1話『ティレシアス症候群』
俺には幼馴染が居た。親同士が付き合うがあるだかで、チビの頃からずっと一緒に居た穂高実紀という名の幼馴染が。
男の癖に女みたいな名前していて、ナヨナヨしていて、すぐ泣いて、困ったら頭を使わず俺にばっか頼って。そんな穂高の事が、俺はずっと嫌いだった。
「イオくんどうしよう! ママの大切な花瓶割っちゃった!」
知らねえよ。自分で何とかしろよ、俺には何の関係もないだろ。
「このままじゃ怒られちゃう……ママに怒られる〜!」
「……俺が割った事にしといてやるから。穂高は部屋入っといて」
「えっ、でもイオくんが怒られちゃう!」
「慣れてるよ。いいから。母さんもおばさんも俺の事はいたずらっ子って思ってるだろ。俺がした事にしたら怒らないかも」
「ごめん、イオくん……」
「いいよ。だから泣き止みな」
穂高の泣き声は工事現場の騒音よりも耳障りだ。だから内心、おばさんに怒られようが怒られまいがどうでもよかった。こいつがなりふり構わずギャン泣きするのを防げるのなら、何でも良かった。
追いかけっこなんか好きじゃなかった。穂高は運動神経がゴミだから、泣かないように接戦を演じるのが苦痛で仕方なかった。
遊園地なんて楽しくなかった。穂高の望んだ順に連れ回されて、乗りたくもないものに乗って、楽しさを見い出せる訳がなかった。
花火なんて、情緒もクソもないただの炎色反応だ。穂高に振り回されて、クソ暑い中虫が多い木の上なんかに登らされて、何が感動できる? 虫除けスプレーを振ってやる俺の気持ちにもなって欲しいものだ。
何をするにも付きまとってくるこいつに辟易している内に、今まで楽しいと思えたものも色褪せていった。こいつのお守りをする、そんな義務感が俺の世界から色を奪っていった。
俺の人生は灰色だった。好きでもないやつのオマケにしかなれない、そんな幼少期を過ごした。
だが、俺にも反骨意識というか、小さな頃から刷り込まれてきた異常に異を唱える時期はやがて訪れた。クソ喰らえだ、そう思うようになってから俺の人生は180度回転し、その全てが変わっていった。
「付き纏うんじゃねーよ。カマ野郎」
中学に入り、思春期を迎えると我慢が爆発した。抑圧されてきた感情は穂高への悪感情へと転換し、穂高をいじめる事によってクラスでの地位も確立され俺は個として独立した。
中学時代の人間はきっと性悪説に拠った精神構造をしているのだろう。俺が穂高をいじめ始めると、周りもそれに便乗して穂高をいじめるようになり、そのきっかけとなった俺はクラスのリーダー的存在に召し上げられた。
率先して他者をいじめる奴にはある種のカリスマ性があった。いじめを先導するものに付き従う事でカーストの上位に食い込める。それが中学校という、閉鎖的な社会の暗黙のルールであった。
初め穂高を拒絶する為にしていたいじめ嫌がらせは、いつしか加虐的欲求と優越感に浸る為の手段にすり替わっていた。
「おいカマ野郎、正座」
「……イオくん」
「気安く名前呼んでんじゃねーよ。ほら、正座しろ」
俺は溜まった鬱憤をもっぱら暴力という形で穂高に返した。
金銭を要求したらおばさんに負担がかかる。俺がムカついていたのはあくまでこいつだけであり、こいつのみで完結しないいじめは極力しないよう心掛けた。だからその分、より苛烈にこいつに当たっていった。
泣くまでビンタした。上半身裸で授業を受けさせた。女に嘘告白させたり、とにかく思いつく限りの酷い事はしてきたと思う。
中学二年に上がり、別のクラスになると関わりも無くなったのでいじめることもなく。いじめをしていたという事実から俺に恐怖を抱き、またそれを強さを錯覚した女子達に持て囃された事でカースト上位の位置を確立出来たので、わざわざ関わりに行く意味もなくなった。
