3話『太陽みたいな人』
女になって初めて我が家に帰った時の事を思い出しながら、電車に揺られ窓の外の景色を眺める。
高校受験の際、わざわざ地元から近い高校ではなく電車通学を要する距離の空いた高校を受けた理由。それは単純に、今まで交友関係を築いてきた友達に奇異の目で見られたくなかったからだ。
もしかしたら俺の思い過ごしで、お医者さんの言ってくれたように案外周りの連中はこんな俺も受け入れてくれるかもしれない。でもそうとも限らないし、自分が友達の立場だったら、正直気味悪がると思うから前向きに皆の前で顔を出す気にはなれなかった。
俺は既存の人間関係を『明確な嫌悪による仲違い』という形にしたくなかった。関係性を有耶無耶にしてリセットし新たな所で0からスタートするために、遠い高校を選んだ。
『次の駅は〜』
駅長のアナウンスが聞こえスマホを確認する。受かった高校の最寄り駅までまだ三駅ある。通学時間およそ一時間、知らない街並みが目に映る。
私生活の事、女にとっての必要最低限の常識等を頭に叩き込むために短い期間を費やしたので高校の通学路などの下見はしていない。
マップを見ながら向かう事になるから絶対に時間食うし、初日からとんでもない大遅刻をしてしまうなと、むしろほくそ笑んでやった。あぁ、時間配分完全に間違えたなぁ……。
「……っ?」
地図アプリで行き方の予習をしていたら尻に何かが当たった。それはまるで人の手のような形をしていて、俺の尻に当たっているそれは尻肉の感触を確かめるように表面を這い蠢いていた。
え、なに? 当たっただけならまあいいかって流そうと思ったのに、これ明らかに意図的じゃないか? 男の尻なんか揉んで何が楽し……いや俺今女の体になってるんだった。つまり、そういう事なのか……?
「……」
そーっと背後を確認する。サラリーマンの出勤ラッシュとバリバリに時間が被っていた為、関係なさそうな人達の陰に隠れて俺に触れている奴の姿が目視出来なかった。
「……っ」
尻肉を掴む力が強くなる。もう掴むではなく、揉むと表現する方が適切な動きへと移行していた。
ひとしきり俺の尻肉を揉み続け、駅が近付くと手は離れていった。何だったのか、後ろを振り向いて確認するが怪しい人は特に見当たらない。痴漢するような奴だ、一般人に擬態するのは得意らしい。
『ドアが閉まります』
電車のドアが閉まり、再び電車が揺れ始めると少ししてまた尻肉を掴まれる。意味分からない、気持ち悪い、気持ち悪い! 冷や汗で背中がぐっしょりと濡れる。なんでこんな事をするのか、そんな疑問を直接ぶつけたくて仕方なかった。
「っ!?」
尻を揉んでいた手が上に移動してくる。ナメクジが這い上がるような不快な手触りが腰を経由し、背中を撫でて胸の高さまでやってくると、なんと後ろから体を抱くようにして胸に手を置かれてしまった。
「このっ……やめろっ……!」
周りに聞こえないようにあくまで小声で、すぐ背後に立っているであろう痴漢の主に抗議する。
「まじ殺すぞ、離れろやゴミ……っ!」
「……さっき、僕と目合ったよね」
「はあ!? なんの話っ」
「駅に入る時、僕にわざとぶつかってきて、その後もしばらく僕を見てたよね。あれって、"そういう事をしてもいい"っていう合図だったんでしょ?」
「……っ!?」
なんの話をしているのかまるで理解出来なかった。でも話の内容的に、コイツ、俺が高校生とぶつかった時近くに居たリーマンか?
ぶつかったのは明らかに事故だっただろ。なんで故意的に、こっちが売春仕掛けてきたみたいに解釈してるんだ!? 普通の人間と明らかに異なる思考回路してるだろコイツ!?
