プロローグ『穢れ』
麗らかな春の陽気。桜は散り、夏を控えた草木が青くなる暖かな五月。
男のままだったのなら、わざわざ早起きして身だしなみを考えて整えたりせず、シャワーを浴びてドライヤーと手ぐしだけで軽く髪を整えてパッパと学校に向かっていた。
女兄弟という存在はやはり疎ましい。男だった頃は全然干渉してこなかった癖に、性別が変わったというだけで手のひらを返したように過干渉気味に関わってきやがって。スキンケアやメイクなどしなければまだ沢山寝られたのに。許し難い。
「はあ……」
溜め息をすると幸せが逃げるという俗説が嫌いだ。だって、少なくとも俺は精神的な負担を和らげる時為に溜め息を吐いて発散してるんだぞ? 俺的にはむしろ幸福度を回復させる行為としてやっているのだ、咎められる謂れは無いだろ。
遠回しな言い方せず、他人の溜め息は目障りだからするなって直接言えばいいだろ。言われても止めないが。
なんて、下らない考え事をしながら靴を履き、扉を開ける。
「うおっ」
「あ、ども。おはようございます」
「……」
「……? あの、なんですか?」
「……あ、いや! ど、どうも」
外に出ると、丁度同じ階層に住んでいる若い男がうちの前を通ろうとしていた。ドアを引き、会釈する。
男は、俺の顔を見つめ、視線が下がり、胸の辺りで一度止まり、さらに下がってスカートをチラッと見た後、すぐに俺の顔に視線を戻した。
……不快だ。エレベーターは使わないで下まで降りる事にした。
「昨日のドラマ見た!? ヤバくない、めっちゃイケメン出てきた〜!」
「見た見た! 新たなライバル登場だよね〜!!」
家から駅までは徒歩で五分くらい。俺と妹、それと両親が住んでるマンションの一階にはセブンイレブンがあり、当然の如く登校時間が近付くと出勤ラッシュのサラリーマンや高校生達でコンビニは賑やかになる。
コンビニ前でたむろしている女子達が喧しい声で騒いでいる。制服を見ると、俺の着ている物と同じ高校の物と一目でわかった。そして目が合う、女子は二人いたが、どちらも面食らったような顔をした後コソコソと小声で俺を見ながら何かを話し始めた。
……本当は途中で食べるつもりだったマシュマロといろはすを買うつもりだったのだが、やめた。中に入ったら着いてきそうな感じがあったし。触らぬ神に祟りなし、早歩きで駅の方へ向かう。
「うぇ〜い! もーらい!」
「おわっ! おい返せや!! 人のアイス奪うな!!」
「ケチケチすんなや〜。おっと!」
「動くな!」
「うおっと! 危ない危ない、ヒョイッ……ととっ!? あ、すんません!」
歩道橋から直接アクセス出来る駅の二階入口を経由して切符を買おうとしたら、切符売り場横でじゃれていた男子高校生達のうち一人にぶつかられた。
わざとじゃないのは分かるが、反動で少し飛ばされて丁度俺の付近を歩いていたサラリーマンにぶつかってしまった。頭を下げて謝り、男子高校生を睨む。
「うわっ! すっげえ美人……じゃなくて、ごめんなさいっ!」
「……気を付けてくれ」
「めっちゃ怒ってんじゃん……すんません! あ、てかその制服、東高っすよね?」
なんでその会話の流れで高校がどこかと言う話になるのか。ぶつかってしまった人にも申し訳が立たないし、ここはしっかり謝罪して欲しいのだが。
……さっき謝ったサラリーマン、チラチラと俺のスカートに目が行っていた。なんで他人の視線ってこんなに分かりやすいんだ? 動き方がワンパターンだから眼球の動きに順応してコチラが気付きやすくなってるだけなのだろうか?
……本当に嫌だ。自分の体が性的な物として扱われてるみたいで嫌気が差す。知らない赤の他人に消費されてるような錯覚を覚える。
不快だ。気持ち悪い。切符を買うと、さっさと改札を通って階段を登る。
この生活を初めて1ヶ月経つが、俺は俺を取り巻く世界の変化に慣れるどころか、どんどん他者に対して攻撃的になっていく。
「ねえねえ、君」
「……」
「君。待って」
俺のすぐ背後で、誰かを呼ぶ男の声がした。気にしないでおこう、そう構わず歩いていると腕を掴まれて強引に歩みを止められてしまう。
こんな強引なナンパは初めてだ。辟易する。出来る限り無反応の無感情な表情を取り繕いたかったが、苛立ちが遥に勝って鬱陶しがる表情を隠す事が出来なかった。
俺の顔を見ると、腕を掴んできた金髪のバンドマンのような男が目を丸くし「ごめん、ナンパとかじゃないから安心して」と言ってきた。全く同じ手口のナンパを昨日受けた。こういう下らないものにも定型文とかあるのだろうか?
「これ、落としたから」
そう言って男は定期券とか銀行カードとかが入っている俺のカードケースを渡してくれた。なんだ、本当に親切心か、これは失礼な事をしたな。
ちゃんと相手の方を向き、頭を下げる。
「ありがとうございます、とごめんなさい! オレ、なんか勘違いしちゃって」
「いいよ、仕方ないよね。俺こんなんだしさ」
あはは、と笑いながら男は自分の顔の前で、顔を囲うように指で丸を描いた。軽薄そうな見た目である事は自覚しているらしい。
「あはは、音楽とか、ロックとか! 好きそうな見た目してますよねっ」
「よく言われる〜。楽器とかからっきしだけどね」
「えっ、ヴォーカルって事ですか? 歌うまさん?」
「どうだろうね。確かめてみる?」
バンドマンはそう言ってサッとスマホを出す。だと思った、やっぱすぐには立ち去らないんだ、こういう手合いは。
「LINEとか、インスタでもいいし交か」
「しないです。やっぱりナンパじゃないすか、勘弁してくださいよ」
「ナンパじゃないよ! 友達づ、く、り」
「……間に合ってます」
ぶっきらぼうにそう言うと、階段から遠い位置の停車位置まで来て電車を待つ。ま、間に合ってますとは言うが、現在俺に友達と呼べる間柄は皆無なのだが。
「ふぅ。暑う」
「……」
1分と経たずに背後に小太りの壮年の男が立つ。 階段近くの待機位置は人が並んでないのに。わざわざ俺の後ろに。何なんだ、本当に。
気持ち悪い。慣れないスカートが風に吹かれる度に中が見えそうになり、慌てて手で押さえる。
気持ち悪い。髪が汗をかいた肌に張り付いて気持ち悪い。
男の視線が、意識してなくてもこの身体に注がれてるのが分かってしまって気持ち悪い。
この人の目を引いてしまう顔も、服を着てても少し目立つ程度には大きい胸も、細い手足も白い肌も、全部見世物にされてるようで不愉快だ。
隣の列に立った同じ高校の生徒が俺の横顔を見ると、数秒間硬直していたのが気持ち悪い。
少し離れた位置で男達数名が俺をチラチラ見ながら小声で呟きあってるのが気持ち悪い。
周りへの鬱憤を溜め込みながら待機する事2分弱、ようやく電車が到着しドアが開いた。