第七講:並行世界と群
今日の講義は部屋を移動することなく、三限の後そのまま居座ることになった。終わったー、とか飲み行こうぜ、とか声が飛び交い、人が次々と減っていくが、その人混みの中からひょっこりと見覚えのある女性が出てきて俺は驚いた。
「いや、たまには学生の気分で講義を受けるのもいいな。心地いい懐かしさだ」
「暇なんですか」
「暇ではないぞ。他の仕事を詰めて、聴講する時間を作っただけだからな。もちろん、普段から仕事の密度が低めであることは事実だが」
「じゃあ、暇じゃないですか」
「ところがそうでもない。私は頻繁に様々な並行世界に行ってデータを取っているからな。それに一つ並行世界に行くのにも、安全性を精査して綿密な計算を行う必要がある。治安や環境の問題で安全だと判定した世界であっても、その並行世界へ移動する際の安全性は別問題なんだ。少しでも計算がずれると、頭と胴体が別々の世界へ行ってしまうこともある」
「それって」
「まあ、まず間違いなく死ぬだろうな。だがこれはあくまで脅しだ。私も十分吟味してから初めての世界に行くし、君たちが私の指示を守ってくれさえすれば、危険な目に遭うことはない。軽く旅行をする気分で出かけて帰ってくることができる。ちょうど今、選択肢となる世界の選定中だ」
教授は一番前の教壇に荷物を置き、黒板の前に立つ。
「少し休憩してから始めよう。講義をする側もそうだが、受けるだけでも疲れるな」
その一言で、俺たちは二十分ほど休憩した。普段の休憩時間は十分だから、心なしかいつもよりリフレッシュできた気がした。
「さて……前回、群論の振り返りをしてほしいと述べた。これまで話してきた並行世界が、どのように群論と関わってくるのか……それを考えたことだろう」
見事に俺たちの心理を見抜いている教授。素直に驚いた。図星か、と分かったかのように教授はにっと笑って、続けた。
「化学においては結晶構造や分子の対称性――不斉炭素やキラルアキラルの話が関わってくるようなところだが、そのような群論の応用の仕方とは少し性質が異なると、私は考えている。なぜならば、ここで群ととらえるのは各並行世界そのものだからだ」
「はあ……」
「群の定義を思い出してほしい。閉じていること、結合法則が成り立つこと、単位元および逆元が成り立つこと。順番に説明しよう」
教授はまず、集合を描く際に使うような一部が欠けた円を描いた。見方によってはランドルト環にも見えるものだ。
「一つ目、閉じているかどうかというのは、群と見たいもので定義された演算をある元に対して行った際に、演算結果も必ず構成元になるかどうか、を意味する。複素数の集合に対して足し算を行うと定義すると、演算結果は必ず複素数になるから、これは閉じているということになる。一方自然数の集合に対して引き算を適用すると、演算結果は負になる場合もあるから、これは閉じていないということになる。ここまでは問題ないだろう」
俺たちはうなずく。群論には一応軽く触れているので、それくらいのことであれば分かる。教授の説明もそう難しくはない。
「ここで、並行世界を群と見なしたい時に、演算をその並行世界内で起きる事象全てと定義しよう。例えば私が朝食にパンを食べる、でもいいし、君たちが講義をサボって飲み会に行く、でもいい。つまり演算は一人の人間に絞ったとしても無数に存在するが、そのような演算の結果、その世界の掟から外れた事象が起こることは、果たしてあるのだろうか? ……答えは、基本的にはあり得ない、だ」
基本的にこれまで教授から教えられてきた特殊並行世界論というのは、普段の俺たちからすれば「ぶっ飛んだ」話ばかりだ。その視点から考えれば、何か俺たちの行動一つで、世界の法則の外にあるような現象が起こるかと問われれば、はっきりと首を横に振ることができる。
「君たちが想像しやすい異世界転生、異世界転移の類は、別の並行世界に接続してしまっている。この点で、異世界転生や異世界転移が実際にできてしまう世界は、閉じた系ではないことになる。どのように異世界に接続したかではなく、何らかの方法で世界間移動ができるかできないか。判断基準はそこになる」
俺たちの世界で、並行世界に移動できるという話は聞いたことがない。と言おうとしたが、今まさにその話をしていることに気づいた。
「気づいたかもしれないが、この世界はどうなのか、という問題が残る。この世界に限らず、私に似た存在が世界渡りをしようと試み、実際に成功した世界はどうか。私の定義だが、これは例外としている。閉じた系であるところにわざわざ穴を開けて、別の世界とのつながりを作ろうとしているからだ。私のように、一見世界にとっては不必要ともとれる行為を行う者を『干渉者』と呼ぶ。系が閉じていないと考えられる理由が干渉者にあるのであれば、それは実質的に閉じているとみなす。逆にそうではなく、例えば座標の揺らぎで歪みが生じ、別の世界に接続しているのだとすれば、それは閉じていない系ということになる」
教授が板書した群であるための四条件のうち、「閉じている」に丸をつけた。