そこからはただ、平穏な日常を手に出来た。
普通があった。
自分が選んだ友達と飯を食い、一人になりたければ自由に一人になれ、趣味の合う奴と共に遊び、語らい、遠出をし、旅行をし。ゲーセンに入り浸ったり、宿泊学習で女子風呂を覗こうとしたり、とにかく色んなことをした。本当の意味での友情を手に入れたのだ。
けど、そんな日常は長くは続かなかった。
「ぐぅっ!? はっ、あァがああぁぁっ!?」
ある夜、全身の肉と皮膚の間を虫が這うような感覚に襲われた。
酷い高熱で視界が揺れていて、骨が軋み、皮膚が剥がれ、血はこぼれ、耐え難い苦痛は一晩中続いた。
穂高の恨み、呪いだと思った。このまま殺されるのだと思った。意識を奪い去ろうとする苦痛に必死に抗い、耐えきったら穂高に殴り返してやろうとずっと考えていた。
「伊緒〜、そろそろ起きないとちこ……伊緒?」
翌朝、俺の部屋に来た母親は俺を見て絶叫した。
血塗れのベッドの上。俺は原型を留めていない、奇妙な肉の塊になっていたのだという。
すぐさま病院に運ばれた。
息子が芋虫のような形状の肉の塊になっていて、果たして生きているのだと何故判断できたのかと疑問を抱いたが、生きているか死んでいるかなんてその時はどうでもよかったとの事だった。
藁にもすがる思いで、再生する望みにかけて。母は俺を救いたい、人の形に戻したい一心で病院へ、そのから関連して救急車を呼んだとの事だった。
その後聞いた話はあまり俺も理解出来ていない。
難病指定? とされている奇病を発症し遺伝子異常が起こり、俺の肉体が急激に変貌した。それがこの症状のタネという事だった。
高速で作り替えられた細胞は破壊と侵食を伴い、他の細胞が上手く適応出来ずに凄まじい拒絶反応を起こし、出血や腫れが酷くなって肉団子になってしまったらしい。
緊急で手術をされたがほぼ90パーセント以上、助かる見込みはなかった。
そもそもその時点で俺の呼吸は止まっていたし、心臓だってほぼ止まりかけていたという。全身の骨は砕け、腫れ上がった皮膚や肉でギリギリ形が保たれている状態だった。酸素不足により脳死一歩手前で、どう考えても助かるわけが無い。
仮に人間の形に戻せたとしても酷い後遺症が残るか、植物人間状態になると医師は語っていたという。母は泣き崩れ、父はそんな母を懸命に支えていた。最期の別れを告げる、その決心もしていたらしい。
普通に治った。
俺は普通に人間の形に戻れた。腫れが引き、包帯でミイラ状態にされてはいたものの人の形に戻った時には両親に泣きながら抱きつかれた。想像を絶する痛みに泣き叫んだ。
俺からしてみれば一晩寝て起きただけ、みたいな感覚だった。何を大袈裟に、そしてこの全身の痛みはなんなのか。そんな疑問と困惑が頭の中を支配していた。
医者も目を丸くし「奇跡としか言えません!」と言っていた。余程の奇跡を起こしてしまったらしい、実質死者蘇生に近い現象とすら言われたし。
ただ、やはり手放しに全てが丸く元通りに完治した、なんて美味い話は無かった。
身体的な後遺症は残っていた。一生消えない、修復出来ない不可逆の肉体異常がこの身体には残っており、それは鏡を見れば一目で理解出来た。
「……なんか、小さくなってません? 俺」
全身に巻かれた包帯の内、腫れが安定した右目周辺のみ眼帯を外され、姿見で自分の体を見た時に気付いた。
俺はかなり肉体の成長が早かった。男子の中で誰よりも早く声変わりが起きたし、身長も既に175に達していた筈なのだ。
今にして思えば、その成長性の早さとの兼ね合いもあって一晩で肉団子状態になってしまったのだろうと思うが、ともかくその時点で俺は女と並べば確実にこちらの方がでかく見えるくらいの体格はしている筈なのだ。