ていうかあんな人畜無害そうなリーマンでも痴漢なんてするのかよ! わざわざこんな学生なんか狙わなくてもっ、身近な同僚とか女友達とか口説いたりバーにでも行きゃいいじゃんっ!? 未成年に痴漢とか二重でアウトだろ……!
「さ、さてはあんた童貞だなっ。ガキ相手に痴漢とかっ、終わってんね……!」
体を触られる不快感に耐えかね、苛立ちから相手を非難する言葉が漏れる。俺の言葉を聞いた痴漢男はそれが図星だったのか、尻を触っていた手の力が強まった。
「このメスガキが……今の状況が分かってないようだな」
「こ、これ以上変な事したら大声上げてやる!」
「出来ないだろ。さっきの駅で降りなかったのも、期待していたからだ。淫売が。そんなに乱暴にされたいのか?」
「なっ、何言ってんだよあんた頭おかしいだろっ、離せ……!」
制服の上から胸を揉みしだかれ、尻の上の尾てい骨付近には固いものが当てられていた。男は、その固いものを何度もグイグイと押し付けてきてスカートを捲ろうとしているようだった。
「やめっ」
プシューッ、と音がしてそこで電車の扉が開いた。
「うわっ!?」
背後から背中をドンッと押され、電車の外に押し出されてしまう。何が起きたのか背後を振り向いて確認すると、そこには俺がこれから通う事になる高校の制服を着た男子高校生が立っていた。
えっ、痴漢男って高校生だった? いや、絶対違う。だって小脇にブレザーを抱えていてもう片方の手は吊革を掴んでいたから、どうやっても俺の体を触れる状態にあったようには見えなかった。
という事は、この人は俺を助けてくれたのか? 痴漢男と俺の間に体を捻じ込んで、無理やり電車から降ろさせてくれたという感じ?
「よっと」
高校生も一緒に電車に降りてきて、ホームにあった自動販売機で天然水を買うと、俺にそれを手渡してきた。
「はい」
「ど、どうも」
貰ったペットボトルのキャップを緩めて中身を少し飲む。痴漢に遭った動揺で乾燥していた喉が潤される。速まっていた心拍数も落ち着いて、ようやく冷静に物事を考えられるくらいに気分が落ち着いた。
ペットボトルをベンチに置いて高校生の方を向いて頭を下げる。
「た、助けてくれてありがとうございます!」
「? ああ、さっきの? よかった、じゃああれ、痴漢に遭ってる感じで合ってたんだ」
「はい。マジ人生終わるかと思いました……まさか、オレがあんな目に遭うなんて……」
「最悪だよな、登校初日で痴漢に遭うとか。ぶん殴ってやればよかった。俺の友達だったらそうしてたんだろうけど、確証が持てなかったからさ……」
「十分嬉しいですありがとうございます本当に!」
「あはは。所で、君って自分の事オレって呼んでるの?」
「えっ!? あ、いやっ」
しまった、つい癖で!
「い、いいやぁなんというかっ、昔ちょっと男の真似事してた時期があって、へ、変っスよね! ははっ」
「うん、少し変わってるね。変とは思わないけど」
「へ? いや、変でしょ。女なのに、オレって言うのは」
「そうかな? 俺も昔は自分の事僕って呼んでて今でも時々出てくるけど。口調なんてそういうものでしょ?」
「いや、男が僕って言うのと女がオレって言うのは全然温度感が違うというか……あっ、ごめんなさい!」
何を意固地になっているのか。誤魔化し愛想笑いで乗り切ろうとへへへ〜と笑いかける。わざとらしかったかな。
あれ? なんかこの人の顔、よく見るとどこか馴染みがある奴に似てる気がする……?