「理解しているかもしれないが、今行っているのはまだ漠然としているであろう並行世界の数々を分類する、という作業だ。ここまでの話を振り返っておくと、反転世界だったり閉じていない世界だったりと、『ない』ことに重点を置いてきた。それは分類が私の手によってすでに終わっていて、だいぶ知見も得られているからだ。そしてこれらの世界に、学生の君たちを向かわせるわけにはいかない。いざ演習を行う際は君たちに世界を選んでもらうが、その時に前提知識があるのとないのとでは大きな差がある。それを学んでいるということを、今一度認識してほしい」
「はい」
「では、次に行こう。今考えているのは、非反転世界のうち、群ではない、すなわち非群の並行世界だ。次は結合法則が成り立つかどうか。結合法則について、簡単に振り返ろう」
(X×Y)×Z=X×(Y×Z)
「簡単に言えば、演算の順番を入れ替えても同じ答えが得られる。これが結合法則だ。ではこれを並行世界論にあてはめればどうなるか? 例えば、田宮君の朝のルーティンとして朝起きて朝食をとり、歯を磨き、身だしなみを整えて家を出る。この三つをそれぞれX、Y、Zとして考えよう。演算の結果として、朝の準備をすべて終えた田宮君が出来上がるのは変わらない。この式の左辺は朝食をとり歯を磨いて、その後に身だしなみを整える。右辺は歯を磨いて身だしなみを整え、その後に朝食をとる。どうだろう、この二通りの行動で、その日のコンディションや運命は変わるだろうか? ……ああ、もちろんいつものルーティンが崩れるから調子が出なくなる、といったことは考えずに」
少し考える時間があった後、教授が意見を聞いてくれた。俺は変わるに一票。瀬川と来栖の二人は変わらない、と結論づけた。
「実はこれは、両方正解だ。これまでの私の話をよく理解してくれているなら、変わると答えるだろう。だが、よく理解した上で深読みすると、変わらないと答えてくれる。正解というより、私の解釈は、変わらないの方だ」
「でも、……並行世界が分岐する、んですよね?」
「そう。順番が入れ替わったという、ほんのささいなことでも、並行世界は分岐し複数の世界が生まれる。だが考えてみてほしい。結局同じ結果が得られるほど近しい世界ならば、いずれ全天の負担を減らすため、この二つの並行世界は融合するだろう。つまり、先に挙げた結合法則は演算がなされた後のごく初期には成り立たないものの、結果を見れば成立する、ということになる。この場合は、結合法則が成立する、と考える」
しかし続きがあると言いたげに、教授はXYZの横に書いた事象を消し、別のものに書き直した。
「しかし並行世界の中で起きる事象はこんな小さなものばかりではない。Xを『戦争をする』、Yを『植民地支配政策を行う』、Zを『他国と交渉する』とすればどうだろう。状況は一変するはずだ。左辺は『戦争をして植民地支配をし、その結果他国と交渉する』から、立場的に弱かったであろう国に戦争を仕掛け、勝利したことを理由に植民地支配を開始し、その後被支配国の資源に目をつけた列強と交渉し、その国が持つ別の植民地と交換した、といったストーリーが考えられる。一方右辺の場合、どうなると思う? 瀬川君に聞いてみよう」
「そうスね……YZが先ってことは、元から植民地支配をしてて、列強が割り込んできて交渉したけど、まとまらずに決裂して戦争になった、とか?」
「なるほど、なるほど。その際、自分の国と戦争になっているのは、割り込んできた列強のはずだ。つまり、戦争の相手が異なるほど、この両辺の演算は違ったものになる。これほど差があれば、おそらく並行世界の融合が起きる可能性は小さい。結合法則も成り立たないことになる」
「何が言いたいんですか」
「ここまでの説明で、君たちにはバイアスがかかっているかもしれない。つまり並行世界の大部分は、群であるための条件を満たしていると思ってはいないか?」
「……そうか」
「そう。この後説明するが、単位元および逆元を有し、そして閉じていても、結合法則だけは成り立たない、という世界がほとんどなんだ。つまり群である並行世界の方がマイナー、ということになる。これを頭に入れたうえで、あと二つ、単位元と逆元の話を聞いてほしい」
教授は「単位元」「逆元」とホワイトボードに記した。
「単位元eは『x・e = e・x = x』が成り立つような、集合の構成元だ。すなわち演算の方向が前からでも後ろからでも、演算結果に影響を与えないような元を指す。これを並行世界に適用するには、単位元をどのようなものと定義すればいいだろうか?」
「でも、どんな事象でも多少は演算結果が変わりますよね? 本当の意味で、というか、並行世界論的には、全く意味のない行動というのは存在しないと思うんですが」
「その通りだ。並行世界論においては、どんな行動であってもそこには必ず別の選択肢が存在し、世界は一度分岐する。そう考えれば、分岐すら起こらないような『無意味な行動』というものは存在しない。だが、分岐の中には本当に些細なものも存在する。それは結果だけを見れば、世界どうしが融合し元の一つの世界となる。この場合、結果論で考えて、世界の進行に影響を与えない事象が存在するとし、これを単位元と定義する」
