来を信じて、今はただじっとしているしかないわけだ。
「ありませんだって?」
そう言って、笑いだしたのは周囲を取り囲む手下たちだった。
「何が特別な花だ。名前すらない花の何処が特別なのだ」
「これはもう決まりですね。城主様、さっそく──」
だが、空気が変わったのは、その時だった。
「決まった。ギンカ。銀の花と書いて、銀花だ」
城主は静かにそう言った。
手下たちだけでなく、わたしまでぽかんとする中、彼女は表情一つ変えずに首を傾げた。長い髪が糸のようにするりと落ちる。その様子をただただ見つめていると、彼女は再びこちらに声をかけた。
「聞こえなかったか。銀花。その子の名前だよ」
「じょ、城主様。では……」
狼狽える手下たちに向けて、城主はほんの少しだけ目を細めてみせた。
「紹介通り、よい花を見つけてくれた。これでようやく、あの子を飢えさせずに済む。さっそくその子をあの部屋へ通してやってくれ」
城主の言葉に、手下たちは呆然とする。
だが、そこへ声をかけたのが、城主の隣で人形のように立ち尽くしていた、老いた兵の一人だった。
「何をしておる。早く銀花を連れて行かんか」
その叱責に、手下たちは慌てて立ち上がった。
明らかに扱いが変わった。その事を実感した。彼らはもう髪を引っ張って立たせたりしない。壊れ物を扱うように優しく手で支え、まるで客人でも導くように、わたしを何処かへと連行し始めた。
いきなり態度の変わった彼らに、違和感こそ覚えども、悪い気はしなかった。ただただ首の皮一枚繋がったようだと安心しながら、わたしは何度も心の中で、城主の言ったあの名前を反芻したのだ。
銀花。
初めて手に入れた自分の名前を、わたしは頭に刻み込んだ。