気の所為、だよな。だって、地元から結構遠い高校を選んだし、それもわざわざ選ぶような高い偏差値って訳でもない中途半端な所を選んだし。
「ていうか、天高の生徒とこんな時間に会うとは思わなかった。君も1年生? 初日から遅刻とかツイてないね〜」
高校生はニコ〜っと柔らかそうな、春の陽気のような笑顔を浮かべた。人の良さそうなふにゃふにゃした笑顔、苦手だ。目を伏せる。
「あなたも1年生ですよね。ツイてないって言ってますけど、遅刻しそうなのは他人事じゃないと思うんですけど」
「あっはっは〜。絶対間に合わない時間に起きたもんだから、急ぐよりかゆっくり散歩しながら向かった方が楽しいかなと」
「マイペースだなあ」
「よく言われる。さて、どうする? 電車、一本待つか走っていくか。ここから走って向かえばもしかしたらギリギリ始業式には間に合うかもよ?」
「いや間に合わないでしょ、だって時間……あれ?」
時計をよ〜く見ると、どうやら俺は一時間ズレて時間を認識していたらしい。確かに遅刻ギリギリの時間帯ではあったが、完全に間に合わないという程では無いのが見えた。アラームの設定時間の時点でズレてたっぽいなこれ……。
「始業式遅刻して学年で最初の怒られを食らうのもまた、青春だよね〜」
「青春って……変に目立ちたくないから、間に合うなら走って向かうよ」
「了解。じゃ、一緒に行こうか! 道分かる?」
「分かんない……」
「じゃあ俺に着いてきて! 友達と何度も確認したから頭に入ってる!」
登校ルートを何度も確認するだなんて余程真面目な人達なんだな。爽やかに話してる感じといい、仮にこの人と同じクラスになっても同じグループの人とは馴染めなさそうだ。
改札を出て階段を下ると線路沿いの大きく斜めった道に出た。歩道の白いタイルの上を抜けて、大通りの信号を渡って街路樹が隙間なく並んだ木組の道を走る。
「そういえば君って何中出身なん?」
「はっ、はっ! 広敷中ってふざけた名前の中学出身ですけどっ!」
「えっ、ヒロ中出身なんだ! 奇遇だね、俺もヒロ中だよ!」
「そ、そうなんだっ!」
「案外話した事あるかもね! ペース速い? 休憩挟もっか」
「大丈夫! 全然余裕っ」
女の身体になってまだ全然慣れていないからか、拍動がバクバク加速していて息苦しさを覚える。だが一々こんなので休憩を挟んでいたらいつまで経っても学校に着かないからな。リハビリだと思って平気だと言う。
「はぁっ、はぁっ、うわっ!?」
走っていたら足がもつれて、靴が脱げて転んでしまった。スカートの低防御力に文句を言いたい、膝を擦りむいてしまった。
「大丈夫?」
男子高校生はそう言いながらこちらを向く。
「だ、大丈夫!」
「怪我してるじゃん! 大丈夫じゃないよ!」
「えっ、いや本当に大丈夫だから、気にしないで!」
高校生が靴を回収してくれたので受け取り普通に立ち上がる。走り出そうとしたら、足首にズキッと痛みが。どうやら目に見える傷以外にも負傷したらしい。捻ったのかな、上手く立つことが出来ない。
「いてて……先行ってて。オ……私、足捻ったみたいで」
「大変じゃん! よいしょっ」
高校生は俺の前でしゃがみ、背を少し丸めて体の横に手を置いた。まるでおんぶをしてあげる、とでも言いたげな姿勢だ。
「あの」
「? どうしたの、遅刻するよ?」
「いや、おんぶは流石に……」
「大丈夫、もうすぐで着くから!」
押しが強い……。
結局俺はその男子の押しに負けて背中にお邪魔することになった。膝裏を持たれ、こちらも男子の肩に手を置き体重を預ける。
「重くない……?」
「全然! あともう1人乗せれるくらい軽いよ!」
「そこまで痩せ型じゃないでしょ私……無理しないでよ」
「平気平気」
言葉の通り男子は軽々しく俺を乗せたまま小走りしているが、周りの目があるから少し恥ずかしい。極力周りを見ないように、視線を落として男子の項の辺りを見ていたらフワッといい匂いがした。
いい匂いがしたのだが……なんだろう。どこか懐かしい気がする。俺、この匂いを知っている。知り合いと全く同じ匂いだ。
「そういえばさ、君って名前なんて言うの?」
「私? 私は、長谷川伊緒って言います」
「えっ?」
名乗った途端、高校生の足が止まった。何事かと思い彼の顔を後ろから窺うと、彼はこちらを向かないまま厳かに口を動かし始めた。
「……長谷川、伊緒。イオくん」
「……っ! そ、その呼び方!」
「その反応。まさか、そんなわけないと思ってたのに、やっぱりそうなんだ」
一気に背筋が凍るような思いをする。そういえばそうだ。俺を今おんぶしているこの男は、俺がこの世で一番嫌っていた男と同じ匂いがした。何故気づかなかった!?