ここまで来ると、並行世界に群論の考え方を適用するのはだいぶ無茶なのではないか、とも思ったが、そこは教授なりにそうした方が便利だという理由があるのだろう、と考えることにした。同じようなことを考えていたのは俺だけではなかったらしく、来栖が発言した。
「ちょっといいですか。結果論的に単位元を定義することとか、並行世界論自体、結果論で考えることが多いんだなってことは何となく分かったんですけど、そもそも単位元って一つの群に対して一つしか存在しないんじゃありませんでしたっけ」
「鋭いな。そう、今言ったように単位元を『結果的に世界の進行に影響しないような事象』と定義するならば、一つの並行世界の中に単位元が無数に存在することになる。しかしそれは、本来の群における単位元の定義と矛盾する。だが、そこには目をつぶってほしい。基本的に単位元が一つしかないような世界は存在しない。そして、単位元がたくさんあってくれた方がいろいろと便利なんだ」
「便利? どういうことですか」
「実は並行世界を特定するパラメーターの一つは、この単位元の多さなんだ。要素の数も関係するから、より正確に表現するならば密度や濃度といったところだが。単位元が多くあるということは、結果的に無意味に見える分岐がたくさんあるということ。それは並行世界そのものの豊かさに関係してくる」
「それを指標にする意味があるんですか……?」
「分岐した並行世界は、互いに干渉しないように全天上での座標が離れる方向に作用する。が、それは全天の時間軸で大昔に分岐が起こった場合の話で、ごく最近、それこそ我々の世界で数十年前に分岐した世界どうしの場合、まだ反発力が働いておらず非常に近い位置にあることが多い。あるいは完全に重なっていることもある。その際に並行世界どうしを区別するのに役に立つのが『単位元指数』と、もう一つ追って説明する『逆元指数』だ。詳しくは、並行世界を定義するパラメーターの説明の際にまとめて行おう。いろいろ考えてみてほしい、そして可能ならば意見を欲しいところだからな」
教授はホワイトボードの端の方に「単位元指数Iu Index of Unit element」と記す。単位元の話はそれで終わった。
「いったん単位元から離れて、逆元の話をしておこう。本来の逆元の定義は、『ある元と演算することで単位元となるような元』だ。すなわち整数の和を演算とする場合、3に対する-3。実数の積で考えれば、3に対する1/3といった具合だ」
「それを並行世界に当てはめるってことは……選ばれた選択肢とは真逆の事象ってことですか」
「平たく言えばそうなる。ある事象Aを打ち消し、そのAが最初からなかった場合の世界進行に戻すような事象のことを逆元と呼ぶ。戦争に突き進んでしまったが、後から和平交渉をする道を選び、最初から戦争を始めなかった世界進行と同じになれば、この『和平交渉を行う』選択肢が逆元だ。例からも分かる通り、逆元は無数に存在してしかるべきものになる。この逆元が多ければ多いほど、あるいは少なければ少ないほどどうなるかというのを、『逆元指数』としてパラメーターの一つに数えている」
閉じている、結合法則の成立、単位元の存在、逆元の存在。群であるための四条件を全て丸で囲み、説明を終えた教授は、少し沈黙の時間を作ってからまた話し始めた。
「今回は話が長くなったが、最後に一つだけ触れておこう。ほとんどの並行世界は反転世界でなく、群であるための条件を満たさない。そこからさらに細かく分類をする前に、群である世界とは逆にどのようなものなのか、考えておく。先ほども述べたが、群である並行世界は結合法則を満たす。どの順番で演算を行っても積、すなわち結果が変わらない。それがどのような世界進行をもたらすだろう?」
「順番が入れ替わっても結果が変わらない……ということは、ずっと予定調和が続いてるってことですかね」
「おおよそ正解だ。どこかで話したが、並行世界それ自体も、楽な方、楽な方へと流れていく習性がある。選択肢を都度提示するというのも実は負担が大きいことで、それをしてもしなくても結果が変わらないのであれば、そもそも選択肢が出ない、という方向へ変わっていく。世界進行はただ一通りしか存在せず、何の起伏もない、おそらく私たちからすれば退屈な世界であることだろう」
「ということは、それは全ての並行世界の基準になっているのでは?」
「おそらく。その可能性は非常に高いだろう。というより、ほとんど事実に近い。なぜならば、そのような世界を訪れた経験こそないものの、すでに『観測』はできているからだ。そして、そのような世界がたった一つしか存在しないということも、証明ができている」
「観測……?」
「今日は少し長くしゃべりすぎたし、群の説明は大方終えたから、ここまでにしておこう。次回はこの『結合法則が成り立つ世界』に関連する概念を話そう。キーワードは『準同型写像』だ」
想像するとすれば、それはかなり言葉の意味通りになってしまう。そんなことを考えながら、俺たちは一週間を終えることになった。