目の前の鏡に映る俺はというと。隣に立っている看護婦さんに身長を越されていた。
30代くらいの看護婦さん、特に体系的に170を超える高身長にも見えない、普通体型の看護婦さんに身長で負けていた。そんな事有り得るだろうか? 不思議の国のアリスのような現象が起こっていた、頭が混乱する。
「全身の骨格を組み直したんだ、多少見た目は変わっているよ」
「多少、ですか」
どうやら実際に俺の肉体は小さく縮んでしまっていたらしい。疑問を口にすると医者さんが答えてくれた。身長が大幅に縮むのが多少の変化と呼んでいいのか、そんな疑問符が浮かんだ。
それと、声も変だった。俺が思っている自分の声よりも大分高い音を俺は発していた。これも骨格や体格の変化による物だろうか? 男というより、女の声のように聞こえる。
眼帯が取れるまでは早かったが、それ以降は可動域の広さ故か包帯が取れるまで時間を要した。
入院している間に夏は過ぎ、秋を超え、冬に差し掛かる。高校受験のシーズンになったが俺は事情が特殊な上、元より成績は上の中くらいの位置をキープしていたので進学に困る事は無かった。
試験を受ける日だけ外出許可を申請し、特別に付き添いありで受験会場に赴いた。視線は集めたものの、高校受験は無事に乗り切ることが出来た。
俺の全身がこの世に開放されたのは、高校入試の合格通知を貰い、中学の終業式が終わった直後の事だった。卒業式、出たかったなぁ……。
「……は?」
中学の卒業式に出られなかった悲しさに憂いていたが、そんなのも吹き飛ぶ程の衝撃を自分の姿を見て覚えた。
なんか、俺、女になっていた。
「なんすかこれぇ!?」
鏡に映る目の前の人物をジロジロと確認しながら自分の顔を触る。
鏡の中の人物は俺と同じ仕草をする。
同じように表情を動かす。俺の発言しようとした言葉を、高く透き通った声でそっくりそのまま発音する。
鏡に軽く頭突きをすると、普通に鏡面に額が当たった。
全ての手がかりが鏡の中の人物は俺であると訴え掛けてくる。でもその容姿は俺が見知った物ではなく、全く異なる物に変貌していた。
髪は掛かかるくらいまで伸びており、まあそこは切らず伸ばしっぱなしだったからで納得出来る変化だが……。
肌が明らかに白くなってるし、肌質もスベスベとしたものに変わってるし、顎回りとか、顔自体の大きさとか、目鼻のバランスとか、唇の大きさとか。
少しずつ全部が違うパーツに置き換わっているようで、明らかに女の物になっている。
どこか俺の元の顔に似てなくもない気はするが……正直言って、別人すぎる。整形等で変えられる範疇を越えてるとしか思えない。
あと、この目の前の女が自分だと認識した上で、その顔がちょっと普通に好みの可愛い系だったから、余計にこれを自分の顔と信じたくない。気持ち悪い。
「初めに説明した筈だが、君の体は」
「うおーっ! すげぇ、おっぱいだ!!」
「……」
病衣の胸の部分が妙に膨らんでるなと思い見てみたら俺の胸板が柔らかなおっぱいに変容していた。
触る。まるでマシュマロのような、いやもっと抵抗感が少ない本当にふわふわな脂肪の塊。
すごいすごい、ふよふよと指で弾くと波打つぞ、人体の不思議だ。さほど大きくはないが、貧乳とも言えない絶妙なサイズ感だ。
「なんすかこれなんすかこれぇ!?」
「……えーとね。君の罹患した病はティレシアス症候群と言って、平たく言えば最初に生まれてきた性別とは真反対の性別に肉体が変わってしまう病なんだ」
「え、そんなのあるんですか!? そういう魚居ましたよね!? 人間もそれ可能なんだ……」
「最初に説明したんだけどね。まあ、あの時の君は人の話なんか聞ける状況では無かったか……」
「いや、本来なら不可能というか、肉体が変貌しても死亡するケースが殆どらしくてね……」