「穂高……?」
「覚えていてくれたんだ。久しぶり、イオくん。……イオくんって、女の子だったっけ?」
一瞬唖然とするが、俺は高校生になった穂高の背中から離れる。着地に失敗して地面に上に尻餅を着いてしまうが、そこに穂高が手を差し伸べてきた。
「大丈夫? イオくん」
「っ!! 気安くっ、名前を呼ぶなっつっただろ!」
差し伸べられた穂高の手を思い切り弾く。穂高は俺を見下していた、女になった俺を哀れんでいるように見えた。
勝手に俺がそう思い込んでるだけなのかもしれないが、よく分からない劣等感に押し潰されそうになるのを強く睨む事によって阻止する。
「相変わらずだね。イオくん」
「ほっとけ」
そう言いながらも、相変わらず穂高は俺から離れようとはしなかった。立ち上がり、穂高の事は無視して歩き出す。
「高校まで行く道分かるの?」
「もう近いんだろ! スマホ見ながら行く!」
「じゃあ今度は俺がイオくんに着いていこうかな」
「着いてくんな!」
「それは難しいなあ。俺達、目的地一緒でしょ?」
「っ! 調子乗ってんじゃねえよ穂高の癖に!」
先に歩き出したのは俺なのに、少ししたら穂高は俺の横に並んでくる。足の長さの関係で距離を離せない。なんでコイツ、こんな長身に成長してるんだよおかしいだろ。
「付き纏うなよ!」
「付き纏ってなんかないよ」
「付き纏ってるだろ、今も昔も!! 困り事がある度に脳死でイオくんイオくんって頼ってきやがって!」
「あはは。安心してよ、もうイオくんに頼ったりしないからさ」
「はぁ?」
穂高の言葉に足を止める。
「なんだよ、ようやく自立出来たってか? お前。これまでずっとオレに寄生しなきゃ生きていけなかったくせに」
「もう一年以上会って無かったんだよ? イオくんが居なくて確かに最初は不安だったけど、案外イオくんが居なくても生きていけるって気付いたからね」
「……あっそ。よかったな」
俺が居なくても生きていけるとか、何当たり前な事を言ってるんだか。むしろ今までが異常だったんだ、気付いてくれたようでなにより。再会してまた依存されたりしたら溜まったもんじゃないと思ったが、独り立ち出来ているようでよかった。これなら俺がコイツに関わらなくても何も支障はないもんな。
暫く歩き学校に到着すると、既に始業式が始まる直前にまで時間は迫っていた。教室へは向かわずそのまま荷物を体育館の入口隅に置かされ、自分のクラスの列にそのまま並ばされる羽目となった。
「なっ……!? なんでだよ……!」
同じクラスにも違うクラスにも、ちょくちょく俺と中学の頃に付き合いのあった連中が複数人居た。……中には、俺が密かに想いを寄せていた女子も居た。
何が最悪って、その女子と穂高は共に俺と同じクラスに割り振られていて、しかも仲良さげにしているという点だ。
自分が女になった事で、その女子とは恋愛出来ないんだと分からされたこの状況で見せつけられる様な事をされ、胸の奥がズキリと傷んだ。
出席番号的にその女子の一つ後ろに並ばされ、目の前で仲良さそうに話す二人を見せつけられる。生き地獄か。
「実紀〜!」
「絢也! おはよ〜」
「おはよ〜じゃねえよ待ち合わせすっぽかしやがって!」
「あはは、ごめんごめん。寝坊したんだって」
「だから夜更かしはあんまりしないようにねって言ったのに」
「莉々夏だって夜遅くまで反応してきたし起きてたんじゃんか!」
「私は寝坊なんかしてないもーん」
「何の話してんだよーっ!! 実紀おはよっす!!」
「うるさっ!」
「朝早くからテンション高いな〜、樹希は」
「別に普通だろー? なあなあ、Tempalayの新曲聴いた!? これさ〜めっちゃーー」
