第五講:反転世界という異分子
大学教授というひとは誰も彼も時間にルーズなのか、講義開始時間に間に合うように来る先生はまずいない。熱心な先生だと一分か二分の遅刻で何事もなかったかのよう講義を始めるが、ひどい人だと十分の遅刻はざらだ。だが特殊並行世界論を受け持つ庵郷教授は、過去四回で一度も、一秒の遅刻さえしていなかった。そして五回目の今回も、十秒前に扉を開けて講義室に入ってきた。
「お、揃っているな。じゃあ始めよう」
そして子どものようにも感じられる反応を見せて、ぱきゃっ、とペンのふたを取る音を響かせる。
「前回と前々回で、相対性理論について解説した。物理学担当とも相談をして、あくまで深いところに踏み込みすぎないよう話したつもりだが、ついてこれていたか?」
「……ええ、まあ」
やはり代表で返事をするのは俺だ。俺たち三人はだいたい前列に二人、後列に一人で講義室の後ろの方に陣取るのだが、そもそも俺たちしか履修していない講義でそれをやる意味はなく、横並びに座っていた。その真ん中を務めるのが俺で、必然的に教授は俺に向かって話しかける感じになっていた。
「さすがに京町大ともなれば、たとえ単位不足で卒業が危うくとも地頭はいい、というわけだ。なるほど……」
「完全に理解できてなくてもいいんでしたよね?」
「ん? ああ、その通りだ。要はこの世界に絶対的な座標系の原点は存在せず、観測者の立場によって互いの時空間が相対して変わる、ということが理解できればいい。光の速度はいついかなる場合も一定であり、歪み変化するのは我々の時空間の方だということだな。詳しい理論は他の講義に譲って、あくまでここでは体験を重視したい。これはすでに何度も言っていることだがな」
教授は最初に「並行世界」と板書した。
「さて、実はこの世界のほかに存在するあらゆる並行世界においても、光の速度は一定であり、光の速度を基準に世界の秩序が構成されている。光の速度を捻じ曲げてどうこうするといった異能力は存在するが、それでも基準が光速になっていることに変わりはない。この理由は、どの並行世界もここから数十万光年離れているだけだからだが、逆に言えばほとんどの並行世界は、我々もよく知っている物理法則に従って世界が動いている。ほとんどの世界は、だが」
「いわゆる異世界、というものですか」
「一般的な認識ではそうなりがちだ。いわゆる異世界を題材とした作品は数多く、そのほとんどが魔法を扱ったり、この世界には存在しない動植物が分布していたりと、枚挙にいとまがない。だが物理法則が全く異なるかというと、そうではない。私は君たちが思い浮かべる異世界のことを『広義の異世界』と呼んでいるが、太陽が東から昇って西へ沈むであったり、運動エネルギーが速度の二乗に比例することであったり、量子力学も解明こそされていなくとも、適用できる場合がほとんどだ。そのような並行世界に対しては、後の講義で説明するいくつかのパラメーターで、それぞれを定義できる。私はこれらについて詳しくやりたいし、実際に行く並行世界もその大枠を外れないところばかりだ。だが今回はあえて、そうではない世界、すなわちイレギュラーに誕生し、私たちの知る物理法則に従わない世界のことを取り上げたい」
俺たちの想像が及ばないそのような世界でも、実際は密接に俺たちと関わっていて、なくてはならないものなんだろう、と考えていると、それが顔に出ていたらしく教授は嬉しそうに破顔した。
「これまで説明してきたことの復習になるが、並行世界は既存の世界から『選ばれなかった選択肢を選ぶ』ことで分岐し、誕生する。だが分岐を議論するためには、何も分岐が起こらなかった原点となる世界の存在が必須になる。我々は便宜上、今踏みしめているこの世界を原点として定義しているが、数多の並行世界が存在する全天において、この世界が基準になっているはずはない。この世界が中心となって回っているというのは、私たちの主観に過ぎない」
なかなかそのあたりの認識は捨てられないが、教授の言いたいことは理解できる。地動説を唱えたガリレオを異端とみなし、糾弾したその他大勢の人々の気持ちが少し分かった気がした。
「……結論として、そんな絶対的な原点として君臨できるような世界は存在しない。先ほど種々のパラメーターをもって並行世界を議論すると述べたが、それもあくまでこの世界を便宜上原点と定義したうえで、そこからどの程度ずれているかで話を進めるんだ。だが、この世の物理法則はエントロピーの小さい方、有り体に言えば楽な方へと流れるようにできている。例えば、電流が抵抗の小さい回路を選んでより多く流れたり、化学反応がより活性化エネルギーの小さい方へ進んだりするように。宇宙においても絶対的な原点があった方が、新たな並行世界が誕生した際に発生する時空の歪み、それに伴う歪で不安定なエネルギーを引き受け、上手く逃がす機構があった方がいいという結論に至ったのだろう。不完全だが、それが試みられた痕跡がある」
教授は反転世界、と板書した。