「死亡。え、死亡?」
背中を冷たい風が吹き抜けた。俺は知らぬ間に生と死の境を行き来していた……というか、現在進行形で行き来しているのか?? 顔を青くする俺に医者は慌てた様子で付け加える。
「君の場合は奇跡的に無事に再生出来たから安心してくれ!」
「そう、すか。よかった……余命宣告とかされるのかと」
「そこは大丈夫だよ。……最も、もう二度と男の身体には戻れないから、苦労する事は沢山あると思うけどもね」
注意喚起とかそういう感じの意味合いで言ったのだろうが、なんでそんな脅かすような事を言うのか。医者は意地悪だな、と思ってしまった。
二度と、男に戻れない、か。嫌だ、今まで男として生きてきたのに、突然女として生きろだなんて。そんなの嫌に決まっている。
でも、それを訴えた所でもう決められた事であって、仕方ないのなら、嫌でも受け入れるしか無い、のかな。
文句を言うにしても、お医者さんは俺を助けてくれた恩人で。この人が俺を女にした訳では無い。責められる謂れはない。
もっと言えば、誰が悪いのかと言われればそれは変な病気をどっかから拾ってきてしまった俺の側に問題があるだろう。
「……」
「……伊緒くん、飲み物でも飲むかい? 何がいい」
「……いらないです」
鏡から離れて、今まで寝かされていたベッドに腰を下ろして床を見下ろす。長い髪が垂れ下がって視界の端に入ってくる。無力感に背中を伸ばすことが出来なかった。
お医者さんは、いらないと言ったのに暖かいリプトンティーを入れて持ってきてくれた。エアコンのよく効いた部屋だから丁度良かったが、少し口にすると、もう要らなかった。
手の中でティーカップから熱が逃げていくのを感じる。
長い時間、ボーッと床を見て打ちひしがれていた俺にしびれを切らしたのか、世話してくれた看護婦さんは俺に挨拶をしてくれて病室から出ていった。頭を振って頷いて返事する事しか出来なかった。
「……俺、昔から本音を言うのが苦手だったんです。内気で、根暗な奴で」
お医者さんは仕事が無いのか、ずっと俺の隣に居てくれた。だから、無言でいるのが気まずくなって口から出たのは今まで誰にも話した事の無い胸の内だった。
「馬鹿にしていた幼馴染が居たんですけど、ソイツが間抜けな事する度に、庇ったり助けたりして、それで人並みに他人と関われる奴だって思わせて、誤魔化してきたんです」
「そうなんだ。確かに、君は大人しい子だなと思っていたよ」
「大人しい……良い言葉ですよね。大人みたいに冷静で静かだって良い様に肯定してくれて。そんな事ないのに、子供みたいな駄々を表に出せなかっただけなのに」
狭い世界の中でしか生きられない、仲間が居られない俺の卑屈さ。馬鹿にしていた幼馴染への劣等感や憧れ。死ぬまで誰にも話さないと決めていた、自分の弱さを打ち明けていた。
「……逆に、誰も居なかったから良かったかもしれない。こんな姿になって、誰か他に知り合いが居たら、俺はソイツらに気持ち悪がられてた」
「そんな事ないと思うよ」
「そんなこと無くても、俺はそう思うんです。人に嫌われるのが嫌いなんです、仲良くしてる奴らに嫌われるのが怖いんです。引いたような目で見られたら、きっと、生きていけない」
「……」
「……それか、もしアイツがこの場に居てくれたら。逆に俺を見て驚くアイツを茶化してもっと前向きなフリを出来たかもしれない。……まあ、アイツと居ると自分が惨めに思えて、俺が自分でアイツを拒絶したから来るわけなんか無いんですけどね」
自分の手を見る。小さくて、白くて、柔らかそうな手。しなやかさよりも丸みが多くて、今までの生活で着いた傷やタコが一切無くなった、まっさらな手を頬に当てる。
「………………俺の事、助けてくれてありがとうございました」