教室に向かう最中、穂高に話しかけてきた三人の生徒。五十嵐絢也、野木莉々夏、篠田樹希。三人とも俺が男だった頃に仲良かった連中だ。その仲良かったはずの連中に気付かれないよう、俺は息を殺して三人と共に歩く穂高の後ろを歩く。
「驚いた? イオくん」
「っ! は、話し掛けてくんなよ!」
穂高は廊下を歩いている最中、あろう事か後ろを歩く俺の所まで下がってきて声を掛けた。五十嵐と目が合いかけて慌てて顔を逸らす。
「絢也も、莉々夏も、樹希も。イオくんが学校に来なくなった後に話し掛けたら、すぐに仲良くなれたよ」
「……はぁ?」
「イオくんが僕の事虐めてたから、気にはしてくれてたみたい」
「へぇ〜。で?」
「不思議そうな顔してたからなんで仲良くなったか教えただけだよ。仲良くなりすぎて、同じ高校に行こうってなるなんて思いもしなかったけど。皆、気のいい人達だよね」
「……」
つまりコイツは、自分の方が友達と深い関係を築けたと俺にマウントでも取っているつもりなのだろうか? 下らない。どっちがより他人から好かれるかとか、そんなのどうでもいいっつの。
……コイツ、そんな事言ってくる奴だっけ。まあ昔から自己主張せずに俺のひっつき虫やってたからその内心はよく分からなかったけど。今までが消極的だっただけなのだろうか。
俺が女になって、俺の人間関係を横取りして、それでいい気になっているのだろうか? だとしたら本当に下らない奴だな。
「ねえ、それよりもさ。後で多分自己紹介する時間あるよね、どうするの?」
「何がだよ」
「絢也も莉々夏も樹希も同じクラスだよ? 一年間音信不通だっただけで友達の名前なんて忘れるわけないでしょ。その姿、どう説明するの?」
「そ、れは……クソッ」
穂高が耳打ちしてきたのは確かに慎重に考えるべき事柄だった。穂高はあまり驚いていなかったが、中二まで男の格好をしていた奴が、高校生になって女の姿で現れたとなったらちょっとした混乱が生じるのは間違いないだろう。
「ほ、穂高は俺の事どう思ってんだよ」
「どうって?」
「この身体の事! どう解釈してるわけ?」
「そりゃあ……実は女の子だったけど、男の服装して隠してたって事じゃないの?」
「……」
そんなわけないだろう、一緒に風呂入った事もあるのに何を言っているのかコイツは。
だが、コイツ以外にピントを合わせればそれは十分使える言い訳だった。だって俺、穂高以外に股間を見せた事ないし。プールの授業は……まぁ、ギリギリ貧乳だったからで誤魔化せるだろう。
「……一応礼は言っといてやる」
「え、うん。なにが?」
「穂高が話を振ってきたおかげで、詰められた時の言い訳を一つ思いつけた。話を振ってこなかったら、アドリブで乗り切る羽目になってたから。だから、ありがと」
「う、うん。……お礼言われるとか、調子狂うな」
「? なんだよ?」
「なんでも無いよ」
穂高が小声で何かゴニョニョ言っていた。よく聞こえなかったから聞き返したらなんでもないと言われた。小声で喋る事がある癖は今も直っていないらしい。表向き爽やかを気取ってても根暗な本性は矯正出来ないんだな。
教室に着き、担任の教師がやってきてちょっとした挨拶をした後、出席番号順に名前と出身中学、それとちょっとした自己PRを言う時間がやってきた。
「野木莉々夏って言います! 五十嵐や篠田と同じ広敷中から来ました! ダンスが好きでよく駅前とかで踊って怒られてますっ! よろしく〜!」
俺の前の席に座る野木が挨拶をし終え、とうとう俺の番が来てしまった。野木が座るのを目で追い、渋々立ち上がり下を向く。
「……」
口が開かない。怖い。なんで知り合いが居るんだ、周りの目が見れなくて机を見たまま固まってしまう。
「……? どうしたの? えーと、長谷川さん」
「っ!?」
担任に急に苗字で呼ばれて心臓が跳ねる。だ、大丈夫だ、長谷川なんてありふれた苗字どこにでもいるし!
