第六講:反転世界と座標
結局のところ、庵郷教授が出した課題に俺たちはギリギリまで取り組めなかった。それはもちろん、俺たちがこれまで散々単位を落とし、そのツケが回ってきたからだ。再履修者が元々少ないような講義はまだマシだが、逆に多いものだと細かく課題を出して最終試験の配分を減らす教授がほとんどで、課題に次ぐ課題ラッシュだった。庵郷教授には余裕がなければ後回しにしてもいい、と言われていたから、その通りにした結果こうなったのだ。
「お、来たか。今日は少し考えながら話すかもしれないが、許してほしい」
「どういうことですか」
「そもそもこの講義自体、ざっくり話すことだけ決めて細かいところはここに立ってから決めているんだが……」
「それは、何となく分かります」
「まあ、そうだろうな。そして今回は、そもそも何を話そうか考えあぐねているんだ。前回、反転世界について概説したが、その話を掘り下げることもできる。それをせずに、前回述べたいくつかのパラメーターの話を進めることもできる。どうする? どちらにせよ、君たちにとっては忙しい日々の講義の息抜きにはなるだろうが」
俺は前回の講義で、あれだけ反転世界について熱弁し、レジュメまで配り、分厚い本を出しまくったにも関わらず、今回反転世界の話を終えて次に進むこともできる、という可能性を提示されたことに驚いた。てっきりもっと話をしてくれると思っていたのだ。だから迷わず、前者をお願いした。
「そうか……まあ私が、千年二千年と時間をかけた話だからな……もっと時間を割いても、構わないか」
「そもそも、先生の趣味みたいなところがあるんじゃないですか、この講義?」
「それはその通りだな。自伝に近い話ばかりしているし……こうして三人も履修者が現れてくれた時点で、十分成功と言えるだろうな」
こうして、ぬるりと今回の講義は始まった。教授は反転世界、と板書する。
「まずは反転世界の主だった特徴を振り返ろう。最も大きいのは、我々が知る既存の物理法則に従わないこと。そして法則もある一つのものが常に成り立つのではなく、流動的に変化すること。例えば運動エネルギーが速度の何乗に比例するかも、極端な話、年によって変わる」
「……そうなんですね」
「驚くかもしれないが、これが反転世界にとっての常識なんだ。そうでもしなければあらゆる世界の原点には君臨し得なかった、と言い換えることもできるだろう。結果として、そうはならなかったのだが」
「原点を便宜上決める……という話ですが、本当にそうした方が上手く行くんですか」
「ああ。結局少し先取りして話すことになるが、並行世界を定めるパラメーターの一つは、直交座標系と極座標系。そして必要十分条件は、『全天においてその位置が、三次元直交座標系および極座標系で明確に表現できること』だ。どちらかではダメで、どちらも定義できる必要がある。この二系において、原点は重要な意義を持つ。そうだろう?」
「確かに」
直交座標とは、よく馴染みのあるxyz座標。極座標は原点からの距離と角度によって表すもの。極座標は特に、原点以外は非常にシンプルに書き表すことができる。三次元空間であれば、角度は二種だ。
「気をつけてほしいのは、種々のパラメーターを用いて一つの並行世界を特定したのちに、その世界の中でのある位置を書き表すのにもこれらの座標を用いることだ。こちらはどちらかで表現できればいい。この場合の直交座標系における原点(0,0,0)は、長さの単位によらず内核の中心、すなわち地球という構造物の物理的な中点を指すことがほとんどだからだ。そうすれば、どこの国であろうと、地下や上空の地点であっても、どちらかでは必ず書き表すことができる」
「その理屈だと、この世界も例外になりませんか。極座標表示ができないので」
「そうだ。だから私の打ち立てた理論では、この世界が原点であることが大前提になっているんだ。実際にこの世界が原点たり得るかは置いておいて、そう定義すればほとんどの世界は直交座標表示と極座標表示が可能になる。そして、これは他の並行世界から見ても同じだろうから、別の世界の私が同じような理論を打ち立てているとすれば、原点は別の私が生きている世界になるだろう」
教授は「定義外」「特殊並行世界論」の二語を板書で付け加えた。