「実は一般的な物理法則に従わない並行世界は、片手で数えるほどしかない。そうなるように並行世界の各パラメーターを定義したとも言える。だが先人が見出してきた物理法則というものはよくできていて、それが守られないと世界自体がうまく機能しないようにできている。だから何らかの手違いで私たちの知る物理法則が無視された世界ができたとしても、すぐに消滅するんだ。ところが、そうではなくむしろ歪みを全て引き受けた世界というものが存在する。それを私は、反転世界と呼んでいる」
ここで教授はA4裏表1枚にまとめられたレジュメを俺たちに配った。そこには年表形式で、出来事が数多く記されていた。獣人が活躍した時代やら、『転移者』『転生者』の果たした役割など、俺たちが普段生きている中で見かけないような用語があちこちで用いられている。これが反転世界というやつの歴史なのだろうか。
「反転世界において適用される物理法則、歴史背景はまさしく奇想天外、支離滅裂だ。あくまで私たちの世界の常識に照らし合わせれば、の話だが。例えば光源一つとっても、太陽ではなく年によって変わる恒星が基準になる。一日の長さは奇跡的にこちらの世界と一致しているが、暦は無茶苦茶と言う他ない。春夏秋冬はバラバラにやってくる上に、長さも年によって変わる。詳しいことに興味があるなら、私の著書を見てほしいところだが、それは君たちの留年回避と卒業が確定してからでも遅くないだろう」
他の世界の歪みを全て引き受けるのが、反転世界。例えばどんなところが既存の物理法則に従っていないのかは、教授が出した例だけではよく分からなかったが、ざっとレジュメを見渡すだけでも見慣れないことが多く起こっているらしいのは明らかだった。最後に参考文献として、教授が執筆した反転世界についての本の名前が並んでいたが、既刊だけで五冊。まだまだ続くだろうことが予測される上、こういう系統の本は大抵一冊当たりがとんでもなく分厚いのだ。卒業後にでも読んでみるか、と今は思うしかなかった。
「結局のところ反転世界は、他の世界で発生した歪なエネルギーを吸収する役割を担ったがゆえに、他の世界にとっての基準になるにはあまりに歪みすぎた。通常の3次元座標に複素数を盛り込もうとするかのような無茶な話で、私が開発した並行世界への移動を可能にする装置においても、対応できていない。今や反転世界に行くための専用の装置が別に必要になっている。しかもある出来事があって、今では反転世界もある程度エネルギーを吐き出してしまっていて、私や君たちが反転世界に移動するとそれによって再び歪なエネルギーが蓄積され、私たちの存在も歪められかねない。並行世界論の最終目的地、一般化した先にある世界であることに間違いはないのだが、このような講義で触れるにはあまりに複雑すぎ、そして危険すぎる」
教授がここで反転世界、の文字を消し、代わりにきゅっきゅとペンの音を立てながら板書をした。そこには蛇足、と記されていた。
「先ほど君たちは、私の著書が分厚く到底今の時期に読むべきものではない、と思っただろう。その予想は大方間違っていない。私もなるべく一般人にも分かりやすく、それこそファンタジーの世界に触れるような感覚で読んでほしくて、忌避されない分厚さを目指したのだが、難しかった。しかし一冊目に関しては何とか素人にも手を取ってもらえそうなページ数に収めることができた。もし時間が空いたりとか、息抜きがしたいということであれば、ぜひ読んでほしい。そして意見や質問、解釈を私に聞かせてほしい。これまで一人で構築してきた理論だから、単純に仲間が欲しいんだ。……この授業を履修する選択をしてくれた君たちにも、楽しい思いをさせてあげたい」
そう言ってから、教授は別にA4用紙を2枚配った。俺はぎょっとする。大学範囲の物理学に関する問題が五問ほど並んでいたからだ。
「優しいことを言った直後で恐縮だが、残念ながら楽に自分語りをして、学生に楽な実習をさせるだけで単位は出してはならない、と上からのお達しがあってな。私も今や大学の教員である以上、雇い主である大学の意向にある程度従わねばならないのも事実だ。心苦しいが、量子力学や流体力学に関する課題をいくつか出させてもらった。これまで君たちが履修してきた講義で扱っているのは確認済みだ。難易度は決して高くないから、その時のノートや教科書を見ながら、何とか頑張ってほしい。ちなみに上にはこれらレポートでいくらか点数をつけると申告しているが、実際は不出来だったからといって低い点数をつけることはない。もちろん出来が良ければ加点するつもりではいる。他の講義の課題で手一杯でできなくても咎めないから、優先順位は後ろの方でも構わないぞ」
それで今回の講義は終わった。一瞬面倒だと思った俺たちだが、何となく、本当に何となく、これをきっちり仕上げてきて、子どものように目を輝かせ嬉しそうにする教授の姿が見てみたいと思い直した。そういう子どもっぽさが教授にあると、俺たちはこの五回の講義で感覚的に学んでいた。
「……やるか、真面目に」
気づけば俺は、そう独り言を言っていた。