「伊緒くん?」
目を手で覆って天を仰いでから手を離して立ち上がる。突然飛び込んでくる光に視界が黒く塗り潰されてる内に医者の方を向き、お辞儀をする。
「退院っすよね。荷物まとめたらすぐ出てくんで。今までありがとうございました」
「いや、まだ居てくれても構わないが……」
「大丈夫です! 親に連絡を取って今日にでも帰ります! ちゃんと定期検診は行きますので!」
「無理しなくてもいいんだよ……? 慣れるまでしばらくここに居ても」
「大丈夫です。別に、思ったより全然、メンタルに来なかったので。思えば性別が変わっただけとか大した事ないですよ。人間の形してるし、全然ピースです!」
医者は最後まで俺の事を心配し気遣ってくれた。
困惑はあった。戸惑いだって。今までずっと男として生きてきて、思春期もそれで過ごしてきた後に突然女にされたのだ。受け止められないし、受け入れられる訳がない。
けど、これは病気なんだ。そういう、不条理にも思えるけどそうなる病気なのだから仕方ない。そう思い飲み込む事にした。
いち早く外の世界に戻りたかった。俺は早々に会話と別れを終えると約一年ぶりに、変貌した肉体で病院の外の地面を自分一人で踏みしめた。
「お、おかえり。伊緒……?」
共働きの両親が迎えに来るより、自分から地元の駅に行く方が早い。そう思った俺は、電車を乗り継いでなんとか最寄り駅まで着いたのだが。
予想に反して両親は駅で待機していた。身に付けている服装と、スマホの画面と遠目の俺を見比べて確証を得てからの反応から推理は容易であった。
再開した両親の俺への反応は、半信半疑、という感じだった。
父も母も、俺を得体の知れない生物を見る目で見ていた。息子であると説明された、誰かも分からない赤の他人。そう思っているのがヒシヒシと伝わってくる。
「……あの、父さん」
「あ、あぁ。ほら、乗りなさい。よく帰ってきたな、伊緒。……で、いいんだよな?」
「……ん」
母が父の背を叩いた。気にしなくていいよ、と言い車に乗る。
懐かしい匂い、に混ざった知らない芳香剤の匂い。父はどうやらこの一年のうちに芳香剤を変えたらしい。
一年ぶりに乗った車がなんだか自分の知らない空間になっているようで、疎外感を覚えてしまう。よそよそしい両親、知らない匂い、でも座り心地は以前と同じ車。
……俺は、下を向いて何も考えないようにした。
一年間もの間、俺は世界から断絶されていた。
何度も死にたくなった。
何度も怒り、泣いた。暴れる度に押さえられて、呪いを口にした。
暗闇のみの世界で過ごした一年は、それはそれは気が狂った方がマシだと思えるほどに残酷に俺の心を蝕んで行った。
医者が言うには、俺は外見のみならず、ハラワタも、脳みそも、何もかも、ホルモンの関係でその心すら女の物にすげ替わっていると言い放った。
道理で。女は涙脆い生き物だ。
何も考えないようにしていた筈なのに、勝手に目から涙がこぼれ落ちた。喉が震えて、無感情であれという俺の意志とは裏腹に絶え間なく嗚咽が漏れ出る。
「伊緒……」
「っ、ごめっ……なんでもっ、ないから……」
心配する両親に大丈夫と言った。二人の様子から分かった、俺が入院してる間大分心労を掛けてしまったのだろう。父も母も、クマが出来ていて前よりも疲れた顔をしていた。少しだけだが。
これ以上心配をかけたくなかった。俺なんかの為に心を痛めないでほしかった。
早く泣き終えなければ。そう思っている筈なのに、勝手に肩は震えるししゃっくりのような嗚咽は留まることをしない。
「伊緒。これ、使って」
「ひっく……ありがと。母さん」
母が手渡してくれたハンカチで目を押さえる。鼻が熱い。こんなに感情的に、奥から湧き出るものを押さえようと泣いたのは人生で初めてだ。
