第398話・天上天下唯我独尊
「よう、数十分ぶり…………」
幻覚ではない、確かにそこに存在している。
バカな、あり得ない。
確実に心臓を貫いたはず…………。
動揺するロマノフに気づいたのだろう、どこか酩酊したような様子の錠前は自らの”塞がった”胸を指さした。
「不思議そうな顔してるねー」
「なぜ、生きている…………?」
「お前に射出ナイフを食らった瞬間、攻撃はやめて”筋肉の高密度化”を試みた……。正直無理だと思ったが、人間生き死にが掛かったら不可能なんてねーなぁ。お前のトドメのナイフは心臓に0.2ミリ届いてなかったんだよ」
筋肉の硬質化。
通常では緩やかに行われるミオフィブリル効果を、意図的にかつ、超高速で錠前は実現。
アクチン、ミオシンの代替物質を死の淵で人工的に大量生産し、筋肉の密度を一気に底上げしたのだ。
まさに神業、もはや人間のなせる領域ではない。
「いや、だとしても脈が止まったのは確認した。なぜあそこから蘇生している…………?」
未だに疑問しかないロマノフへ、錠前はポケットから1本の注射器を取り出した。
それを見たロマノフは、目を見開く。
「”エピネフリン”……!」
エピネフリン、アドレナリン注射と言えば伝わりやすいだろう。
これを使用すると、心拍数を増加させて気道を開く効果がある。
軍隊では、主にきつけとして使用されていた。
「呼吸と意識が途絶える寸前に、バッグのファストエイドキットにあったこれを、ダメ元で注射してみた! そしたら意識がすっかり戻っちまってよ!! お前をここまで追いかけてきたってわけ」
「出血はどうした…………、あの量でこの距離を走ってこられるはずがない。まして、そんな薬物を注射したならなおさらだ!」
「血はライターで傷口を炙って無理矢理止めたよ、さすがの俺でも痛みで死ぬかと思ったけどなぁ!」
エピネフリンの効果で、完全にハイになっている。
これが才能? いや、類まれな強運と身体に恵まれているのだ。
しかし、そんなものはなんの理由にもならない。
気絶していた秋山の体を蹴り飛ばすと、彼女がまだ握っていたナイフを奪った。
それを逆手に持ち、錠前を真っすぐ見据える。
「ならば、もう一度殺してあげましょう。今度はその首を切断する、蘇生の余地は――――無い!!」
地面が砕けるほどの速度でダッシュしたロマノフは、全力で錠前を切りつけようとして……。
「なに!?」
呆気なくかわされた。
それどころか、
「ゴフッ!!?」
カウンターとして飛んできた錠前の拳が、ロマノフの顔面を殴打した。
ありえない、こんなこと。
「なぜ……、危機察知能力が発動しない!?」
ロマノフは困惑していた。
眼前の男は攻撃を繰り出しているのに、全く探知ができないのだ。
まさか、こいつ――――
「ごぁッ!!」
強烈な蹴りを食らったロマノフは、近くに停車していたトラックに激突した。
すぐさま体勢を立て直し、ナイフを構えるが、
「悪いな……、俺は今。お前に殺意を抱いていない」
「ッ!!」
ゆっくりと歩きながら、錠前は続けた。
「お前の危機察知能力は、俺が出すあらゆる敵意に反応するんだろ? でも今の俺は殺意なんて微塵も出しちゃいない」
「不可能だ!! 殺意も敵意も無しに、攻撃なんてできるはずが無い!!」
「可能だよ、目の前の紙屑を破り捨てるのに……殺意なんかいちいち抱かないだろ?」
「ッ!?」
錠前の表情は、瀕死のそれとは思えないほどに穏やかだった。
何度も攻撃を仕掛けるが、そのたびにカウンターが飛んでくる。
その全てが、殺意も敵意も無い……ただ”反射”として行う行為。
まさしく、悟りの境地に至った人間の御業だった。
意識が薄れていく中で、ロマノフは見た。
夕陽を背景に、恍惚とした笑顔を浮かべる男。
防大最強……、いや。
”現代最強”となった人間。
「天上天下…………唯我独尊」
トドメはアッサリと刺された。
錠前は振られたナイフの一撃をかわすと、ロマノフの首を掴んで胸にありったけの拳銃弾を撃ち込んだ。
スライドが下がり切り、弾切れでホールドオープンする。
手が離され、2人は互いに正対した。
死が目の前に来たタイミングで、ロマノフ少佐は胸に手を当てた。
ベッタリと付いた血を見つめ、自らの行動を思い返す。
――――なぜ錠前勉を追い詰めた段階で、撤退しなかったのだろう。
――――いつもの自分なら、能力が通じない時点で逃げていたのに。
繰り返される那由他の質問は、刹那の時で行われた。
銃弾は心臓と肺を粉砕しており、もう助からないだろう。
だが最後に、ロマノフはどうしても聞きたいことがあった。
「お前は……確かに最強だ。もう誰も勝てないだろう。でも、そんなお前を…………“止めてくれるヤツ”はいるのか?」
この質問に、錠前は表情を変えずに返した。
「…………さぁ。心当たりは無いな……」
「そうか……、せいぜい。ちゃんと…………探しておくんだな…………」
仰向けに倒れたロマノフ少佐は、そのまま絶命。
かくして、ミッションは本当の意味で完了。
3人は病院へ搬送されたが、命に別状は無かった。
そして、ロマノフを失ったロシア連邦は、10年後の軍自体の練度が大きく低下。
ウクライナ、ダンジョン関連の作戦で大きく苦戦することとなった。