あまり時間をかけて余計に注目を集めるのも悪手だ。唾を飲み、意を決して震える口を何とか動かして声を出す。
「おれ、じゃなくて……私、は長谷川……っ」
フルネームを言う前に呼吸が途切れてしまう。目を強く瞑り、何も考えないようにして言葉を繋げる。
「長谷川、伊緒です。ぴ、広敷中出身、趣味は……特にないですっ!」
それだけ言って座って腕を枕にして突っ伏して顔を隠す。担任は困惑した様子で声を掛けてきたが、それらを無視していたら諦めたのか「では次の人どうぞ」と言っていたので安心してそのまま寝たフリをした。
「長谷川さんっ」
「……んぁっ?」
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。机の板を袖でグシグシと擦り、顔を上げて俺を呼ぶ相手の顔を見上げる。
「あー……野木じゃん。おはよ」
「えっ。ちょっと穂高、もしかしてあんたが言ってた事って本当なの?」
「だから言ってるじゃん。その子、イオくんなんだって」
「へぇ〜? 実は女子だったんだ?」
何を話しているのか分からなかった。俺が女子? 何言ってんだどこからどう見ても男だろ、てかいつの間に穂高と野木は仲良くなったんだよ。ちょっかいでも掛けてやろうと体を起こして背を伸ばすとゴキゴキと音が鳴った。
……あ。そこで寝ぼけも覚めて、自分が口走った言葉と野木の反応を反芻して血の気が引いていくのを感じた。
「ま、待って、違っ、私は」
「長谷川伊緒、だよな? 久しぶり〜、覚えてる? 俺五十嵐だけど」
「お、覚えてる……じゃなくてっ、私!」
「実は女だったんだよな、伊緒。なんつぅか、すっげえな! その胸とか本物なん?」
「ひゃわっ!?」
急に篠田が俺の胸に手を押し付けてきた。反射的に変な声が出る。
「おー、本物だ……」
「篠田最低〜。大丈夫?」
「あ、あはは。い、いきなり何するんだよ〜、とか、言ったりして……」
心配してくれた野木に平気だって見せつける為に篠田におちゃらけた態度を見せてやるつもりだった。ぎこちない笑顔しか作れなかった気がする。うわ、もう死にたい。誰か殺して。
「なあ、この子本当にあの長谷川伊緒なのか? 全然キャラちげえじゃん」
五十嵐が穂高に尋ねると他二名も同じような目で穂高を見る。穂高は腕を組み、「うーん」と体を傾けて考えるポーズを取る。
「ぶっちゃけ俺も本人かどうかは知らない。絢也の言うように、俺の知るイオくんと随分性格が違うようだし。だから」
ズイッと穂高が顔を近づけて来たから逃げようと椅子を引いたら思い切り背後の壁に頭を打ち付けた。
「くぁっ!? いっでぇ……」
頭を押えて前屈みになる。四人が困惑したような目で俺を見ている気がする。はぁ……顔が上げられない。
「……いやいや。同じ名前の赤の他人だろ。これは流石に」
「でも俺がイオくんって最初呼んだ時、確かにこの子は驚いた顔をしたんだよ」
「顔なんかはどことなく似てる気もするし。何があったか知らないけど、長谷川くん本人なんじゃないの?」
「伊緒にしてはやけにオドオドしてない? もっと堂々としてたぞアイツは!」
口々に勝手に以前の俺と今の俺を比較される。そりゃあ今は以前と人間関係が地続きじゃなくて、一回入院を挟んで人間関係もリセットするつもりで居たし。根が暗い俺が穂高っていうスケープゴートを利用して築いた地位が取り去られたら過剰な自身もなくなって当然だ。