少し心が落ち着くと、母に礼を言って再び足元を見つめる。
「なあ、伊緒」
運転中、父が俺に声を掛けてきた。顔を上げ、ミラー越しに控えめに父を見ると、目が少しだけ合った。
「お父さんな、ずっと考えていたんだ。伊緒と実則くんが仲良かったから、二人を纏めて祝うことはあっても、伊緒だけ特別に祝う事って無かったなって」
「……別に、気にしてない」
嘘だ。結構気にしていた。
誕生日でも、クリスマスでも、まるでアイツとセットみたいに扱われてきた。アイツと同じタイミングでプレゼントを貰う度、主役になれないことを心の底では嘆き、憎んでいた。
……逆恨みも良い所だ。アイツだって言ってしまえば被害者だ、真に憎むべきは自分の親であろう。
でも、やはり家族と赤の他人じゃ、感じ方が違っていたのだ。贔屓だってする。
「だから、その……お前の座ってる位置から見て右隣に置いてある袋、それを開けてみてくれないか?」
「袋?」
先程から気になっていた、金色の巾着式の袋に目をやる。何故金色。
「お前へのプレゼント、だ。一応……」
「はぁ。一応ね」
母が父の肩を叩いていた。父は「照れ隠しくらいいいだろ! 伝わるだろ!」と反論していたが、母的にはシチュエーションを大事にしてほしいとの事だった。敏腕脚本家のようなセリフに思わず少し笑ってしまった。
「これ……」
袋をガサガサと開け、中身を取り出すと。そこから出てきたのはディズニーで売ってるクマのぬいぐるみだった。
「息子にぬいぐるみを上げるのはどうかと思ったんだが、ほら、修学旅行行けなかったろ。だから……」
「食べ物は腐っちゃうし服なんかもその、説明を聞いてると正確なサイズが分からなかったから。ごめんね、趣味じゃないかもしれないけど……」
「い、いや。嬉しい、よ。ありがとう、二人とも」
「そ、そうか!」「でしょー? だから言ったじゃない! 伊緒なら絶対喜んでくれるって!」
母が運転する父の事を嬉しそうに小突いている。
ぬいぐるみは実際趣味じゃない。でもそんなのどうでもいい、この歳になって、15にもなって初めて親から自分だけに贈られたプレゼント。
二人に見られないように位置を調整し、背もたれの後ろに来るとひっそりとぬいぐるみを抱き寄せる。……うん、抱き枕に丁度良さそうな大きさだ。
「……」
「どうしたの、伊緒?」
「んーん。なんだか、うん。こんな身体になっちゃったけど、悪い事ばかりじゃないなって」
ぬいぐるみを袋の中に戻す。
もし今までのまま、普通に中学生活を終えて、高校生になって、大学生になって、社会人になったら。こんな風に二人から俺だけへのプレゼントを贈られる事など無かったと思う。
今でも穂高の家とは親同士で付き合いがあって、子供達は疎遠になってるのに事ある事に連れ回されて顔を合わせていたし。
だから、この俺だけの瞬間を手にできたのは、別の肉体に変貌するという最悪の出来事が起きなければ訪れなかった特別な思い出なのだ。
複雑な気分だ。自分が自分じゃないみたいで嫌で仕方ないのに、ほんの少しだけ、こんな身体になって良かったと思えた。
「……? どうしたの、母さん」
足元を見るのを辞め、ようやく窓の外を眺めようとしたら。助手席から俺の事をジーッと見つめていた母の視線に気付く。
「ねえ、伊緒。ちょっと寄りたい所があるんだけれど、いい?」
「いいけど、何処? 俺の知ってる所?」
「知ってはいるだろうけど、入った事はあまり無いかな〜」
「???」
にしし、と悪戯な笑顔で笑う母に少しだけ嫌な予感を感じつつ、しかし久しぶりの外の世界を堪能したいという思いもあり俺はその提案を即答で呑んでしまった。結果的にそれは必要なことではあったのだが、約20分後、俺はこの瞬間を後悔する事となる。