「直交座標系と極座標系の両方で表現できる世界がほとんどである中で、例外がいくつかある。そのうちこの世界はもとより例外となるように定義しているから構わないのだが、残りいくつかはどうしても包括できない。これを反転世界、と呼んでいるんだ。反転世界の内情については以前説明した通りだ」
「定義できないというのは、具体的にはどういうことなんですか」
「現在分かっているだけでも、反転世界は三つ存在する。さすがに全天をくまなく探せてはいないから、四つ目五つ目と見つかる可能性はあるが。三つのうち二つは極座標の角度が定義できない。存在はするが、全く同じ距離、全く同じ角度に別の世界が存在する」
「世界どうしが重なっている、ということですか」
「そうだ。本来それは考えられない現象だが、重なることによって生じるエネルギーの歪みを反転世界の側が受け入れることで、同時に成立しているようだ。……『ようだ』というのは、一つの並行世界にしては膨大なエネルギーが観測でき、反転世界がそこにあると考えるのが最も自然、というだけだ。少なくとも私の理論では、普通の世界が二つ同じ場所に存在することはできない。ちなみに、論理的に存在すると結論付けているだけで、行くこともかなわない」
「……では、残り一つは?」
「それが、前回の講義で軽く触れた反転世界だ。一応今後のために、私は反転世界を分類して命名している。先ほどの二つが『非自立的反転世界』、そして残り一つが『自立的反転世界』だ。ちなみに、ほぼ事実に近い予想だが、『自立的反転世界』はすでに発見した一つのみであり、これから反転世界が発見されたとしても、それらは全て非自立的の方になる」
「『自立的反転世界』には、何か異なる点があるんですか」
「直交座標においては、複素数の値をとる。極座標においては、距離がマイナスの値をとるんだ。通常はあり得ないことなんだが、そうしなければ存在を定義できない。そういう意味で、私が専門としているのはあくまで『特殊』並行世界論なんだ」
「三つの反転世界を包括できて初めて、一般並行世界論ということですか」
「より正確には、これから発見されるかもしれない新たな反転世界も含めるがな。つまり、新しく発見された世界に対して、統一された基準を用いて世界自体が有するポテンシャルを一意的に表現できて、初めて一般化されたと言えるんだ」
教授の語気からも、それがいかに難しいことであるかがよく分かる。ほとんどの世界を包括できているにも関わらず『特殊』と称しているところに、絶対に一般化した理論を打ち立ててみせる、という決意さえ感じられた。
「並行世界はこれまでも、あるかもしれないと散々言われてきた概念だ。しかしそれを大真面目に理論化しより現実味のあるものとしたのは、私が初めて。今後各並行世界を定義するパラメーターの説明をするが、それも査読の結果認められたものだ。そしてまだ知見の浅い分野であるがゆえに、少し数値をいじって新しい並行世界へ行き、そこでの知見をまとめるだけで、すぐに論文を書くことができる。とはいえ、それが許されるのもこの先十年ほどではあると思うが」
「……もしかして、俺たちにそれをやらせようとしてます?」
「悪くない体験だぞ? 自然科学はとかく研究が進み切ってしまって、枝先の枝先を違って見えるように装った論文ばかり世に出ている。基礎研究やら、今後の種になるような発想を得られる論文は非常に少ない。となれば当然、研究者が査読付き論文を一つ出すのにもひどく苦労することになる。そんな現状で、大学生らしいレポートを一つ書くだけで、あとは私が体裁を整えればファーストの論文が出せるんだ。おまけに私の知見にもなる。こんなにきれいに一石二鳥という言葉が当てはまる話はない」
やっぱり俺たちをダシに使おうとしている感は拭えなかったが、心底楽しそうにする教授を見て、一旦様子見するか、と思ってしまうくらいには俺たちは毒されていた。
「第六講にしてようやく、講義名を回収できたな。では次回から、並行世界を論ずるうえで必要な概念を考えていこう。大雑把に、イメージだけで構わないから、群論の振り返りをしておいてくれ」
「群論、ですか?」
「そうだ。詳しいところまで踏み込むつもりはないが、君たちが基礎教養として一年生の時に学んだ程度の群論について背景知識があると、次回以降の私の話がイメージしやすいからな」
それで今日の講義はお開きになった。群論が並行世界論にどう関わってくるのか、結局想像がつくことはなかった。