……それに、結局最も嫌っていた『女体に変わった後に知り合いと会う』というイベントが発生していて、気持ち悪がられるかもしれないとか他の連中にも流布されるかもしれないという不安が取り巻いてるし。それで開き直れるほど神経が図太くはない、それだけ精神力が強かったとしたら穂高にどれだけ付き纏われようが気にしなかっただろうし。
「まあ、だから今日この後陽日……イオくんの妹ちゃんに真偽を確かめようかなって」
「っ!? ふ、ふざけんなよ、来んな!!」
ふざけた提案をする穂高の胸ぐらを掴んで詰め寄る。すると、困ったように笑う穂高を庇うように野木が割って入ってくる。野木の顔は険しい、俺に対して警戒心を持っているようだった。
「邪魔、するなよ。鬱陶しいんだよ、いつまでも俺ん家に関わろうとしてくんなよ! キモいんだよお前!!!」
我慢出来ずに声を荒らげてそんな言葉が飛び出す。周りの生徒がヒソヒソと噂してるのが見えた、ああ高校デビュー失敗だ。だが今はそんな事より目の前の、この期に及んでまだ俺の近くにポジションを残そうとする穂高の事しか頭に入ってこなかった。
「いつまで幼馴染ネタ擦るつもりなんだよっ、もう縁切れた筈だろうが!」
「困ったな。そんな事言われても、俺、陽日ちゃんと付き合ってるし……」
「はっ!? ……はっ? なんて?」
「だから、陽日ちゃんに告られて付き合ってるんだよ。イオくんが入院する事になってから彼女、不安に駆られて毎日泣いてたから。慰めてたら成り行きで、というか」
「……んだよ、それ」
足に力が入らなくなって椅子に座りこんで項垂れる。長い髪が垂れて視界の前面が不明瞭になる。髪の隙間から睨む俺の姿はどれだけ無様に映っているのだろう。
「言っとくけど、貴方が本当に長谷川くんだとしても実紀の事を恨む資格無いからね。元はと言えば貴方が急に居なくなったのが原因なんだから。陽日ちゃんの気持ちを考えたら妥当でしょ?」
「莉々夏、そんな言い方は……」
「実紀は優しすぎるんだよ! 以前いじめられていた時もそうだけど、好きに言わせすぎ! 思ってる事を伝えないのは相手の為にはならないからね!?」
「……そう、だね。でもそれは、この子が本当にイオくんだった時に伝えるよ」
そう言うと穂高は自分の席に戻り、野木も前を向いて他の二人も帰りの支度をするため自分の席に戻って行った。
ただ一人、俺は。自分の机を睨みながら呪う言葉を延々と吐いていた。
でも、穂高が今の地位を得たのは穂高自身の努力の賜物だ。
アイツの様子を見るにアイツは本当に気が良い奴で、こんな風に八つ当たりの悪意を吐き散らす俺ですら見捨てない人間だから愛されて当然なんだ。
そんな風にアイツを肯定的に捉えながら。そんな奴が近くに居て、勝手に無能な弱虫だというレッテルを貼ってアイツを照らしてた気になってその実アイツの出す光を借り受けてただけだって思い知らされた劣等感に頭が潰れそうな程の苦痛を味わう。
知っていた。分かっていた。俺がアイツに奪われたんじゃない、俺が横取りしていたんだ。一生気付くつもりの無かった事実を受け入れる事は、今の俺には出来なかった。